「あたるくん、ご飯」 居間で寝てたらキッチンから声がした。まあ、居間とかキッチンとか言っても1部屋しかないから同じ箱だけど。 特に必要性を感じなかったからなにも返事はせず、重い上体を起こした。少し前進すればもう食卓だ。小さなちゃぶ台の前に胡座をかいて座り直す。 出された食事は昨日のものと対してかわらない似たようなものだった。ちなみに、昨日も一昨日のとそっくりだった。そんなことも特に言うほどのことでもないし空腹が満たせれば何でもよかったから、茶碗の前に出された箸を取る。先っぽが片方かけている。 無言で食事が始まる。しのぶが自分の箸を持ってきて遅れて食卓に着いた。 「いただきます」 しのぶはいつでも律儀に手を合わせてから箸をつける。そういえば、学生の頃からだった。 特に喋ることがないから黙っているだけなのに、しのぶは随分気を使って笑う。こんなことは学生のときはなかった。 「でね、追いかけたんだけど間に合わなくて」 「……へえ」 「結局わたしがお金出したのよ。酷いでしょ」 「んー」 「もう、おかげで損したから、お菓子買おうと思ってたの、棚に戻しちゃった」 「あー」 「おいしそうだったのになあ」 しのぶが喋って、しのぶが笑う。合間に俺が適当な相槌をうつ。 これが今ではすっかりこの部屋の会話の全てだった。 煮物も魚もまだ半分ほど残っていたが、とりあえず腹に溜まったので箸を置いた。このあともどうせ寝るとかシャワー浴びるくらいだし。 カチャン。木のちゃぶ台に安いプラスチックの箸がぶつかる音。 「ねぇ、あたるくん」 まるでその音を合図にしていたかのように、しのぶが急に神妙に名前を呼んだ。……面倒臭い。気にせずさっきのように横になろうとした。 「引っ越さない?」 「――――は?」 しかとを決め込もうと思っていたのに、予想外の言葉に思わず声が出た。 片肘を床についた姿勢のまま硬直した。 「2人で住むにはちょっと狭いし……もう古いし。引越そう、あたるくん。できたら、違う町に」 「……」 何を言っているのだろうか。 2人で住む? もっと広くて新しい部屋に? ここではない違う町に? 「……金がねぇよ」 「あるよ、お金なら」 即答だった。 顔をあげると、しのぶは心なし元気の足りない笑顔ではあったが、笑っていた。 そういえば、学生のときみたいな笑顔はもう何年も見ていないような気がした。 「わたしがいつも日中どこに出かけてるか知らなかった?」 知らない。今そう言われてもそのことに関してなんの興味もなかった。 無反応の俺を見て、自嘲するように少し俯いて笑った。 「……昔は、こんなんじゃなかったのにね」 「……」 しのぶと2人で暮らすようになってどのくらいだろうか。 2人で暮らすといっても睦び合って同棲するようになったわけではない。 金も居場所もなくなった俺がしのぶのところに転がり込んだといっても、可哀相に思ったしのぶが俺を介抱したといっても正解だ。お互いになんとなく、お互いしか側にいる人間がいなかった。 しのぶは変わった。 「高校のときのこと、覚えてる?」 覚えていないわけがない。 でも特に返事をせず、割れた親指の爪を見た。 しのぶは気にせず続けた。 「あの頃は、毎日みんな一緒で、騒がしくて楽しくて、それが当たり前だった。今思い出すと夢みたい」 割れた部位を、手前に引っ張る。 爪の下の弱い皮膚が鋭い痛みを訴える。 「わたしはきっと短大卒業してスーツ着てるOLになって、あたるくんはだらけた大学生になってサラリーマンとかになって、面堂くんはいい大学に行っておうちの会社を継いで、みんな正しく大人になって、それからもずっと一緒なんだと思ってた」 爪の下から血が滲む。 「どこで間違えたのかなって考えても、分からないの。そのうちね、間違えたわけじゃなくて、楽しかったことは全部、夢だったんじゃないかって思えてくるの」 勢いをつけて引っ張ると、何かが破れるような感覚と共に湧き出るように血が流れてきた。 爪はカケラになって取れた。 「しのぶ、ティッシュ取って」 「え?」 言ってから、名前を、久しぶりに呼んだことに気が付いた。 俺の指先を見て一気に血の気をひかせたしのぶは、しかし救急箱を持ってきて甲斐甲斐しく手当をした。 しのぶを抱いた軽い疲労感とまどろみの隙間で、ぼんやりと横に眠るしのぶの黒髪とそこから覗く耳のかたちを眺めていた。 ――――楽しかったことは全部、夢だったんじゃないかって思えてくるの。 そう言って俯いたしのぶはずっと幼く見えて、学生のころを思い起こさせた。 時折、こういうふとしたときに制服を着ていた頃の面影が見え隠れする。 その度に違和感を覚えるのだ。 しのぶの話振りからすると、俺としのぶは学生のときから懇意にしていたらしい。 高校のときは随分と好色者だった俺は、女子を見つければ追いかけ回していたが、そのなかでもしのぶとは確かに長期的に付き合っていた。俺の記憶と照らし合わせても間違ってはいない。 指を伸ばして、しのぶの髪を一度梳いてみる。 記憶の中のサラサラと落ちるような感覚とは大分変わって、ところどころで指が突っ掛かる。 しのぶの髪を梳いた記憶。 指に触れた記憶。 首筋にキスを落とした記憶。 そういう一つ一つを思い出す度に、どこかに痛みに似た違和感を感じる。 そして深く思い出そうとすると、まるで電撃のような激しい光に邪魔されて、映像が蒸発してしまう。 もうずっと思っていたことだ。 ぼんやりとしているけれど、微かに、覚えている気がすることがある。 自分は、あの黒い学生服を着て過ごしていたころ、心の中で深く愛していたただ一人がいた気がする。しのぶよりも学年のマドンナよりも誰よりも。 髪に触れたとき。 手を繋いだとき。 抱きしめたとき。 記憶がなくても感覚が覚えている。 誰だったのかも、いつどこでだったのかも思い出せない。でも、確かにそんな記憶の残滓のようなものが、ずっと頭の片隅を漂っている。 誰一人そんなことを覚えていないようだったから俺はこのことを口にしないことにした。 俺も含めて、だれも覚えていないのだ。 もしかしたらただの俺の妄想なのかもしれない。 心のなかで神格化した女性像を自分の中でだけ崇め続けていたのかもしれない。 ――――楽しかったことは全部、夢だったんじゃないかって…… そう、夢なのかもしれない。 例えばそんなオンナノコが存在していた世界を想像する。 俺の隣にはいつもその子がいて、女好きの面堂はその子目当てに度々寄ってきて、面食いのしのぶは面堂に釣られてついて来て、騒がしい俺達の回りにはいつも多くのギャラリーがいて、先生は怒って追いかけてきて、毎日毎日お祭り騒ぎをしている。 そんな記憶のなかの時代よりも何倍も何十倍も幸せな世界は、何故か心にしっくりくる。想像しながら目を閉じる。次に目を開けるときは、カーテンから零れた昼過ぎの光を映し出す白い天井を見て、隣にはもう人の体温も残っていない一人のベッドで体を起こす。次の朝、同じ朝だ。俺はありえなかった幸せな世界を思いながら、沈んでいくように眠りに落ちた。 ×
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