『どんな快楽よりも愉悦よりも一番に、あなたの苦悩を知りたいのです』 a-1 夢を見ていた気がした。 記憶を辿ると手繰り寄せた糸は引いた先から幻のように消えてしまう。 何か――――何か、飲み込まれそうな大きな衝動。自分でも気付かないまま自分の中に育っていた禍々しいほど純粋な衝動。ただ一つこれだけあればいいと切実に何かを強く思った。 誰かを強く傷つけて、そうしてまで欲しいものを自分だけの鏡に閉じ込めておこうとして、必死になっていた。 それはとってもがむしゃらで、粗暴で、でも限りなく耽美でありえないほど幸せな―――― 鏡のような夢の中で b-1 「……ほんとに寝てんのか」 二度三度名前を呼んで頭を叩いてやっても(軽くだぞ軽く)うんともすんとも言わないから、ようやくその結論に落ち着いた。 仕方なく炬燵の対面に陣取り直す。 いつもうたた寝して起こされるのはこっちの方だからどうしていいものか分からない。 とりあえず――――、放っておくことにした。 今日は月曜日。休み明けからこいつが寝不足の理由はまあ大体察しがつく。 カレンダーの示す今日の日付が、2月の13日だからだ。 「こいつ昨日いっちんち中UFO篭ってたからなあ……」 はてさて、一体今年はどんなゲテモンを食わされるやら。 a-2 「夢なんだよ」、と言い聞かすように言ったときの、彼の目を思い出していた。 どうしてあの時、彼は自分を哀れんだのだろう。 時々、よく見知っているはずの彼のことを、もしかしたら自分は全く分かっていないのではないかという恐れを抱くことがある。もしかして全く逆の方向に、彼のシルエットを伸ばしてしまっているのかもしれないと。 そしてその焦燥が過ぎるのはいつも、彼が目の奥を深くして自分を見つめるような時だった。 自分は、彼の快楽や歓喜をすぐ側で共有することができる。彼に自分の思いのたけを伝えることができるし、怒りや悲しみを強くぶつけることもできる――――それら全てが真摯に柔軟に受け入れられるかどうかはまた別の問題としても。 いつも隣に寄り添って、彼の目まぐるしく変化する表情や感情の色を、時折見せる優しさや可愛気のない悪態や皮肉の混じった照れ隠しを、目覚めてすぐの寝癖の角度も夕陽に照らされた疲れきって萎んでしまいそうな髪の毛の色を、彼に関する全てを自分は目にすることができる。できると思っていた。 b-2 ……しかし寒くないのか。本当に。 どてらを羽織って炬燵に入っていたって、あまりの寒さについ背中は丸まって両手は炬燵から出せない。――のが、普通の人間の感覚のはずだ。 木目のテーブルに顔を倒してすやすや眠っているこいつは、こんな真冬でもビキニ。全く馬鹿げてるが「普通の人間」ではないのだから道理は通じない。本人曰く本当に全く寒くないらしいし日頃の様子を見ていてもそれはどうやら本心からの発言のようだが、いかんせん今は俺の目に寒いのだ。眠った顔の横に無造作に曲げられた腕は肩まで素肌。寒すぎて見てられん! 決して風邪をひかないかとか寒さで起きてしまわないかとか、そんな心配をするわけではない。俺が見ていて寒いから迷惑なだけだ。くっそ、本当は炬燵から出るのも寒いが致し方あるまい。音をたてないよう立ち上がって押入れから毛布を一枚取り出した。 a-3 彼は、自分のことをどこまで知っているだろう。 怒っていても人を傷つけないこと、彼の笑顔が多くの人を救っていることや彼が立っているだけで嬉しいと思う人間がいることを、彼は分かっているだろうか。 自分があんな目をすることを、彼は自身で知っているだろうか? 彼の目や喉の奥を深くまで潜っていった先、肋骨の奥にもっている彼自身の感情の全てを、彼は分かっているのだろうか。 b-3 まあ、寒くないってこた分かってんだが。 言い訳のように胸の内で繰り返しながら、微かに上下する肩の上から薄い毛布を被せた。 目覚めてしまわないかと一瞬心配したのは杞憂だったようで、閉じられた瞼は少しも動かないし呼吸は依然穏やかに打たれている。 ……夢でも見てんのかな。 すぐ横にそっと膝を下ろしてその顔を覗きこむと、ふわりとあたりから甘い香りがした。どこかひどく近い覚えのある――――そうだ、うちのシャンプーの香りだ。俺も毎日使ってるやつ。 自分で毎日使っているものなのにこいつから香るだけでどこか違った匂いに感じた。もっと柔らかくて甘ったるくて、妙に擽ったいけどなんか側に置いておくと安心する、変な匂いだ。 ……へんなの。 a-4 夢を見ていた気がするのだ。 自分でも恐ろしくなるほどの自分の中の大きな衝動に、無意識に従わされていた。 自分の本当に欲しいもの以外のものが世界から消えてゆくことを自分は心から望んでいた。なんでもないように日々を笑って過ごしながら、本当は全てが邪魔だったのだ。狂おしいほどに独占したくて、ただ自分だけを見て欲しくて、自分だけに触れて欲しかった。心のどこを探しても、それ以外に欲しいものが何一つ見つからなかった。 自分の心の中を奥まで見渡してはじめて、恐ろしくなったのだ。――――こんなにも寂しい場所に立っていたのだと知って。 b-4 ……って、何やってんだろ。さっきから炬燵から出てるだけで寒くて仕方ないのに、こいつの寝顔を見ているだけで5分くらい経ってるんじゃないだろうか。何やってんだ俺は。風邪ひいたらどうしてくれるんだ。 ――――思い出していたのだ。去年の文化祭前日のことを。 あれは、悪い夢だったのだろうか? 時が経つにつれあの日々――――という単語が指すものがどれほどの質量を伴うべきなのか定かでないが――――の記憶は不自然なほど激しく削られていって、メガネもサクラさんも面堂ももう何ひとつ覚えていないようなのだ。今はまだ辛うじて少しは思い出せる俺も、いつかはすっかり忘れてしまうのかもしれない。 黄色い砂埃、暑い日差し、崩れかけの校舎、がらんどうのスーパー……なぜだか克明に覚えている現実味のない生活の断片。 あの夢は確かに存在したものなのだろうか? 一つの夢をみんなで共有していた事実は、果たして本当にあったのだろうか? そんなことは本当にありえるのだろうか。 それを確かめる方法は俺には一つしか思いつかなかった。“確実に覚えている人間”に聞くことだ。それは―――― 「……やっぱ覚えてんだろうな」 あの“夢”をつくりだした張本人、目の前で眠っているこいつ以外にありえないだろう。 b-5 正直今でもとても信じがたい。 こいつがああも獰猛な精神を宿しているというのは、あれからもずっと(半ば仕方なく)隣に居続けてきた俺にもよく分からない。 だってこいつはいつも笑っているし何食っても幸せそうな顔するしどこ行っても楽しそうにするし、他の女の子と喋ったり親密なコミュニケーション取ろうとすると喚き散らすけどやめるとそれはそれで心配してくるのだ。 あれが演技ということはあるまい……と、思う。 現実に戻った瞬間、こいつは、哀れなくらい悲しそうに開いた瞳を揺らしていた。 悲しかったのだろうか。それは、自分の望んだ世界が壊れてしまったから? それとも――――それとも、自分の中にある恐ろしい淵を一瞬でもその目で、覗いてしまったからだろうか? まあしかし、 「こいつ能天気だからなあ……。」 目の下に色濃く隈をこさえてすやすや寝ているこいつを見ると、そんな心配は無用な気がしてしまうのだ。 俺はきっとあの夢のことをこいつに問うことはきっとしないだろう。 その必要はないし、それを聞いて確かめることはつまり、どうしてあそこから戻ってこられたのかという点について言及する必要などが出てきたりする可能性もあって、まあ……つまらんことになりかねんしな。 a-5 彼がほんの少しでも自分のことを思っていてくれているのなら。 それならば彼の中にも同じ寂しさが巣食っているはずだ。 人を恋うることはこんなにも、寂しい。 それでも自分は彼を誰よりも好きでいたいのだ。 この宇宙のどこの誰にも負けないくらい強い気持ちで、ひたすらに彼のことを好きでいたい。他の誰が何を言ったって、自分は誰よりも、彼を想う寂しい場所に一人で居座っていたい。 こんなにこんなに寂しくても、隣にいてくれる彼に笑いかけるだけで自分は救われる。好きな人に好きと言えることはこんなにも強く自分を生かしてくれる。 自分でも恐ろしいくらいに。 もし彼も同じ気持ちをほんの少しでも持っていてくれているのなら――自分はきっとそうだと信じているのだけれど――、言葉に出すことのない彼の寂しさは、いったいどこへゆくのだろう? b-6 この薄い皮膚の下の宝石のような青い目は、どんな汚いものを見ても濁ることはない。 なぜだか確信に近く、そう思っている。 あの時の夢のことをこいつがもし忘れてしまっているのならそれはそれで良いと思うのだ。幸せな記憶として残っていても構わない。全てを克明に覚えていたとしても、こいつがこいつのままで何も変わらずにいるのだからその記憶はこいつにとって影を落とすような恐ろしいものではなかったのだろう。それを思えば安心さえする。 あのとき、目覚めたこいつの目が悲しみを湛えているのを見たとき――自分は無様なくらい動揺してしまった。この瞳が深い悲しみに沈んでしまったら、暗い感情に濁ってしまったら、と、瞬時に最悪の場合を考えて背筋が冷えた。 自分を見るあの目が淀むことがあれば、俺は――――率直に恐ろしい。なるべくならそういう事態は未然に防ぎたいと思う。 別に変なそういうのじゃなくてな。ただ胸くそ悪いから。 地球の人間じゃないからだろうけど、こいつの肌はみょーに肌理が整っててまじまじと眺めると人のものと思えなくなってくる。顔だって黙ってれば上の上だし、角と電気さえなきゃあ普通のかわ……まあ見れるかなって程度の女の子だ。髪だって同じシャンプー使ってるくせになぜかこいつだけこんなサラッサラしとるわ。 ……本当、なんでこんな当たり前になっちゃったんだろうな。隣にいるのが。 目まぐるしく過ぎるくだらない日々の中でふと立ち止まって振り返る瞬間にであう度に、変な感慨にとらわれる。 最初は本当に迷惑してたはずなのに。 気がついたらもうこれが当然の日常になっていた。 ここまで侵食されてしまうと、いなくなった生活というのはもはやうまく想像できないのだ。 だって女の子をいくら追っかけても電撃が降ってこないなんてそんな、イージーモードが許されるのは小学生までのはずじゃないか! 当たり前のものがいつまでも当然にそこにあるなんて確証はどこにもないのだ。 一束掬った髪が、甘い匂いを放ちながら指の隙間をするりと落ちていった。 こいつがいなくなったら――――――やっぱ、いやだな。 「……まいるよなあ」 勝手に押しかけて勝手に居座って勝手に俺の生活の邪魔しやがって。 ほんっと……迷惑だ。 a-6 「……だー…りん?」 うっすらと開いた視界の向こうに、茶色い後頭部。 その髪からは自分と同じシャンプーの匂いがする。 思わず手を伸ばすと、柔らかい髪はくしゃりと手の中で曲がった。 「寝てるの?」 返事がない。きっと寝ているのだ。 自分が眠ってしまったから退屈だったのだろう。 そういえば今の短いうたた寝の間になにか――――夢を見てた気がする。 なにかとても、切ないほど身に近い、深刻な内容だった気がする――――けど、すっかり忘れてしまった。 起き上がって見ると、彼はすぐ前にあるというのに炬燵に入らずそこに座り込んだまま突っ伏して眠っている。 「もーダーリン、風邪ひくっちゃ……地球人は弱いんだから」 毛布でもかけてあげようと立ち上がった拍子に、何かが肩から滑り落ちて後方にぽとりと落ちた。 「?」 振り返った足元には水色の薄い毛布。自分で持ち出した覚えはない。 眠っている彼の顔をもう一度見る。 そういえば、テレビを見ていたときは隣じゃなくて向かいに座っていたような気がする。 「……ダーリン」 起こしてしまわないようにと、ゆっくり近づいて、眠る彼の頬にキスをした。 「ありがと。大好き」 明日は、作ったチョコをいっぱいいっぱい、食べきれないくらいたくさんあげよう。彼がちっとも寂しくないように。素直に喜んでくれなくたって、自分は彼の寂しさを少しでも満たしてあげられるように、いっぱいいっぱい、めいいっぱいに好きだと言おう。 そんな明日を想像するだけで体は今にも浮き上がりそうだった。この気持ちを明日にとっておくために、今日は起こさないでこのまま帰ろう。 炬燵の布団を引っ張って彼の体をすこしでも多く暖気の中に入れ込み、丸まった背中にそっと毛布をかける。寝息を確認してまた一つ、頬にキスをした。 「おやすみダーリン」 窓の外は風が吹いて気持ちいい。冬は星が遠くまでよく見えるから、帰り道はいつも気分がいいけれど、今日は格別だ。 いつしか、彼と一緒に夜の空を飛んだことがあった。自分には息をするようなことなのに彼はひどく感動して興奮していた。彼にもこの星空を見せてあげたいと思った。彼に、自分のみる全てを見せてあげたい。またそれを同じくらい、彼の見る全てを見てみたいと思う。今は閉じられた彼の目が意識をもって開いているとき、その目に映るすべてのものが、彼にとって優しいものであってほしい。一つの目を二人で共有できたらどんなにいいだろう。そうしたら彼の悲しいこともさみしいことも言ってくれない気持ちを全部、わかってあげられるのに。 いつもよりゆっくりと飛んでいるから吹き付ける風はゆるやかなのに、頬は奇妙なくらい上気していた。 ――――早く明日にならなればいいのに。 ついさっき隣にいたのにもう会いたいなんて、自分はとっても燃費が悪いのだ。 あたるー、そろそろ休みなさい。リビングから和室に母親の声が届いた。 「はいはい……」 起き上がった彼の顔は茹で上げたように真っ赤だったが、幸運にもそこには誰もおらず、また誰もくる気配もなかったので、彼は火照った顔を一人手のひらで冷やしていても誰にもそれをからかわれることはなかったのだった。 タイトルから入ったので安直に映画ネタをもってきてしまったのですが、ふつうにすげーむつかしかったです とうぜんだろじぇーけー お互いがお互いのこと守ってあげられたらいいな〜と、思ってたらいいな〜と、思って書きました^^ |