▼ 02

「ごめん、本当にそういうつもりじゃなかった。萩尾とはやましいことは何もなくて」
「ないんですか」
「……宏樹と知り合ってからは、誰とも何もしてないよ」
「……」

ということは俺と知り合う前には何かあったということだ。ずしんと重たい気持ちになる。
だが、はたして俺と知り合う前の出来事を責める権利はあるのだろうか。いや、あるはずがない。
俺と付き合い始めてからの浮気ならともかく、過去に誰と何があったってそれで俺が機嫌を損ねてもいい道理はない。

だというのに、先輩は怒りもせず謝罪の言葉を口に出すのだった。

「嫌な思いさせてごめん。俺が悪かった」
「何がですか。先輩は何も悪くないです。ただ俺が面倒くさいこと言ってるだけで」
「いや俺が悪いだろ。あいついつもあんな感じだからつい慣れちゃってたけど、でもこれからちゃんと気をつけるから。距離感とか」
「でも……」
「宏樹が嫌ならもう喋らないようにする。何なら本当に付き合ってるって公言してもいいんだけどそれは危ないって止められたんだけど、でも本命ができたくらいなら言ってもいいかもしれないし」
「……」
「なあ、ごめん。本当に悪かったよ。どうしたら許してくれる?」

ベッドから下りてきた先輩は俺の前に立ち、煙草を持っていない方の手をとった。声は少し震えていた。灰皿を引き寄せ、火を消す。
手を握り返せないのは、もう怒っているからではなかった。
正直、引っ込みがつかなくなっていたのだった。というか、何だろうこれは。

ふと思い出したのは、上の姉さん達の子ども達だった。総勢5人、何でこうも偏るのかは不明だが全員女の子である姪っ子達はたまに大集合すると非常に喧しくすぐ喧嘩をして、そしてその後しばらく引きずってまさにこんな感じになる。
ということはもしかして拗ねてるのか俺は。
何だそれ、子どもか。

「分かんないです……」
「え?」
「なんか、俺こういうの初めてだから、どうやって何もなかったことにして今まで通りに戻ればいいか全然分かんないです」
「何もなかったことになんかしなくていいよ。言いたいことあったら気が済むまで全部言えばいいし、殴りたかったら殴ってもいいし」
「殴りたくはないですけど……」
「言いたいことはある?」
「……いや、言いたくないです。格好悪いし面倒くさいし女々しいし、絶対嫌われる」
「何聞いたって絶対嫌いになんかならないよ。全部知りたい。思ってること全部教えて」

優しいなあと思った。
子どもみたいな態度で子どもみたいなことをほざいている俺に対して優しすぎる。叱りとばして放置する姉さん達とは大違いだ。
甘やかされていると思ったら情けなくなったが、先輩があまりに優しい顔をするので俺の口は勝手に動き始めてしまった。

「なんていうか……俺は全部元哉さんが初めてなんですけど」
「うん」
「好きになるのも初めてだし、付き合うのもキスするのも、あとその先も……全部初めてだから何するにもいっぱいいっぱいなのに、元哉さんはいっつも慣れてて余裕があって、そういうのが本当は嫌なんです」

あんなに言いたくないと思っていたのに、言い始めたら止まらなくなってしまった。

「俺は初めてなのに、元哉さんは他の人とこういうことしたことあるんだなって。でも俺と付き合う前に誰と何してたってそんなの全然悪くないし、俺に責める権利なんかないのに……ねえ、本当に大丈夫ですか。嫌になってないですか?」
「ならないって。好きだよ。本当に好き」
「嘘だ……絶対面倒くせえもん俺……」
「いや別に面倒くさくないし、仮に面倒くさかったとしてもだからって嫌になったりしないよ。俺だって面倒くさいこと言うしお互い様だろ」
「……」
「それに俺が慣れてて余裕あってって言うけど、全然余裕なんかないよ。そういう振りしてるだけで」
「……そうなんですか?」
「だってこうやってちゃんと好きになって相手にも好きになってもらえてちゃんと付き合ってそういうことするのは初めてだし、だから本当に余裕ないよ」
「好きじゃないのにそういうことしてたんですか?」
「……ごめん。そこは掘り下げないでほしい……」

先輩は気まずそうに俯く。
多分ちょっと責めすぎだった。
そろそろ機嫌をなおしたいところなのだが、俺の口は止まらない。

「でも経験豊富なのは事実でしょ」
「いやそれは……そんなに豊富ってほどではないけど……」
「じゃあ何人と何回くらいしたんですか」
「いやそんな具体的な数字はさすがにちょっと分かんないけど……」

なるほど、多すぎて覚えていないと。

「それに相手もあんな綺麗で可愛くて、元哉さんのこと大好きで、俺より元哉さんのことたくさん知ってて、そんなの勝てるわけないじゃないですか」
「俺は宏樹の方が可愛いと思うけど」
「……目悪いんじゃないですか」
「いや、そうじゃなくて。それに宏樹の方が俺のこと知ってると思うよ」

そりゃまあ、先輩が変なタイトルのB級ミステリーを読んでることとか、自分のコーヒーにだけこっそり砂糖を入れてることとか、ベッドの枕元にラビ夫のぬいぐるみが3つ並んでることとか、そういうことは知っている。
が、そんなことあの人も、あの人だけではなく俺が知らないたくさんの人達も知っているかもしれないし、反対に俺が知らないけれどあの人達が知っていることは確実にある。

「え、どんな?」
「だからその……」
「うん?」
「……だってまだ、最後までしてないじゃないですか」

最後まで、どころか一方的に俺がしてもらうばっかりで、先輩はまだ服一枚脱いですらいないのだ。

「そういう時のことは、俺何も知らないです……」
「……知りたいの?」

伏せていた顔を上げる。
視線があって数秒、俺は小さく頷いた。





窓を閉め、もう一度ベッドに移動して、座ったまま何度もキスをした。
正直不安はあった。上手く切り替えられなくて全然その気になれなかったらどうしようという不安が。
でも杞憂だった。先輩に抱きしめられて、キスをして、いつもと同じように髪や耳を触られたらすぐに、先輩のキスに夢中になってしまった。
だって先輩が、あまりにもほっとしたような嬉しそうな顔をするから。

「宏樹」

名前を呼ばれて視線を上げると、いつの間にかベッドに押し倒されていた。
先輩の背中越しに天井の電気が見えて、それがやけに眩しい。
思わず顔をしかめると、先輩は少し不安そうな面持ちで眉を下げ首を傾げた。

「大丈夫? 嫌じゃない?」

そういえば先輩は今までも何度か、俺が嫌がっていないか確認していたことがあった。
手を伸ばす。先輩の頬に触れる。どこか不安そうに下がった眉を見て、ふと思った。
いつもいっぱいいっぱいになってしまう俺とは違って先輩は余裕たっぷりだと思っていたけれど、そして先輩は本当は余裕なんかないと言っていたけれど、もしかしたら今までもこういう所に現れていたのかもしれない。

だって不安になる必要なんかないのに。
先輩に触られることが嫌なはずがないのに。

「嫌じゃないです……でも眩しくて」
「電気消す?」
「……」

いくら俺がこういう類のことに無知だとは言え、さすがに『電気を消す』というのがそういうことを本格的に始める合図のようなものだという知識くらいはある。
と言ってもそれが姉の誰かが読んでいた少女漫画由来の知識だというのはやや情けないがそれは今は置いておくとして、とにかくここで俺が頷けばきっとそういう雰囲気になるのだろう。
いや、なるのだろうというか既にそういう雰囲気ではあるわけで、しかも俺から誘ってこうなっているので今更と言えば今更なのだが。

と色々ぐるぐる考えているうちに、先輩は俺の返事を待たずにベッドの枕元に身を乗り出し、そこに放り投げていた電気のリモコンに手を伸ばしていた。
次の瞬間眩しく輝いていた電気が消え、室内が真っ暗になる。
突然の暗闇に目を慣れさせようと瞬きを繰り返していると、開けたままのカーテンから差し込む月明かりにぼんやり浮かぶ先輩のシルエットが、俺の上に戻ってきた。

先輩の左手が俺の頬にぺたりと添えられる。
顎を上げてキスに応えると、先輩は小さな声で言った。

「嫌だったら言って」

暗いから先輩の表情はよく見えない。
けれど何となく、また不安そうな表情をしている気がした。
元哉さんになら何されたって嫌じゃないです、と答えた声は我ながら小さすぎたが、きちんと先輩の耳には届いたらしい。
少しずつ暗闇に慣れてきた俺の目は、先輩のほっとしたような表情を捉えた。

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