ため息を吐きそうになって、はっと唇を閉じる。ため息は吐いてはならぬ。お婆の言葉が脳裏をよぎる。いやだがお婆、この状況はため息を吐かざるをえないんだ。自分の両手を見下ろして、おれは心の中でため息を吐いた。
 おれの両手には、大きな紙袋。その中にはカラフルな包装に包まれた様々な菓子が入っている。有名なブランド名をちらほらをうかがえるそれらは、ファンからの贈り物。西ブロックでよくこんなに上等なものが手に入ったものだと思うが、こんなものを送ってくるのは廃れた西ブロックの中でも金持ちの部類であるわけで。そんな輩からの贈り物がまともなもののわけがない。いらないと断ったのだが、なにせ量が半端ではなく、その一部を否が応でも持ち帰らざるをえなかったのだ。
 部屋のドアを開けると、ふわりといい匂いが漂ってきた。いつもの質素なスープの匂いではない。なんだろうと首を傾げていると、本棚の影から紫苑がひょこりと顔を出した。
「あ、ネズミおかえり」
 いつもの純粋な笑顔に、荒んだ心が洗われるようだ。そうふと思い、そんな自分を恥ずかしく思った。
「なんだ、いい匂いがするな」
 なんとなく気恥ずかしくて顔を背けて早口にそう言う。
「うわ、本当にネズミって鼻がいいんだ」
 紫苑が目を丸くして言った。なんだか馬鹿にされたような気がして眉をしかめる。
「ちょっと待ってて。渡したいものがあるんだ」
 そう言うと、紫苑は足早にまた本棚の影に身を隠した。なんとなくそれが不満で、紙袋を床にどさりと置く。乱暴に座ると、ぎしりと大きな音を立てて、ソファが軋んだ。
 今日は、疲れた。紙袋に視線を落として、ため息な零れそうな唇を噛む。
 そう、なぜ今日こんなに差し入れの菓子が多いのかというと。
「ハッピーハロウィン!」
 赤い包み。ふわりと香る、チョコレートの香ばしい匂い。
「紫苑、これ」
「力河さんにお店教えてもらって買ってきたんだ。ネズミ、チョコレートは好き?」
「……嫌いじゃない」
「よかった」
 はい、と包みを手渡されて、思わず手を差し出す。小さな紙袋。開けると銀紙に包まれたチョコレートがひとつ、入っていた。
「変なものが入ってるわけじゃ、ないだろうな」
「まさか!」
 食べてよ、そう言われて、銀紙を破き放り込む。途端に口の中にどろりとした甘さが広がった。
「ん、うまい」
「それはよかった。ところで、ひとつ訊いてもいいか、ネズミ」
 紫苑は先ほどまでの楽しそうな表情を一変させて、床に無造作に置かれた紙袋を一瞥した。
「この荷物はなに?」
「劇場でファンに貰ったんだ」
「へえ……。随分とたくさん貰ったみたいだね」
「まあ……、おれのファンはたくさんいるからな」
「知ってるブランドの名前がいくつもある」
「紫苑」
 なにが言いたい、と言いかけて口を噤んだ。なんとなくそれを言うのは、野暮な気がした。
「花形のイヴに、こんな質素なものしかあげられないだなんて!」
 紫苑がそう小さな声で言うのが、耳に届いた。なにを馬鹿なことを。このお坊ちゃんはすぐに勝手な妄想をして、ひとりで落ち込み出すのだから、全く手に負えない。おれはくすりと笑った。
「呆れた。本当に馬鹿だな、あんたは。こんな贈り物全部、下心の表れだよ」
「下心?」
「どうせどれにも媚薬やら睡眠薬やら、その類いのものが含まれているに違いないんだから」
「そ、そんなもの!」
「だけど紫苑は、そうじゃないんだろう?」
 赤い痣に指を這わせるように、白い頬を撫でる。とても疲れていて、いらいらしているはずだったのに、なぜだか今はとても満たされた気分だ。
「でも紫苑、ハロウィンの楽しみかた、少し間違えてるぜ」
「えっ」
「Trick or Treatって言わないと。せっかくのハロウィンなのに」
「あ、そうだった! きみにお菓子をあげるってことで頭がいっぱいで、すっかり忘れていたよ!」
 ああもう、どうしてこいつはこんなにも無垢で無知で、そんな奴におれは少し癒されていたり、するのだろう。
 こんなこと、今日限りだ。おれは疲れていて、少しばかり、思考がおかしくなっている。それもまた、ハロウィンなんて甘ったるい行事のせいだということにしておこう。
「紫苑、ほら。Trick or Treatって言わないと」
「え。だって、きみ」
「おれはさっきチョコレートを貰ったから、今度は紫苑の番だろう?」
 いたずら、したくない?
 そう耳元で囁くと、紫苑はかっと頬を赤らめ、暫く視線をさ迷わせたあと、そっとおれの耳へ唇を寄せて小さな声で魔法の言葉を囁いた。


一万個のダイヤでさえ、きみがくれたチョコレートには敵わないよ


 そんなこと言えっこないから、今日だけ、特別。



--------------------

予想以上に長くなってしまいました……すいません……。
紙袋いっぱいの高級お菓子なんてネズミ羨ましい! 私が欲しい! と思いながら書きました。書き終わった今深夜3時なんですがお腹すいてます案の定(笑)

葉瑠さん、素敵な企画ありがとうございます(*´ω`*)
参加させていただけて嬉しいです!

くろねこ 23.10.28



INDEX


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -