ネズミと知り合って、1年近く経った。沙布から自分に正直になりなさいと言われてから、ぼくは前より積極的にメールを送るようになったと思う。自分から質問をしたり、話題を振ったり。それに対してネズミはなにか文句を言ったことはなかったし、常に快く答えてくれていたと思う。文面から、なんとなくそれを感じていた。
 彼が同い年であること、大学に通っていること、ぼくが入院しているこの病院から彼の自宅が近いことも知った。それらを知ったとき、彼という存在をとても身近に感じて、ものすごく嬉しかった。叫び出しそうになるのを、携帯を握りしめて必死に耐えたくらいだった。
 その中でも、一言だけ、言い出せない言葉があった。
「会いたい」
 声に出さずに呟く。会いたい。
 彼にとても会いたかったけれど、でも叶わない願いというのも同時に知っていた。わかっていた。彼は相変わらず忙しい人であったし、ぼくはぼくで、なかなか外に出ることも難しい。最近は日差しが強い日が多く、カーテンを開けることも困難だった。ただぼくは毎日、カーテンの隙間から入るほのかな光を感じながら、人工的な光を発する小さな画面を見つめることしかできないのだ。
「会いたいなんて、身の程知らず」
 絶対に、言えない。きみに会いたい。会ってみたい。ねぇきみはどんな顔なのかな。どんな髪型で、どんな服を着て、どんなふうに笑うのかな。ぼくは我が儘で、貪欲だ。

「会いたいって素直に言えばいいじゃない」
 沙布は病室に入るなり、そう言った。どうして沙布は、ぼくの考えてることがわかってしまうのだろう。そのことで悩んでいるなんて、一言も言っていないはずなのに。
「紫苑の考えていることなら大体わかるよ」
「沙布には敵わないや」
 はは、と笑うと、沙布は微笑んで定位置に座った。うっすらと化粧をした沙布は、ぼくの知っている活発で好奇心旺盛な少女ではなくて、すっかりおとなの女性だった。いつの間に沙布は、こんなに変わったのだろう。ぼくが気付かないうちに。
「紫苑、会いたいって言おうよ。会える距離なんでしょ。言ってたじゃん、すぐにでも会える距離だって」
「だけど……」
「うじうじうるさいわね! 自分で言わないならわたしが代わりに送ってあげましょうか」
「わ、わ。それだけはやめて!」
 携帯を取り上げた沙布の目は本気だった。背筋がぞくりとする。
「メル友と会うのなんて、別段特別なことでもないわ。いいこと、ちゃんとメールしなさい」
 沙布はそれだけ言うと、来たばかりだと言うのに立ち上がって帰る支度を始めた。
「え、もう帰るの」
「ええ、用事はもう済んだもの。健闘を祈るわ」
 そうして沙布は颯爽と病室を出て行った。やっぱり沙布には、一生敵わない気がする。ぼくは携帯電話を開いた。
 きみに会いたい。会って話がしたい。どうしようもなく惹かれているこの想いを持て余している。きみは今どこでなにをしているのだろう。なにを考え、思い、感じているのだろう。ぼくは画面と向き合った。



 ドアをノックする音が響いた。コンコンコン。規則正しいリズムで、3回。
「どうぞ」
 ぼくはこのとき、確信を持って彼だと判断していた。高揚してはいたけれど、それ以上にどこか冷静で、まるで旧知の友に会う直前のような気持ちだと思った。
「はじめまして、紫苑」
 彼は、ぼくより少し背が高くて、色白で、とても綺麗な顔立ちをしていた。適度に着崩したルーズないでたちも、無造作に束ねられた長い髪も、とても似合っている。
「はじめまして、ネズミ。ずっときみに会いたかった」
「おれも、あんたに会ってみたいと思っていたよ」
 ああ、いけない。ここで泣いてしまったら、せっかくネズミと会えたのに台無しだ。拳を握りしめて、ぼくはなんとか耐えた。
「でもまさか、あんたが会いたいなんて言ってくるとは思っていなかったよ」
「どうして」
「なんとなく、さ。だからいずれおれのほうから言うつもりだったんだけど、あんたのほうが早かったな」
 ぼくがそのときどれくらい嬉しくてたまらなかったのか、きっと誰にもわからないだろう。ネズミもぼくと同じ気持ちだった、会いたいと思っていてくれた。その事実がたまらなく胸を熱くさせた。
「……怖かった。会いたかったけれど、ぼくってほら、こんなだろう。満足に出歩けもしない。だから受け入れてもらえるのかが怖かった」
 初めて吐き出す正直な気持ちだった。ネズミはベッドの隣の椅子に腰かけ、じっとその話に耳を傾けてくれた。
「きみを大切に思うのに比例して、ぼくは臆病になっていったんだと思う。実際本当のぼくを見て、きみはなにを感じる?」
「別に、なにも。ただ、会ってみたかった人が目の前にいる、そのことに感動してはいるな」
 多分それが、彼の本心だったのだと思う。灰色の目は、真っ直ぐにこちらを見つめていた。心臓がどきどきと高鳴って、頬が熱くなるのをぼくは感じた。
「ばか、なに照れてるんだ」
「すごく焦がれていた人が目の前いて、しかもすごく綺麗で、そしてそんな嬉しい言葉をくれるんだ。恥ずかしくなるのは仕方ないだろう」
「あんたのほうがよっぽど恥ずかしいと、おれは思うけど」
「そう?」
「焦がれているだの、綺麗だの、よく本人を前にして言えるな」
 そんなの、そんなの仕方ないじゃないか。もう気持ちがいっぱいいっぱいで、苦しいほどなんだから。ずっとずっと、電波の向こうのきみに焦がれていた。どんな顔で、どんな声で話し、どんなふうに笑うんだろう。ものすごく近くて、だけれどものすごく遠い位置に、常にきみはいた。そのきみが今、目の前にいる。
「ネズミ、きみが好きだ」
 気がついたら、唇から想いが溢れていた。
「好きだ」
 冷静に振る舞っていたのはやっぱり、うわべだけだったのだ。一枚皮を剥がせばほら、想いがぽろぽろと溢れてこぼれ出す。
「ああ、泣くなよ紫苑」
「ごめん……」
 そう謝るとネズミは、なんで謝るんだ、と言った。謝るのはおれのほうだ、と。
「あんたがおれを好いてくれているのには、なんとなく気付いていた。気付いていて、わかっていて、知らないふりをしていた」
「えっ」
「おれだって怖かった。あんたがおれを好いてくれているのはわかっていたけど、実際会ったらその気持ちがどう変わるのか、わからないじゃないか」
 ネズミは椅子から立ち上がると、ベッドのふちに腰かけた。布団が沈み、ぎしりと軋む音が鳴る。
「おれも、紫苑にずっとずっと焦がれていたよ」
 ああ、ああ、神様。こんなに嬉しいことが、あるだろうか。白い壁、日の光の入らない部屋。母さんと沙布しかいない、ぼくの小さな世界。外の世界は常にぼくを受け入れてくれなかったし、ぼくはその世界に入っていく術を知らなかった。そんなぼくの、初めての恋。


初恋が最後の恋


 こんなに強烈な気持ちを味わうのはきっと、最初で最後だろう。そう言うと、電波の向こうにいたきみは灰色の目を細めて、静かに笑った。

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