森と君と | ナノ
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 1.迷った木々のなか



いつの間にか朝が来て、今日の中で、一番明るく町を照らしていた。空は青々と輝き、雲ひとつない。


クリーム色の四角く大きな建物の屋根の上に、一羽の白い鳥がとまった。そして、何かを呼ぶように三度ほど、ぴぃ、と鳴いて、ばさばさと翼を広げた。その鳥の目は、建物の入り口の奥にある大きな窓から見える、まだ、あどけない少年を映している。

受付、という札が吊るされたカウンターの前で、彼は、耳がやや隠れる程度に切られた、少し癖のある青に近い黒髪をくしゃくしゃと乱していた。



「フレネザがまた逃げ出しただって!」

思わず大きな声が出てしまい、恥ずかしくなり、慌てて口をおさえた。ここは、この町で一番大きな病院の、受付だった。

フレネザは、セイにとっての特別な存在だ。

小さい頃、この病院にセイが入院したときに同じ部屋で出会い、仲良くなり、よく一緒に遊んでいたことがあったのだ。

小柄な少女。いつも短いズボンをはいていて、ぴょんぴょんとよく跳びはねる身軽さがあった。言葉はあまり多くは、話せないらしい。けれど、高くて力強い、美しい声をしている。

記憶の一部を喪失しているらしく、花や人、物の名前が曖昧だった。いつも、どこか寂しそうな、冷たい目をしているが、どきどき、笑ってくれた。セイはその笑顔が大好きで、彼女に会うために、ほとんど毎日、病院まで行っていた。


だが、フレネザはセイが病院にいた頃から、病院を抜け出すことがしょっちゅうあった。それは、セイが退院してからさらに頻繁になっているような気がする。

閉じ込められていると、どきどき不安になるのだと彼女は以前、そう言っていたのを思い出すと、複雑な気持ちではあったが、それでも、彼女は患者なのだ。何かあっては困る。

くしゃくしゃと髪を触りながら、唸ってみる。彼女は自分のことが、嫌いになったのだろうか。
(それでも、ぼくは……)

「落ち着いて、セイくん……今、何人かのスタッフが、探しにいっているから、もうじき……」

20代くらいの可愛らしい女の看護師が額に汗を浮かべながら、取り乱し気味なセイの腕をそっと掴む。それを振り払った。

「ぼくも、探しにいきます」

後ろから、待ってと声がするが、構わず外に走り出る。頭上から、ぴぃ、と高い音。見上げた屋根から、白い鳥が飛び立ったのが見えた。

一瞬、鳥はこちらに視線を合わせたような気がしたが、考え過ぎかもしれない。自分を落ち着かせるために、大きく息を吸い込む。


(彼女がどこにいるかは、だいたい予想ができる。たぶんだけれど……)

セイは、数日前にフレネザと交わした会話を思い出した。




「こ、と、し、の……ひ、ま、わ、り」

極端にばらばらの声音が、一音ずつ、確かに言葉を紡いでいた。

ある日の夕方、クリーム色の壁が、窓から見える夕焼けで、淡いオレンジの光を浴びていたのを思い出す。
セイは、その日もいつもと変わらずフレネザに、会いに行った。
普段、看護師にも医師にも話をしない彼女は、不安定な自分の会話の声音に、怯えていた。

だが、セイの前では不思議と、自分から話そうと、伝えようとする。初めて会ったときから、そうだった。
まるで何か、自分にどうしても言わねばならない大切なことを、いつか言うための、覚悟を決めようとしているような気がする。


「向日葵が、どうした?」

いつものように、ベッドのそばの椅子に腰かけたセイはゆっくりと瞬きをする。上半身を起こした状態で、セイを見つめながらのばされた手を、そっと握った。
「……見たいの」


フレネザは言いにくそうに小さく、そう言った。

去年、向日葵畑の写真を見せたことがある。彼女はその写真を気に入っているらしい。

握られた手はカタカタと震えて、既に、泣きそうだった。

誰かに言葉を伝えることは、彼女にとって常に、苦しみを伴うことなのだ。
顔を歪め、小さく、苦しそうな呼吸をしている。
それでも、彼女はセイに懸命に、伝えようとしている。その姿は、愛しい。


「そうか、それなら、今度行くときに写真撮ってくる。今年のも、綺麗に咲いているんだ」

できるだけ明るく言う。心配も、同情も、今、彼女にはいらないのだと、なんとなく、そう感じているからだ。

彼女は、こくこくと頷いて、嬉しそうに笑った。雲ひとつない晴れ空のような瞳が、静かに影をつくる。

普段は、それを見るだけで、あたたかくて幸せな気持ちになれたのに、あの日は――

(なぜだか、泣きそうな気持ちになったんだよな……)

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