痛みの記憶sideB

許されない逃げとは解っている。

それでも、私は……。

≪痛みの記憶≫side B

 ずっと苦しかった。
 本当は、言えばよかったのかもしれない。それだけのことだったのかもしれない。今は少し、そう思っている。
 けれど、涙などとうに枯れていた。
 気持ちを巧く言葉に出来るほど、それを自分に許すことが出来るほど、器用では無かった。
 だから私は、ここで終わる。
 気付いてしまった。とても簡単で、当たり前なこと。
 私が居なくても地球は廻る。地球なんて、大きな括りさえ必要無い。ただ、私を取り巻く小さな世界とてそれは同じだということ。
 "私が居ない"
 その程度のことで巧く運ばなくなる世界など無いということ。そんな当たり前にすら気が付かずにいた。理由は簡単、私が驕っていたからだ。
 解り易く言うならば、こうである。
 "私が居ないと、あの人は駄目になる"
 嗚呼、なんて滑稽。
 愚か。という言葉さえ生温いほどに、そのふざけた幻想を信じてやまなかったのだ、私は。
 それが間違いだと気が付いた時。
 救い様も無い自分の驕りを恥じた時。
 もう戻れないほどに、私は壊れた。
 それからというもの、まるで抜け殻の様に生きて来た。今日までどんな風に日々を過ごしてきたのかすら曖昧なほどだ。
 ただ生きて、生きて。生を浪費した。
 何も頑張らなかった。怠けてすらいなかった。
 何も無い、何もありはしないのに、ただ苦しくて。
 痛みを誤魔化すために自分を傷つけて見たりもした。けれどそれさえもう、虚しくて。
 駄目だったんだ。もう、無理だった。手遅れだ。今更何にも縋れない。救いの道などありはしない。何よりも、私自身がそれを望めない。
 だからもう、駄目なんだ。
 「……」
 いやに耳に煩いシャワーの音。火照る体、広がる赤。それは水と混ざり、妙に生々しい。
 痛みはもう感じない、感覚は死んだのだろう。
 それでも、ぼうっとする頭でただ、彼を想う。
 未練が無い……なんて、薄情なことは言わない。彼のことは好きだ。それは今も変わらない。隣に居れば、たとえ一瞬でも総てを忘れさせてくれた。やさしい時間だった。
 もっと一緒に居たかった、とも思う。
 どうしてこんなことになってしまったのだろう。本当に、他の道は無かったのだろうか。本当に本当にこうするより他に無かったのか。
 私が生きて、彼も笑う道が、本当は何処かにあったのでは無いか。
 けれどそれも、もう良い。
 負けてしまった私が悪い。そんなことは火を見るより明らかで、誰よりも自分が一番よく解っていることだった。仕様が無いことなのだと、私が誰よりも理解している。
 最期の時が近いらしい。
 もう、意識を保っていられない。残された時間が少ないことを悟れば悟るほどに、頭の中を駆け巡る想い出があった。
 何故だろう。こんな時……こんな時だけ、浮かぶのは幸福だった瞬間。
 だから余計に、悲しくなる。
 「あー、あ……どうして、こんなことになっちゃった……のか、な」
 誰にともなく呟いたその時、ふと、彼の言葉を思い出した。
 『君はもう、そんなに強くも丈夫でも無いんだよ。昔ほど強くは無い……いいや、違うか。昔ほど弱くはなれないんだ』
 思い返しても不思議な言葉だ。
 その真意を私が理解出来ないのにも構わずに、彼は言葉を続けた。
 かつて私が出来た無茶は、独りであることを割り切ってしか出来なかったと。弱虫の精一杯の強がりだったのだと。
 その通り、なのかもしれない。
 「……あは」
 渇いた笑みが零れる。
 どうして。と、疑問ばかりが巡って、ただただ悲しみが募る。けれどそれさえももう安堵にすり替わってゆく。
 それでもひとつ、解ったことがある。
 最期の感傷はやはり彼への想いだった。それほどまでに私は、彼のことが好きだったのだ。

 嗚呼、ごめん。
 ごめんね。
 君を独り、置いて逝ってしまう。
 耐えられなかった私の弱さを、許してくれなんて言わないよ。

 それでも、この場所で死ぬことによって、君の中に永遠に在り続けることを願った。それが紛れもない傷であることを知ってなお。
 そんな私の我儘を君は恨んで良い。
 呪って良い。君にはその権利がある。

 でもね、
 本当はきっとね。
 君と一緒に、生きていたかったんだ。
 そう、きっと。

 だけどそれももう、終わる。
 終わりを願うのはやめられなかったよ。それをやめたところで今更……なのだけれど。
 賽は投げられたのだ。私は選んで、決めてしまった。もう引き返せない。
 今でもね、思ってしまうんだよ。
 『やっと死ねた』
 もう苦しまなくていい。自分を責めなくても良いの。
 必要とされなくなることに、怯えることも無い。
 泣いてしまいたいほどの幸福と安堵に、私は、迷いのひとつも無く意識を手放した。

End

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