例えば、この恋が成就して、彼に愛される日が来たとする。
それはそれは当たり前のように恋仲からやがて夫婦になり、いずれは彼の子を宿す未来がイリーナには笑ってしまうほど想像が出来なかった。
私の手は命を奪ってきた手。あの人に護られることがあってはいけない手。





此処に永住しようと思うの。
二人きりの職員室で、机に左頬を押し付けながら突っ伏したイリーナは右隣の仕事人間を見つめ、呟いた。意外にもその台詞は、キーボードを叩く男の指を止めるには十分だったようで、予想外の反応に、冗談よと誤魔化すことさえ出来なくなってしまった。
今、女が金色の髪を流している机の上には全く何も置かれていない。明日からもし彼女が気まぐれに日本を発ったとしても、この国で一番よく滞在していたであろう此処でさえ彼女が存在していたという証拠は残らない。
きっと長く留まるつもりはないのだろうなとなんとなく確信していた烏間からすれば、イリーナの唇に吹かれたその言葉は、信じられない、一言で表すとそんなところだった。
急に二人を取り巻いた妙な沈黙がイリーナには堪え切れず、とうとう吹き出してしまった。
彼女のその反応に烏間は眉を寄せ、舌打ちを漏らす。
またか。やはりこの女の話はまともに聞くべきではなかった。
先程よりも大きな音で、烏間の指がキーボードを弾いた。

「俺をからかってそんなに面白いか」

お腹を抱え、一頻り笑ったイリーナは烏間のその言葉に、心外だと言わんばかりに身体を起こす。

「からかってなんかないわ。でも貴方のその反応、面白かったんだもの」

全くフォローになっていないことを彼女は気付いているのだろうか。
生徒たちはテスト前だというのに何故か暇そうな英語教師は今度は頬杖を付き、パソコンのデスクトップと睨めっこをしている男の視界に割り込もうと必死だった。

「ねぇ、永住権ってあんたに頼んだら取得できるの」
「管轄外だ。法務省に頼んで手続きしてもらえ」

烏間は淡々と答えるだけで、一瞥さえも向けてはくれない。

「違うわよ。あんたと結婚したいって言ってるのにどうして法務省に頼むの」

唇を尖らせてイリーナは愚痴を垂れた。

「婚姻の手続きも法務省の管轄になって…」

言いかけて、男は気付く。
貴方と結婚したら永住権がもらえるんでしょう?と隣の魔女が囁いた戯言に今度もまた、仕事の手を止められる。
とうとう烏間はノートパソコンを閉ざした。身体を半分左に捻り、彼女に習って同じく頬杖をついた。
長いイリーナの睫毛がぱたぱたと瞬いたかと思うと、にっこりと笑みを寄せる。

「お前は何を言ってるのかわかってるのか」
「日本に永住したいって言ってるじゃない」
「そのあとだ」
「あんたと結婚したいって、言ったわ」

恥じることもなく、頬を染めることなく、そんな台詞を吐く女はお前が永住したいという日本には居ない。
イリーナはいつからかよくその手の話を口にするようになった。初めの内はただ冗談を言ってるのだと信じて疑わなかったので、気にも止めていなかったものの、最近は言葉を交わす度、顔を合わせる度に、こういう話に持って行く。
まともな会話が成り立たない。こうまで扱いにくくなってしまうと、いっそ心配にさえなった。

「イリーナ」
「結局カラスマは私の気持ちを信じたくないだけでしょう」

まるで我儘な子供を窘めるかのように、ため息と共にその名を呼ぶと、急に真剣な顔つきになったイリーナの声は泣きそうにも震えた。
大きな瞳が鋭く見つめる先には隠したつもりの己の心があるようで、程々図星を付かれた烏間は彼女の視線にぞっとした。
そんな彼から目を逸らさず、唐突にイリーナは右手を己の顔の前で広げて、突き出すように掌を見せる。

「カラスマ、私ね、この手が嫌い」

忌々しげに彼女は唇を噛んだ。
細く白い指が伸びる掌は、しなやかで、柔らかそうで、烏間からすれば女性らしい印象その物だ。

「この手は日本に来て、初めてチョークを握ったわ。教科書を持って、通勤電車でつり革も握って、お箸も持った。でもね、」

此処へ来て始めてを経験した手だ。一つ、新しいことを知るたびに、それが急に怖くもなる感覚を貴方は知らないでしょう。経験が罪を上書きすることはないと嫌になるほど思い知る。

「この手が何を経験しても、誰かの命を奪うために引き金を引いたことを消してはくれないわ」

生き方がわからなかった私はこの手を赤く染めるしか無かった。罪ばかりが増えていく。細く脆弱なこの手しか自分を守れやしなかったのだ。
小刻みに何かに怯えるかのように、イリーナの右手は震え出す。
指と指の間から覗く彼女の碧眼さえも揺らいできたものだから、咄嗟に烏間は己の手で彼女のそれを包み込んだ。
骨張った男の手にすっぽりと隠された罪はこのまま溶けてしまえばいい。本気でそんなことを願ってしまうようでは、私は暗殺者を名乗ることができなくなる。
手を握ったまま、緩やかに烏間がイリーナの身体を引き上げてみると、思ったより簡単に浮いた。バランスを崩した彼女は倒れることなく烏間の腕に抱き留められる形となった。
共存するとは思っていなかった熱はイリーナの髪を、肌を、何の気なしに取り巻いた。息が止まるかと思う程に跳び上がった心臓は彼の逞しい胸板を打ち鳴らす。

「あんた、何してるかわかってるの」
「お前の手を掴んだな」
「そのあとよ」
「お前が泣きそうな顔するからだろう」

同僚が泣きそうな顔をすると抱き締めるのが日本の男なのだろうか。いや、そんなことはない。ましてや彼に限っては、こんな色男の真似事なんて出来るはずもないのだ。
だとすれば今のこの状況は、奇跡だとでも呼ぶべきか。あと一秒後には離れてしまうかもしれない烏間の身体をイリーナは力一杯引き寄せる。

「私がこの手を嫌いだと思ったのは、あんたと出会ってからよ」

不覚にも喉が震えたことに、イリーナは我ながら驚いた。幸い声は彼の胸に吸収されて、その鮮明さを失う。

「私が、永住権が欲しいって思ったのは、あんたの側に居たいからよ」

烏間は何も答えない。元より期待などしてはいないが、心無しかイリーナを抱き締める腕に力が掛かった気がした。それだけでもう十分だった。

「私が結婚したいって思ったのは、あんたが好きだからよ」

この真っ直ぐさはイリーナの武器だと烏間は思った。
本当はもうとっくに気付いている。彼女の心が誰に向いているのかを。
信じたくない意固地な男は、彼女の持つ才能を潰すことをただ恐れた。
幼い時分から一人で生き抜くことを強いられて、その生き方に天性を見出したこいつは、人生でたった一度、同じ任務を共にしただけの男の為にその先の未来さえも投げてしまえるのだ。
自分を好きだと涙ながらに訴えるイリーナを離せなかったことはきっと今に後悔するだろう。
そう思えば思うほどに、彼女を犇めく腕を緩められないのは、自分の人生の中に彼女が居ればどんなにいいだろうかと想像してしまったからだった。


贅沢な夢だと思った。
彼女が嫌いだと言うその手を、他でもない自分が護っていける未来など。
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