痛みの記憶sideA

切欠は、ほんの些細なことだった。

≪痛みの記憶≫side A

 致命的に不器用な人だった、とでも言うべきか。
 死んでしまわない様、壊れてしまわない様にと、自ら作った口実。言い訳染みた偽物のそれを、あろうことか彼女は自分で壊してしまったのだ。
 それはもう、信じられないほどに簡単に、呆気無く。
 故に彼女の終わりも、呆気無いものだった。
 兆候はあったのだ。最近はもう、ずっと様子がおかしかった。”壊れてしまった人”の挙動だったのだろう。ただただ苦しげに顔を歪め、泣きそうなのに泣くことも無く。もうとうの昔に、声を上げることさえも出来ないほどに破綻していたに違いない。
 実際、カッターナイフを握る手だけはよく動いた。止めても止めても止まらない。僕に彼女を救う力はない。そんなことは僕自身が一番よく解っていた。
 だから、本当はもっと早くに然るべき場所に助けを求めるべきだったのだろう。もっとも、それで彼女が救われたかなんて解らない。
今となっては、それを知る術も無いけれど。
 「……」
 虚しく響くシャワーの音。服を着たまま、ずぶ濡れの彼女。水と混ざり妙に生々しい赤。赤。
 声にならない。言葉も出ない。
 彼女は、もう……。
 あまりの衝撃にがっくりと崩れ落ちる。まるで膝から下が無くなってしまったかの様だ。それくらい、自然に頽れた。
 膝から崩れ落ちる……なんて、ドラマや映画の中だけのものだと思っていたのに。
 <いざとなれば人間、本当にこんなことが出来てしまうのだな>なんて、ぼんやりと思ってしまうくらいには冷静さを欠いていた。
 当たり前だ、タダで済むはずが無い。
 愛した人が、目の前で死んでいる。
 そのことに身が竦んで動けずにいた。
 本当は、今すぐにでも駆け寄って抱き締めたいと思っている。けれど怖いのだ。怖くて怖くて堪らないのだ。
 抱き締めた体が冷たくて、凍えそうなほどに冷たくて、彼女が本当に死んでしまったことを知るのが怖い。恐ろしい。少し想像をするだけで、今も馬鹿みたいに体が震えている。
 彼女がいない。
 そのことがこんなにも怖いことだったなんて。
 知らなかった。知らなかったよ、知りたくなんかなかった。
 ただ生きて、傍にいてくれたらそれで、
 それだけで、よかったのに。
 「……だから、言ったのに」
 小さく呟く。ああそうだ、だから言ったんだ。

 <君はもう、昔ほど強くも丈夫でも無い>と。
 何度も、何度も。
 いや違う。正しさを期して言うなら、君はもう、昔ほど弱くはなれなかったんだ。
昔君がやれた無茶は、そんな滅茶苦茶な頑張りは、独りであることを割り切ってしか出来ないことだった。弱虫の精一杯の強がりでしかなかったんだ。
 僕と出逢い、たくさんの人に出逢ってきた君は、もう独りじゃなくなっていた。独りじゃないことを知っていた。もう二度と、弱虫の強がりなんて出来るはずが無かったんだ。
 だから頼ればよかったんだよ。
 もっともっと頼ってよかった。もっと泣いてよかった。みっともなく喚いたって、我儘だって何だって、言えばよかったんだ。
 結局誰一人、最後の最後まで君を救えなかった。
 他でも無い君が、君を救わなかったからだ。
 君は苦しんで、苦しみ抜いてここで死んでいったんだろ。
 出逢った時と同じ、独りきりで。
 嗚呼、それでもどうして。
 『やっと死ねた』なんて、すでに物言わぬ君の、心からの安堵が聴こえた気がした。これが君にとっての最善だった。そんな風にすら思えてしまうんだ。
 そんなはずが無いのに。
 覚悟を決めた僕は、ゆっくりと這い蹲って進む。しっかりと、正面切って向き合わなければ。君が選んだその先を、この結果を、受け止めなければ。

 生温いシャワーが服を、髪を濡らすけれど、気にはならなかった。
 恐る恐る、震える手を伸ばして僕は、
 彼女のその白い頬に、そっと触れた。
 「……っ……!」
 声にならない叫びが漏れる。
 そっと触れた頬は、僕がよく知る今朝までの彼女のそれと何ら変わらない。
 けれど冷たかった。冷たくて冷たくて、それはやはり、凍えてしまっているみたいに冷たかった。
 死んで、しまったんだ。
 揺るぎない真実を知り、辛くて悲しくて、苦しくて。
 けれどそんな僕の痛みなど比べるべくも無いほどに冷たくて鋭い痛みを、彼女は耐えてきたはずで。
 どうしようもなく僕は、既に亡き彼女を強く抱き締めた。
 「ご、めん……。ごめん……!」
 何も出来なくてごめん。
 救ってやれなくてごめん。
 一緒に行ってやれなくて、ごめん。
 様々な想いが溢れて、それ以上は言葉が出て来ない。
 泣けなかった。
 彼女の前で泣くなんて出来ないと思った。それは彼女に対して失礼だと思うからだ。
 ひりひりと焼けつくような痛みと寂しさとが、胸の奥で塊となってつっかえるから、やはり声も出ない。
 今僕が感じているこの痛みは、彼女の”痛みの記憶”なのかもしれない。
馬鹿馬鹿しくも、そう、思ったんだ。
 「……痛かったね。辛かったね、本当に……本当によく、頑張ったよ」
 ただそれだけ。
 不思議とすんなり出てきた言葉を口内で転がしながら、僕は、抱き締めた彼女の頭をただ撫でるだけだった。

End

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