呼んだことのない少女の名を、繰り返し繰り返し叫び続けた。
彼女に迫りゆく、自分だけが見える刃。
その灰色が赤に染まる先の未来をいとも簡単に想像することができた。
神楽は気付かない。
名を呼んでも、それが音となることはない。
彼女の笑顔が奪われる。
無意識にそんな近未来を拒んだ。



今まで散々恨みを買ったこの刃でたった一つ護れるものがあったとするならば、この先どんな惨たらしい結果が待ち受けていようとも、悦んですべてを受け入れよう。





見えない標識




灼熱の太陽が容赦なく体を火照らす。

「つくつくぼーし、つくつくぼーし」

耳元で大きな声でなく季節はずれの蝉に、眉間にしわを寄せた総悟が目を覚ました。
否、それは季節はずれというべきか、もはや蝉はずれとでも言ったほうがよいだろう。

「今度はまた何の遊びでィ」

寝起きのしゃがれた声で、総悟は蝉の正体に問うた。
そいつは、いつもの調子であっけらかんと答える。

「蝉ごっこヨ。私いま蝉の鳴き声を極めてるんだヨ」

ちょうど覆いかぶさるようにして総悟の顔を覗き込む少女の首筋から一筋の汗が流れた。
そうしてやっと自分の首周りと額にべっとりとした汗が染みだしていることに気づく。
はたまたこれは、単に暑さのせいか。
先ほどの悪夢がもたらした冷や汗なのか。
屯所の縁側でのうたたねは時に残酷な幻想を見せる。

「ツクツクボウシは晩夏になく蝉だぜィ。夏真っ盛りの今に鳴いてんのなんておめーくらいでィ」

心臓がまるで単体の生き物かのように総悟の意思とは反するほど早い鐘を打っていた。
夢で、よかった。
総悟は再び目を閉ざした。
瞼がかすかに震えるのがわかる。
そんな彼の隣に座りなおした神楽は、起き上がる気配のない肢体を不思議そうにじっと見つめた。

「なんかあったアルカ」

心配、というよりかはつまらなさそうにとがらせた唇が尋ねる。
何か。
あったと言えばあった。
けれどなかったといえばなかった。
いい年して悪夢にうなされたなどと口が裂けても言えるわけない。
ましてや、あんたを失う夢だなんて。

「耳貸せ」

寝そべったまま、総悟がちょいちょいと神楽を手招きする。
それに引き寄せられるように神楽が怪訝そうな表情を浮かべて、己の耳を総悟の口元に近付けた。
すると、彼の手は躊躇いもなく神楽の薄い肩を自身の胸に犇めいた。

「!」

驚いたように息を飲んだのはもちろん神楽。

「いきなり何するアルカ!」
「うるせぇ。少し黙ってろ」

急に真剣な口調が喚く蝉の鳴き声を遮った。
思わず言われるがままに口を閉ざした神楽がきいたものは、やけに早い彼の鼓動。
総悟は決して語らない。
それを一番知っているのは神楽でもあった。
今まで太陽の光を燦々と浴びた総悟の身体は熱い。
そして自分はその熱い体にきつく抱きしめられていた。
熱は伝導する。
汗が滲みだしてきそうだ。

「お前汗臭いヨ」

黙ってろと言われて黙る神楽じゃない。

「離せよ。キモいアル」

口ではそんなことを言うのに神楽の小さな手は抵抗する気配は見せない。
そればかりか、熱を含んだ総悟の隊服を力いっぱいに握りしめる。

「お前言っとくけど1秒につき5000円だからな」

蝉は鳴きやまない。
憎まれ口の減らず口だ。
抱きしめた神楽のからだは、見た目よりもずっと頼もしかった。
そう簡単には壊れない。
今だけはその確かな感覚を両手に、いや全身に総悟は刻んでおきたかった。



END.

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