いつものらりくらりと人間を見下しているタコ型の超生物が助けて欲しいと言いながらあの男の名前を上げるものだから、駆けつけないわけがない。例え其処に見え透いた魂胆があろうとも、だ。 携帯端末が受信した地図を頼りに、示された家を尋ねると、イリーナの顔を見るなりそのタコは目尻を垂れ下げた嫌らしい笑顔を向けた。 「これはイリーナ先生、お早いお着きで」 「あんたが緊急事態だっていうからでしょう」 明日は休日だ。退勤後、早くからリラックスモードに突入していたイリーナは突然の呼び出しに頗る機嫌が悪かった。 「で、カラスマがどうだっていうのよ」 「まぁまぁ、入って下さればわかることなんですけどね」 どうぞ、とまるで自宅かのように中の部屋へと案内するタコの後ろにイリーナは続いた。薄々気づいてる。生活感がまるでない家、玄関に揃えられた靴。ここの家主が見えないわけ。 「初めは普通に嗜むだけだと思ってたんですけどね、烏間先生、思ったよりもお酒に強かったものですから…」 言い訳口調でしどろもどろに話すタコは明後日の方向を見ながら冷や汗を流していた。 「つい本気で潰しちゃったんですよ」 必要なもの以外は何も置かれていないような部屋の机にその男は突っ伏していた。 「何やってのんよ、アンタ!」 イリーナは目を泳がした実行犯にくって掛かった。二人で飲むには誰の目から見ても多すぎる酒の空き缶が転がっていた。いつも仏頂面をした生真面目な仕事人間の、学校では絶対拝めない姿であって、本来であればイリーナも見ることはなかったと思う。 「ちょっとカラスマ、大丈夫」 声を掛けて身体を揺さぶるも、目を閉ざして寝ているような彼は微動だにしない。その横でタコはにゅるりと動く触手を掲げた。 「では、イリーナ先生、あとはよろしくお願いします」 「なんで私が」 「私10時から見たいテレビがあるんですよ」 烏間をこんな状態にした張本人はしれっと悪気なく欲望を押し付ける。あまりの理不尽さに開いた口が塞がらない。 「それにね、イリーナ先生。烏間先生をものにするならチャンスだと思いますよ」 にやりと笑みをこさえながら、そう耳打ちをされた。こいつの発言はいつだって都合がいい。まるでこの状況をイリーナの為に作ったと言わんばかりに。 明らかな責任転嫁に、イリーナは大きな溜息をつく。 「あのね、お酒の力に頼らなきゃ落とせないんなら意味がないの。ちゃんと私の力でものにしなきゃ、」 「いつから俺はお前のターゲットになったんだ」 後方からの低い声に心臓が縮んだ。イリーナ以上に驚いた奴は奇声を発し、窓から転がり落ちるかのように消えていった。 「ちょっと待ちなさいよ!」 時すでに遅しだ。マッハで逃げた奴に届く声でもない。この状況で二人きりだなんて何の罰ゲームだ。 兎に角、話題を逸らそうと一呼吸置いて、 「お水、いるかしら」 イリーナはとびりきの笑顔で烏間を振り返った。普通の男ならこれだけで落ちたと確信できるほど最高の笑顔。 「悪いな」 しかし、鈍感男はそれどころではないようだ。窓際に置かれたベッドに腰をかけ、頭を抱えていた。あのタコに本気で潰された割に、回復力が早いところを見ると、さすがのプロ意識だと感心してしまう。 台所に置かれたグラスに水を汲んでイリーナは烏間に手渡した。そして、彼の隣に腰を降ろした。 「で、なんでこんなことになったの」 「あいつが無理やり押しかけて来た」 渡された水を一気に喉に流し込んだ烏間は眉間の皺を一層深くした。 「奴にアルコールが入った時の反応も見て見たくてな」 「どうだったの」 イリーナの問いに、烏間が黙り込む。代わりに瞳を覗かれた。普段の距離ではない。いつもと違う場所、座っているのは彼のベッド。至近距離で見つめられると、意識してしまう。どこの生娘だというのだろうか。その時間が長ければ長いほど、みるみる顔が紅潮するのに気付いて思わず目を逸らした。 「わからん」 「どういう意味よ」 「そのままの意味だ。量は呑んでたように見えたが、酔ってる気配はなかったな。ただ、もしかしたら奴が酔う種類のアルコールもあるかもしれん。だからわからなかった」 楽しいはずのお酒の席で何をこの男は考えてたのだろうか。最早病気だとおもう。職業病だ。完全に患っている。 「で、なんでお前がここに」 「あのタコに呼ばれたのよ」 イリーナは髪を掻き上げた。きっとこの男は思うだろう。あいつに呼ばれたという理由だけで何故、私が動いたのか。考えるのだろう。奴の出す条件と私の得る利益。考えてきっと分からなくなる。私が此処にいる理由。 「お前が最近何を考えてるのかわからん」 烏間は溜息をついた。そりゃそうでしょうね、と出掛かった言葉をイリーナは飲み込んだ。イリーナからすれば、気持ちはちゃんと伝えているのだ。それを彼が理解していれば、悩むことなどないはず。何故、イリーナが此処にいるのか。仕事でも企てでもなく、居たいから居るのだと心配だから来たのだと彼に伝えれば果たして信じて貰えるのだろうか。到底そうは思えなかった。 「全く私に靡かない男、貴方が初めてなのよ。どうすれば落ちるのか、今後貴方のようなタイプの人間がターゲットになった時のために、知っておきたいじゃない」 艶やかな笑みと嘘だけは上手になる一方だ。イリーナは男の硬い太股にしなやかな指を這わせた。こんな安い挑発で落ちるとは思っていなかったものの、こんな安さでも落ちてしまえばいいと考える自分がいる。 芝居だと、これは仕事だと割り切ったほうが彼と接近出来る私も、きっとこの人に負けないくらいの仕事人間なのだろう。 「研究熱心だな」 関心しているのか、呆れているのか。呟いた烏丸は太股を撫でる彼女の手に触れた。当然イリーナはいつものように払い除けられたと思った。今更傷付きなどしない。冗談よ、と肩を竦めるはずだった。しかし。そうさせてくれなかったのは、男の手が力強くもイリーナの手を掴んで離さなかったからだ。 「何?」 イリーナは思わず、驚いて彼を見上げた。咄嗟に距離を取ろうとした腰は烏丸の腕が回されて身動きが取れない。動揺させることなどそれだけで十分だ。 烏丸は相変わらずの無表情で、イリーナの顔を覗き込む。西洋人特有の蒼い瞳は先程の余裕を失って、少し潤んでいるようにさえ見えた。こんな表情はまるで幼子のようだ。魔女のような妖艶さと時折見せる少女のような幼さが、いつだって烏間は怖かった。気を抜けばその度坪にはまってしまうようで。 「俺のような男なら、そいつの部屋で二人きりになって、ベッドに寄り添って腰掛けた上に太股でも撫で回せば落ちるんじゃないか」 腰に回された彼の腕は、イリーナの身体をそのまま抱き竦めながらベッドの上にそっと倒した。 ここから先に続きがあるとするならば、彼女はよく知っている。 これが仕事なら、堪えきれなくなった男の首に自ら縋るように腕を回して、口付けをせがむ。そうして、この一連の行為の中に命を仕留めるための一瞬を探すのだ。慎重に、確実に。それで終わりだ。男の身体を落とせれば、イリーナの勝ちだった。 しかし、烏間とそうなって初めてイリーナは気付いた。目的のないこの行為の仕方を私は知らない。相手を殺す以外に、私は何を思って抱かれればいい。愛しいと思うこの男に、どんな顔して抱かれればいい。 イリーナが彼を見上げる瞳は最早泣きそうだった。これが演技だと言うのなら、俺は確実に殺される。そう、わかっていても、普段より鈍った理性は男の本能に敵わない。 箍が外れる。案外簡単なものなのだなと他人事のように思った。 「カラスマ?」 触れて欲しいと今まで何度もイリーナは願った。優しく抱き込まれて、彼の鼓動まで聞こえてしまいそうな距離で私に溺れるこの人を何度も想像した。その想像に違わなくなった今は、ただ息の仕方さえも忘れて硬直してしまう。 烏間との距離が近くなる。欲しかったものだ、全部。険しく皺が刻まれた額も、振り上がった鋭い目も。筋の通った鼻もにこりとも笑わない唇も。 もし、手に入ってしまえばどうなるか、イリーナは考えもしなかったのだ。 「待って。違うの」 イリーナは震える声を絞り出した。彼女の指が、烏間の唇にそっと触れる。その指先も小刻みに震えていた。 「私は、あんたの身体が欲しいんじゃない」 やっと気付いた。こうにでもならなければ気付けないなんて、本当に情けない。 「私はあんたの心が欲しいの」 烏間を正面から見つめ返して、イリーナは言った。信じて貰えないだろうか。馬鹿にされ、呆れられるだろうか。 例え、そうであっても構わない。ちゃんと伝えた。信じて貰えないなら、信じて貰えるまで伝える。 「だから、覚悟しなさいよね」 そう言って不敵に笑ったイリーナを烏間はじっと見つめていた。そこにあったのは魔女でもなく、幼子でもない、一人の女の顔だった。 ああ、なんて鈍い女だ。誰の心が欲しいだと、笑わせるな。 烏間は唇を塞いだ彼女の手を握って、その身体を起こした。そうして、金色の髪が流れる額を目掛けて、軽くデコピンをお見舞いしてやる。 「いったー!」 大袈裟に彼女は額を両手で抑え込み、烏間を睨み付けた。 「何すんのよ!」 「覚悟が決まってないのはどっちだ」 少なくとも、身体だけの欲求を満たす為だけに、暗殺者とわかっている女に手を出そうとする馬鹿はいない。そんなことまできっとこいつは考えてなどいないだろう。 「何それ。どういうこと」 「自分で考えろ。お前は仕事以外でどうでもいい奴と寝ることがあるのか」 「そんなこと、あるわけないじゃない」 「奇遇だな。俺も一緒だ」 イリーナは瞬いた。日本語は得意だ。彼の放つ日本語を、理解するのに時間は掛からない。だから、その言葉の意味を考える。烏間が言うように、自分で、考える。 「今日は巻き込んで悪かったな。タクシーを呼んでやるから帰れ」 必死に思考を巡らせているイリーナの手を引いて、マンションの下まで烏間は降りた。此処の大通りはタクシーの往来が激しい。空車のランプが点灯する黒い鉄塊を止めて、先程から黙りこくったままの彼女を乗せた。運転手に行き先を伝え、金を渡す。 「イリーナ」 声を掛けると、惚けたままの彼女が振り返る。 「おやすみ」 ああ、この男はなんて狡い人だろう。 別れ際にそんな優しい眼をするなんて。 タクシーは夜の街を走りだす。 考えれば考えるほど、この男に限ってそんなはずがないと否定していたイリーナはもう薄々気付いていたのだ。 その否定をきっと彼も繰り返していたのだという事に。 心臓の早鐘が五月蝿い。外を眺めながら火照る頬を押さえつけるようにイリーナは頬杖をついた。 彼が腰に手を回した感触が残る。 上に被さった彼の顔も、引かれた手の温もりも、どれも忘れることなど出来るはずがない。 早く休みが終わって欲しい。早く学校に行きたい。早く彼に会いたい。 きっとこんなにも待ち遠しい週明けは二度とないのだろう。 |