▼ 名前の話

先輩先輩と俺は言うが、俺は先輩の名前を知らない。

知り合ってからまだ数日という付き合いの短さも原因としてあるにはある。が、そもそも自己紹介というのは初対面の直後にあって然るべきだろう。
ちなみに俺は1年の大谷ですと既に学年と名字を名乗っている。にもかかわらずその時に先輩が名乗り返さなかったのには、何か身元を知られたくない事情でもあるのだろうか。

横目でこっそり盗み見てみれば、今日の先輩はベンチに横になってうたた寝をしている。長い足をはみ出させている姿は窮屈そうではあるが、呑気そうな寝顔からは重い事情らしきものは窺えない。
もちろんどんなに呑気そうな顔をしている人でも裏に何を抱えているかは分からないわけだが、

……と、そこまで考えたところで、俺はそれ以上の思考を放棄した。

先輩がどこの何某であろうが、それはごく些細なことだ。
生徒数が多いこの学園では、学年が違えば教室のフロアも違うため部活や委員会での繋がりがなければ普段関わることはほとんどないし、事実校舎内でこの先輩を見かけたことはない。
それにここで顔を合わせているのもただの偶然にすぎず、放課後の貴重な一服タイムをここでと決めている俺はともかく、さほどここに用事があるわけでもなさそうな先輩はいつここに来るのをやめてもおかしくはない。

俺達の関係が奇妙な偶然と先輩の気まぐれによって成り立つ曖昧なものである以上、先輩の素性をわざわざ探る必要などどこにもなかった。
唯一考えなければならないのは先輩が親衛隊持ちで、かつその親衛隊が過激派だった場合だが(ちなみに親衛隊というのはいわゆるファン集団のことを指す。アイドルでもない一介の高校生相手に大層なことだが、噂ではこれがなかなか厄介なものらしい)、それも今ここに突然先輩のファンが闖入してきて『○○様に近づかないでよ!きゃんきゃん!』とでも喚き立てさえしなければ、どうでもいいことだ。

「うーん……」

他に懸念事項がないか改めて確認しようとしていた俺の耳に、先輩の掠れた声が届く。
寝心地が悪かったのだろうか、綺麗な眉をうっすらと寄せごろんと寝返りをうった先輩は、

「あ」

そのままベンチから落ちた。
とっさに伸ばした俺の手は間に合わずに宙をかき、驚いたように跳ね起きた先輩が奇妙な体勢で固まった俺をぽかんとした顔で見上げる。

「……ふっ、はは」

目が合って数秒のち、耐えきれずに笑い出したのは俺の方だった。
くしゃりと前髪をかきあげた先輩も、遅れて笑顔になる。

「やべ、寝ちゃってた。まさか落ちるとはなあ」
「大丈夫ですか? あーあ制服」
「うわ、草だらけだな。しまった」

腰を上げてブレザーをはたきだした先輩は、全身土と草にまみれていた。
それでもやっぱりイケメンはイケメンなんだなあと妙な感慨にふけりながら自分では払いにくそうな背中になんとなく手を伸ばす。

と、指先が肩を掠めた瞬間、先輩は驚いたように目を見開き、そして俺の手から逃げるように体を捻った。

「……」
「……」
「すいません、背中にもついてたから」
「あ、いや違う、うんありがとう、ごめん」
「いや、俺こそすいません」

あまりに過剰な反応に一瞬戸惑ったが、もし先輩が他人に触れられたくない部類の人だとしたら俺の行動は軽率だった。もしくは単純に俺に触られるのが嫌だったのかもしれないが、どちらにせよ悪いことをしたと反省しながら頭を下げると、しかし先輩は慌てたように首をぶんぶんと振った。

「いや違う、違うから」
「え、何がですか?」
「大谷に触られんのが嫌とかじゃなくて、その、夢見が、そう夢見が悪かったから驚いただけで」

どうも先輩は嘘が得意な人ではないらしい。明らかな慌てっぷりは、一周回って微笑ましいほどだ。
しかしそこまでして否定するということは、夢見云々はともかくとしても俺に触られるのが嫌なわけではないというのは事実なのだろうか。いやそれは好意的に解釈しすぎかもしれないが、まあとにかく。

「嫌な夢でも見ました?」
「ああ、うん、そうそう。ゾンビに追っかけられてな」
「そうでしたか。やけに色っぽい声出してたからてっきりそういう夢でも見てたのかと」
「えっ!」

からかって済ませてしまうつもりだったが、もしかして図星だったのだろうか。
内心あららと思いながら、「いや冗談ですけどね」と苦笑すると、先輩はほっとしたように脱力してベンチに座りこんだ。

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