月を抱く | ナノ








彼の横顔が輝く瞬間を知っている。
どうしてあの頃のわたしは、同じ場所にいられればいいなんてそんなこと、思えたんだろう。









思い出はいつの日も




















「明日が何の日か知ってるかい、しのぶ」

風に邪魔されて前からの声はか細いけれど、すぐ耳元で呼吸器が動くのを感じるから、随分近くに感じた。

「バレンタインデーね」
「そのとおり。うら若き乙女は恋しい男子に愛をこめて作ったチョコレートを渡し……」
「まわりくどいわね。言いたいことがあるなら言ってみなさいよ」
「……チョコちょうだい。」
「だと思った。」

わたしは呆れた声を出してから、マフラーを首元まで上げた。
前を覗き込むとハンドルを握る彼の手は赤くなっている。……寒くないのかしら。

高校3年生の私達は、現在私立受験の真っただ中だった。こんなふうに時々予備校の帰りに自転車の後ろに乗せてもらう。私もあたるくんも第一志望は国立大学で、あんなに成績が違うはずなのになぜかクラスは一緒なのだった。正直あたるくんは高望みをしすぎだと思うわ。授業中もよく寝ているし。でも、「授業料がもったいない!」とかいって滅多に休まないから、それだけは彼にしては珍しく偉い――――いや、当然のことなのだけど。


「あたるくん手袋もってないの? 手、冷たそう」

立春を過ぎたといっても寒さの盛りで、今夜は特に暗く冷え込んでいる。この速さで吹く風は素手に受けるには冷たすぎるだろう。

「あー……あるにはあるんだけど……」
「けど?」
「ダサイから使いたくない」
「何よそれ? 背に腹は変えられないでしょ。どこにあるの?ポケット?」
「おわっくすぐったい! くすぐったいしのぶ!!」
「あ、あった。なんだ普通じゃな――――」

彼のポケットを探って見つけた毛糸の少し大きそうなグローブ。赤と白で編まれたそれは、少し見れば手編みのものであることが分かった。赤の地に手の甲側にだけ白い太いラインが真ん中を通っていて、そこには赤で短い英単語が編まれている。

「――……ラムらしいセンスね」
「だろ。ダサすぎて使えやしないっつーの」
「今は誰も見ないからダサくても平気じゃない。すればいいのに」
「いやじゃ。んなもん。」

あたるくんは相変わらず猫背でペダルを同じ速さで漕いでいる。吐いた息はこちらに少し流れて、すぐに後ろに消えていってしまう。少しあがった息遣いや自転車のライトの摩擦音、車輪の回る音がシャッターの降りきった静かな商店街を抜けてゆく。カーテンの締まった二階の窓も電気は軒並み消えていて、広い感覚で立っている街灯と、ときどき思い出したように通る車のほか、私たち以外のものは全て眠ってしまっているようだった。
左右違う英単語を綺麗に編み込まれたその手袋を見る。ラムは冬になる度にセーターや帽子をあたるくんに編んであげている。二年前のセーターは少し粗が目立ったけれど、すっかり腕を挙げたようだ。この手袋だって恥ずかしい単語に目を瞑ればデザイン自体なんらダサくなんてない。
こんなに寒い夜でも断固としてこの手袋を身に付けないのは、わたしが後ろにいるからだろうか。
あたるくんはすっかりずるい人になったなあと思う。
本当にいらないのなら制服のポケットに毎日入れたりしないのだろうに。そんなこと私が気付かないなんて、気の回る彼なら決して思わないだろうに。

自転車が角を左折した。進行方向右向きに座っていたから思わぬカーブに驚いて彼の制服を引っ張ってしまった。
「ごめんね」
反射的に謝罪の言葉が口をついた。でも制服の余分を掴んだ手が、なかなか離せなくて。
「いいよ。怖かったら掴まってて」
むしろこっちは歓迎なんだけど。などと冗談を言う、あたるくんの声が白く染まる。それを追った先に半分の月が黄色く光って浮かんでいる。私は思わず息を止めたくなって、無言で彼の体に腕を回した。
あたるくんの猫背の背中はいつだって暖かくて、情けなくて頼りない。私は思い出したくもない、昔のことを思い出してしまう。
あの頃わたしは、どうして彼が離れていってしまうことを、平気だと思えたのだろう。
どうして、彼が恋をしていることに気付いていながらその横顔をただ隣で見ていられたのだろう。彼の横顔が特別の誰かを見つけた途端に輝くのを、いつも隣で見ていた。なのにそれを見ている自分の胸が少しずつ軋んでいたことには、随分痛手を負うまで気が付かなかったのだ。
彼の特別の位置をとうに手放した後で、その場所にいる尊さを身を持って知った。彼がこの曲がった背骨の内側に特別の一人の存在を確かに持っている――――その事実に焦がれてしまう。私はもしかしたら恋をする彼に恋をしたのかもしれない。
彼の横顔が、輝く瞬間を知ってる。それは、どうしたってその光の先には居られないから、だから痛いほど、そのまばゆいばかりの輝きを目に入れることができるのだ。
同じように体温に触れてもあたるくんはあの頃のあたるくんじゃない。あたるくんの絶対の位置にはもう私は存在しない。かつては確かに、そこにわたしがいたのに。
あたるくん、あの時、あたるくんの味方をしてあげなくてごめんね。
あたるくんを置いて帰っちゃってごめんね。
30分も待たせてごめんね。いつも怒ってばかりいて、ごめんね。
あたるくんは昔からいつも、頼りなくて情けなくて優しかった。どうでもよいことにはすぐ声を荒らげるのに本当に迷惑をかけたときははいつも決して怒らなかったから、わたしは彼に言えなかった言葉がたくさんあるのだ。今思い出したって言えない言葉ばかりだから、もうそれらを記憶から蘇らすことは滅多にしないけれど。

「……ねえ、あたるくん」
「なーに。」
「月がね、綺麗」
「月? そーかあ?」
「綺麗。とっても」
「んー、俺は満月が好きだなあ」

まあ半分の月も悪かないけどさ、といって、あたるくんはまた少しだけ背中を揺らして笑う。

「で、しのぶ……明日の件だが」
「チョコならあげないわよ。」
「なにいいいいいい」
「当たり前でしょ。ラムにもらいなさいよ」
「あんなもんはチョコとは呼ばんのだ!」

去年、あたるくんがバレンタインの翌日唇を大仰に腫らして登校してきた。ラムのチョコに唐辛子やらブラックペッパーやらが罰ゲームのように入っていたとか。彼のあの顔を明後日また見ることになるのかと思うと、少し笑えた。

「これ、返すね」

手に持ったままだった毛編みの手袋と一緒に、小さな箱を彼の制服の右ポケットへそっと滑り込ませた。
渡すなら今日しかないと思ってた。コートのポケットに忍ばせていた、小さな白い箱。
今日はまだ2月13日。だからこれは親愛の証でもなんでもない、偶然、彼のポケットに間違えていれてしまった、妙においしくできたただの一粒のトリュフ。

「しのぶ〜、ちょこ〜〜〜」
「何言われても明日は私は友達にしかあげないんだから」
「そんなご無体なー」
「あ、でも面堂さんにはあげようかしら」
「はあ〜!? やめとけっ馬鹿が移るぞ」
「なんでよ。だったらあたるくんの自転車の後ろに乗ってるわたしはとっくに手遅れだわ」

好きなんて絶対言わない。
あたるくんを好きな人をあたるくんも好きならば、私はきっと笑って彼の背中を押してみせる。
そのためなら思ってもないことも言えるし、冷たく突き放すことだっていとわない。絶対に伝わらない愛の告白なんてして寂しさを紛らわせてみたりなんてして。
だけどもうすこし、息を染めるこんな静かな夜には、もうすこしだけ素直になれたらいいのにと思うのだ。

「……っていうか、あたるくんの鞄随分軽いけど」
「筆箱しか入ってないもん」
「……教科書は? 過去問は?」
「家に忘れた」
「あんったねー……そんなんで大丈夫なの?」
「さー。どっかは受かるよ」
「そりゃあ……まあ、ピンからキリまであるものね、どっかは受かるでしょうけど……」

あたるくんは予備校であんなに寝てるけど、家では頑張っているのかも知れない。少なくとも水準は超ていないとクラスは落とされてしまうはずだから。……まあ、希望的観測、だけど。

「大学生になったらさ」
「うん」
「やっぱ、可愛い子いっぱいいんだろーなー」
「そういうことばっかりなんだから……」

夢のようだった時間が終わろうとしている。もうすぐ訪れるこの制服を畳んでしまう日のことを考えるとやっぱり切ない。どんな表情で私は、すっかりくたびれたこのセーラー服を箪笥の奥に仕舞うのだろう。みんな私と同じように寂しいと思うのだろうか。たとえば、今すぐ前にいる彼も? みんな、寂しいと思いながらそれぞれの場所に歩いていくのだろうか。もしそうであるなら、嬉しい。
あの廊下で笑いあった時間も、グラウンドを駆け回った時間も、教室で他愛もない会話を交わした時間も全て、思い出すだけで強くなれる秘密の呪文のような思い出として離れていてもみんなと共有できるのなら――――それはとっても素敵なことだと思う。やっぱり少しだけ寂しいけれど。
思い出って幸せになるためにあるのだろうか。思い出したくもない夏の日の遊園地や冬の雨の日――――あんな記憶もいつかは、蘇らす度に笑顔になるような幸せのフィルムになるのだろうか。そんな日が来ら、私はもしかしたらそれもまた、少し寂しいと感じるかもしれない。
それでも時間はきっとそんなふうに私たちを変えてゆくのだ。だから限りある今は、どんなにそれが不毛なものでも今の幸せのために生きていたいと思う。触れている間はそれがつかの間のものと分かっていてもやっぱり涙が出るくらい幸せなのだから、きっと今しばらくは辛くたって隣にいてほしいと思うのだ。彼の特別に見つめる先に他の人がいても、彼の中にどんなに入る余地がないと分かっても、もうすこしだけ、同じ時間にいられる間は。
半分の月は空の真ん中から少しだけ傾いて、とても静かに、眠りにつく街を見下ろしている。息を切らしたのか彼の背中が大きく揺れた。月が綺麗だよ、とっても綺麗だよ、あたるくん。声に出すことはなく私は一人で月を見上げた。

こんなただの小さな一つの冬の夜、今は切なくて涙がでそうな本当に小さな私の幸せと寂しさも、あたたかさを伴っていつかは優しく思い出せますように。













本当はもう分かってたの
あなたがどんなにその人を好きなのかも
隣にいるわたしじゃ勝ち目がないってことも
本当はもう知ってたの
あなたが恋に落ちてゆく
その横で私は
そっとあなたに恋をしていたの
何にも気付かないで笑うあなたの
横顔をずっと見ていました

を脳内リピートしまくってかきました(◎_◎)
ここしか分からんからここだけを永遠にリピート(◎_◎)

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