窓の外は満天の星空。雲ひとつない澄んだ空だ。思わず感嘆のため息を吐く。
昨日はぼくの20回目の誕生日だった。母さんと、イヌカシと力河さん、そして4歳になったシオンが祝ってくれた。チェリーケーキとシチューを囲んで迎える誕生日。とてもあたたかくて、幸せな時間だった。
書類をファイルにしまって、椅子から立ち上がる。窓を大きく開け放つと、なまぬるい風がふわっと頬を掠めた。もう夏ではない、けれど秋というにはまだあたたかい風。風と共に髪が揺れる。ぼくは目を閉じた。
もう4年になるのか、ネズミ。心の中で語りかける。共に西ブロックで越した冬、そしてNO.6の崩壊。今も鮮明に覚えている。
きみは今どこにいて、なにを見、なにを思っているのだろう。空を見上げ、ふと思う。この空の続く先で、きみは今も歌い、人の心を揺さぶり攫っているのだろうか。
そこまで考えて、ひとりでくすっと笑った。最近仕事が忙しかったから、少し疲れているのかもしれない。昨日だって、かなり無理をして時間を空けたのだ。そのため今日は家でも書類とにらめっこしなければならなくなっている。
それでも、特別な日だから。誕生日というだけでない。9月7日はぼくにとって、もっとずっと大切なものだから。
あの日、きみが旅立っていってしまった日から、ぼくは窓の鍵を閉められずにいる。昨日もずっと、ずっと窓を開けていた。
我ながら、女々しいと思う。4年、4年なんだ。4年間も、ぼくはずっときみの影を追っている。
もしかしたら今年は、帰ってきてくれるんじゃないか。そう思っていた。だけれど違った。きみは来なかった。きっとずっと焦がれ続けているのは、ぼくだけなんだと思い知らされた。
ぐっと拳を握りしめる。
ネズミ。きみが恋しくてたまらない。きみは今、どこにいる。なにを見、なにを思い、感じている。ぼくのことはまだ、覚えていてくれるだろうか。
「ネズミ」
くすっ。小さな小さな笑い声。あのときと、全く同じ。
まさか。まさか。
「変わらないね、あんたは」
わずかに嘲笑を含んだその物言い。呼吸がとまる。全身に、ぶるりとしびれが走った。
ゆっくり、ゆっくりと振り向く。
「久しぶり、紫苑」
そこには、ずっと焦がれ、恋しみ、求めてきた人の姿があった。
「……ネズミ」
「4年ぶりだな、紫苑」
カツ、カツ。一歩一歩、ネズミが近付いてくる。ぼくは、動けない。
「髪が少し伸びたな。背も伸びたみたいだ。でも、相変わらずだな」
「ネズミ、きみは……きみは、髪が、短くなった。……似合ってる」
「そう? お褒めにあずかり光栄です、陛下」
一歩、一歩。離れていた距離が、少しずつ、縮まる。
「本当は昨日着く予定だったんだけど、ちょっとトラブルがあって1日遅れてしまったんだ」
一歩、そしてまた一歩。
「紫苑」
ぴたり。ぼくの目の前で、ネズミは足をとめた。灰色の瞳がじっと、こちらを見つめる。深い、深い色だ。
その瞳がふっと細くなった。
「遅くなったけど、紫苑。誕生日おめでとう」
「……あ、」
灰色の瞳が、視界いっぱいに広がった。唇にあたたかい感触。4年前のあの日と、同じ感触。
「……これは、なんのキス?」
「おめでとうのキス。それと、再会のキスだ」
ぐっと、なにかが込み上げてくるのを感じた。衝動のまま、ネズミの体を引き寄せ、抱きしめる。急いで来てくれたのだろうか、汗の匂い、それにほんのりと交じる土の匂い。そして、ネズミの匂い。
「ちょ、ちょっと紫苑」
「ばか。ばかネズミ」
「紫苑……」
「ずっと、ずっと待ってた」
そう、ずっと待っていた。きみが最後にくれた、誓いのキスを信じて。いつになるかもわからない。もしかしたらぼくのことなんて忘れてしまっているかもしれないと思いながら、それでもずっと待っていた。窓の鍵を開けて。結局きみは、窓からは入ってこなかったけれど。
「もしかしたら今年は、戻ってくるんじゃないかって思っていたんだ。でも昨日来なかったから」
「悪かったよ」
「もうぼくのことなんて忘れてしまったんだと思った」
肩に顔を押しつけてそう呟くと、髪を撫でられた。
「それこそ、ばかだ、紫苑。あんたのことを忘れたことなんて、なかった」
鼻の奥がつんとした。まぶたをぎゅっと閉じて必死に耐える。泣き虫だった自分はもういないと思っていたのに、なぜだろう。きみのことになると、とたんに泣き虫になってしまう。
「……なあ紫苑、覚えてるか? おれとあんたが出会った、8年前のこと」
ぽつりとネズミが言った。8年前。嵐の夜。
「もちろん。昨日のことのように、鮮明に」
左肩に傷を負った、小さなきみ。
「いろいろなところへ行ったんだ。いろいろな場所を見て、いろいろな人と出会った。世界はとても広いんだ、紫苑。そして、想像もできないくらいの、たくさんの人が生きている」
「うん、そうだね」
「その中で、紫苑」
ネズミがごくんと、言葉を飲み込む。言うのを少しためらっているようだった。少しだけ間を空けて、ネズミはまた口を開いた。
「……紫苑。あんたと出会えたことは、本当に奇跡なんだって、思った」
……ネズミ、きみは言ったね。奇跡だったって、前にもそう言ったことがあったね。そんなの、そんなの。
「そんなの、ぼくだって同じだよ……ネズミ」
もう、耐えきれなかった。目尻からこぼれたしずくが、ネズミの肩を濡らしていく。いつものネズミなら、なに泣いてるんだってちゃかすところだが、彼は今日はそうしなかった。
「ぼくも思ったんだ。都市の再建に関わるようになって、毎日たくさんの人を見て。数字でも、そして実際にこの目でも、こんなにたくさんの人がいるんだって、知った。その中で、きみはぼくのところに来てくれた」
「紫苑」
そっと、ネズミがぼくの体を離す。なんだか泣き顔を見られるのが恥ずかしくて、あわてて袖で目をぬぐった。
「紫苑、おれと出会ってくれて、本当にありがとう。生まれてきてくれて、本当にありがとう」
ばか。ばかネズミ。そんなの、こっちの台詞だ、ばか。そう言いたいのに、言葉にならない。4年間の間に積もりに積もった想いが、ぶわっと溢れ出す。
「プレゼント、用意できなくてごめん」
ふるふると首を振った。そんなもの、いらない。きみがここにいてくれる、それで十分だ。それだけで、十分なんだ。
きみがここにいる。今、ぼくの目の前にいる。きみの声が、匂いが、感触が、今ここにある。
「お、かえり、ネズ、ミ」
嗚咽交じりで途切れ途切れになってしまった、ぼくの精一杯。
「ただいま」
きみは少し苦笑いをして、そう言った。
この星の数ほどの人の中で、それでもぼくらは出会えた。この世に生を受けて、そして出会えた奇跡に、感謝しよう。
そして今度はぼくから、ありがとう、そしておかえりのキスを――。ぼくらはそっとまぶたを閉じた。