for XXX *
「波江?」
日曜のせいか、昼間でも学生を多く見かける街を抜けて臨也がマンションに帰ると、部屋の中が何やら粉っぽかったり、洋菓子の甘ったるい匂いが部屋中に漂っていた。
「波江?どうしたの」
うさぎ柄のスリッパでパタパタと音を立てながら、波江のいるらしいキッチンに向かう。
キッチンでは右手で粉を払いながらむせこんでいる波江がいた。
「…っ何でもないわよ、放っといて」
「何でもないようには見えないんだけど」
履いている細身のパンツにしまっておいた財布を革張りのソファーの上にポンと投げると、臨也は波江の背中を見守っている。
無関心そうに見えて、もう一度むせ始めたら今度は背中を叩いてあげよう、そういう姿勢で。
そんな臨也を知ってか知らずか、波江はコップに水を注いで一口飲むと、ふぅ、と息を整えてまた何やら作業を始める。
「何してるの?」
「バレンタイン」
「え?」
「バレンタインでしょ、もうすぐ」
そこから先は聞かなくてもわかる。次に来る言葉は「誠二にあげるの」だと、臨也はすぐにピンときた。
「弟に?」
「そうよ。今年はパウンドケーキでも作ってみようかと思って」
毎年毎年バカみたいにチョコレートばっかりってのもどうかと思うし。
そう言いながら手を休めない波江の表情は真剣そのもの。
相手が弟でなければ、本気で応援してあげたいくらいの恋心が溢れている。
「でもそれ、ケーキ丸ごとあげるわけ?」
「問題はそこなのよね。余すのももったいないし。あなたの妹達にでもあげようかしら」
「妹にあげて俺にはくれないの?」
「…欲しいの?」
図星なのか的外れなのかわからない表情で、臨也は波江から目を離さない。
波江も両腕でボウルを抱えたまま、臨也を横目で見ている。
「二人にあげて、余ったらね」
ため息まじりにそう呟くと、波江は止めていた手をまた動かし始める。
「波江ったらつれないなぁ」
そう言いながら呆れ顔で笑う臨也は、財布を手にするとまた玄関に向かう。
「出かけるの?」
「俺のことそんなに気になる?」
「違うわよ。出掛けるならついでにラッピングペーパー買ってきてほしくて」
「俺をあごで使うなんてさすが波江だねぇ」
「バカなこと言ってないでさっさと買ってきて。どうせ何かしてくるから遅くなるんでしょ?」
臨也には全く興味がなくても、数ヵ月も仕事を手伝っていれば彼の行動パターンは大体わかる。
それだけのことだとわかっていても、臨也にとっては数少ない理解者となり得る一言が波江の口をついて出る。
「よくわかってるよね。君のような有能な人と仕事ができてつくづく幸せだよ」
波江から二度目の「早く行け」が発せられる前に、臨也は言い逃げて家を出る。
残った波江は、臨也が出ていったドアを眺めて一言だけ呟いた。
「…早く帰ってきなさいよ、バカ」