(――すっかり、秋になってきたな) 霞む月を見上げ、サクラはほう、と一つため息をつく。 その息が白く色づいてしまいそうなほど、秋の夜は肌寒く、そして酷く寂しい。 サクラは紅潮しているであろう己の頬に左手を重ね、組んだ足の頂点に肘を置いて頬杖を突く。 腰かけているコンクリート造りの階段が冷たい。 どこからともなく香る金木犀の香りが、サクラの気分をまたよくさせる。 今此処にある全てが、火照ったサクラの身体を中和するようで心地よかった。 (珍しく、飲みすぎちゃった) 落ちかけた瞼をとろんと弛ませながら、酒が身体を廻っていることを自覚する。 お開きになったのは数刻前。 皆と別れて、まっすぐ家に帰る気にはなれなくて、今、サクラはシャッターの閉まった商売店の前で時間を潰していた。 誰もいないがらんとした大通り。 何処の店もこぞって銀色の扉を閉め、他者の介入を許さない。 その様が何だが滑稽で、サクラはふふっと一人笑った。 やがてその微かな笑い声が愉快にも鼻歌に代わっていく。 頬杖をついている左手の指先で、頬に向けてビートを刻んでいると、やがて人影がサクラに覆いかぶさった。 ゆっくり視線をあげると、少し怒気の含んだ眼差しでこちらを見つめている黒い瞳と合致した。 「あら」 誰かと思えば、とサクラはおどけて見せると、ふいと視線を逸らした。 「今更一体なんの用かしら」 その台詞には棘が張り巡らされ、サスケに向けて乱暴に投げかけられる。 「遅いから迎えに来たんだろうが」 怯まずサスケも答え返す。 確かに、その返答はもっともだと思う。 秋月もすっかり高いところで下界を見下ろす刻。 例え、くノ一と言えどサスケが心配しないわけがない。 そのことは、サクラが誰より一番よく知っていた。 「もうほっといてよ。子どもじゃあるまいし、一人で帰れるわ」 酒に酔っている頭を抱え、サクラがため息を漏らす。 ああ、まただ。 彼を責める口調になればなるほど、泣きたくて仕方ない。 意味もなく胸が掻き毟られ、苦しくて苦しくて仕方ない。 無言のまま、サクラの前に仁王立ちしていた足が、じゃりっと地面を踏む。 その気配は彼女の隣に落ち着いた。 「――…それはできねぇ相談だ」 先ほどのサクラと同じように月を見上げ、サスケが呟いた。 さすがにそれ以上は何も言えなくて、暫くの間、二人の間を沈黙が交差する。 一気に酔いが醒めてしまいそうなほど不快な空気感は、サクラを刻々と追い込んでいく。 もう、嫌。 彼の傍にいると、幼い自分が、醜い自分が顕著に表れて、嫌だ。 幼き頃、幾度となく望んだサスケの隣がこんなにも自分を惨めにさせるものだなんて、あの時は微塵にも思わなかったのに。 やがて、サスケが口火を切った。 何から声を掛けようか、迷ったように口は形を彷徨う。 「――まだ…怒、ってるのか」 恐る恐る、とそれ以外にどう表現したらいいだろうか。 不器用にも、サクラの顔色を伺いつつ発せられた言葉は、なんだか拍子抜けだった。 静かにサクラは首を振る。 「怒ってるわけじゃない」 はっきりとそう言い切る。 じゃあどうして、とサスケの口が言葉を紡ぐ前に、サクラが繋げた。 「ただ、ショックだった」 これも言い切った。 思わず、口が震えかけ、ぐっとサクラが下唇を噛みしめる。 サスケは静かに視線を落とした。 「そう、だよな…」 珍しく弱気な溜息に彼女が訝しげに眉を寄せたのは、その顔を見なくともわかった。 どういう言葉で繋ごうか迷って、それでも纏まらず、視線の上げ下げをサスケは何度か繰り返した。 自分の気持ちを表現する言葉など、何処に転がっていようか。 きっとこれがナルトやカカシなら、彼女を悲しませることなく、この場にいろんな言葉を散らすことができたのだろうが、生憎自分はそんなに器用じゃない。 そう思えば思うほど、言葉は口から出ることを躊躇する。 「――…悪かった」 「謝らないで」 吐き出すようなサクラの声が、サスケの言葉を遮った。 「わかってるわ、仕方のないことくらい。だからこそ言ってほしかった。サスケ君の口から、直接聞きたかったの」 ぽつり、ぽつりと呟いた言葉の稚拙さが、とてつもなく恥ずかしくて、顔が赤くなっていくのが分かる。 ああ、赤いのはお酒のせいだっけ。 サスケは何も答えない。 黙ってサクラの言葉に耳を傾けている。 彼には言い訳する権利くらい、あるはずだ。 戦により傾いた他国への援助のため、サスケは三年間の遠征任務が課せられた。 それは火影からの命。 断ることなど決してできないことは、サクラもよく知っている。 長期に渡って最前線に赴くこととなる。 サスケの実力は重々承知だが、それでも何が起こるか分からないのが、今の時代。 そのことをサクラに伏せていたサスケの意図は、少なくともわかっているつもりだ。 きっと時期を見ていたはずだ。 優しいこの人のことだから、どのタイミングで言うべきか、どういえば自分が傷つかないか、悩んだはずだ。 ただ、彼がその時を決断するよりもはやく、サクラの耳が噂を拾っただけ。 それだけのこと。 それなのに――。 「――…どうして何も言わないの」 噂を耳にした時。 サクラはサスケに詰め寄った。 何故隠していたのかと。 その理由は十分にわかっていたけれど。 三年間という月日がどれだけ長い時間であるか、サクラはよく知っていた。 かつて経験したことのある、彼との空白の三年間。 その過去が、心を掴んで離さない。 今隣にいる彼が、また自分の元から消えてしまうのかと、咄嗟にそんな考えがサクラの頭を過った。 だから、彼を責めた。 何故信頼してくれないのかと。 私ではそんなに心許ないかと。 ――サスケを、信頼しきれていないのは、自分だったというのに。 お酒のせいか、相変わらずとろんとした翡翠の双眸からやがて大きな滴が音もなく零れ落ちた。 濡れた眼で、サスケをきっと見据える。 「言いたいことくらいあるでしょう?お前のためを思って言わなかったんだって。言えばお前は傷つくだろうって――」 もう、堪え切れなかった。 これ以上は言っては駄目だと冷静なもう一人の自分が、警報をだした。 それでも。 溜まっていた自己嫌悪が、サスケに向けて溢れだす。 頬を濡らす涙はそのままに、わけもわからずサクラは叫んだ。 「どうして、顔色一つ変えないで、私に罵られるままになって、悪かったって頭を下げるの?サスケ君は悪くなんかない、悪かったのは全部、私…っ――!?」 不意に。 如何したというのだろうか、身体が痺れて動かない。 何かが力強く自分の肩を引き寄せ、そして、直前まで動いていた口が封じられた。 語尾は虚しく、齎された熱に吸収されていく。 いつも重ねる唇が、今日ばかりは涙の味がした。 ――何故、こんなにもこの人は私に甘いのだろう。 息が苦しくなるほどの長い間、いや、息が苦しくなったのは、一瞬のことだったのか。 ゆっくりと、口唇の熱は引いていく。 足りない酸素を求め、サクラは肩を上下させて、肺に冷たい空気を送り込んだ。 「悪かったのは、俺だ」 サスケの眼が、サクラの眼を覗き込む。 真摯な眼差しに、それ以上何も言えなくなった。 サクラの肩に乗せた彼の手に力が籠る。 「ずっと言えなかったのは、俺だ。いや、正確には、言うべきか悩んでいた」 火影に遠征を言い渡された時、決断したこと。 いつも遅い自分の帰りを、笑顔で出迎えるサクラに、ずっと伝えたかったことがあった。 それでも幼かった頃、己が犯した過ちを無として考えることなどできるはずもなく。 こんな自分が、彼女を愛する価値があるのかと幾度となく自問した。 裏切って裏切られ、繰り返す世界にいた己に、馬鹿みたいに好きだを繰り返したサクラ。 その彼女を一人にすることへの罪悪感と、もう一方で、踏ん切りをつけ切れなかった自分へのけじめとして。 切り結んだ瞳が揺るがないように、サスケは今一度しっかりとサクラの濡れた双眸を捉えた。 「――…俺と、結婚してくれ」 聞き間違いでなければ。 きっと、今、世界で一番幸せな言葉を、もらったはずだ。 それを何の躊躇いもなく声に乗せるものだから。 うろたえたのは勿論サクラ。 「――へ?」 「お前の両親には、明日挨拶に行く」 「え、ちょ、な…」 「式は遠征の前に挙げるつもりだ」 まだ理解しきれていないサクラに、容赦なく続けるサスケの眼は、どうしても冗談を言っているようには思えない。 サクラが微かに首を振った。 夢、だろうか。 酒による幻想なのだろうか。 信じられないといったように見開いた瞳は猜疑心に満ち溢れている。 「嫌か?」 いつもの真顔で、サスケがそんなことを尋ねるものだから。 「…ちが…!」 サクラは思わず大きく左右に首を振った。 ただ――。 「…――もう一回言って」 さっきの台詞。 「な!お前…」 あまりに呆けた口ぶりで、そんなことを言われるものだから、今度こそサスケが仰け反った。 「聞き、間違えかもしれないから」 サクラが大きく一つ息を吸う。 「聞き間違えじゃなければ、いいんだけど」 止まったと思った涙が、再びサクラの瞳からぽろっと落ちた。 眉間に皺寄せて、子どもみたいにくしゃくしゃな顔のサクラが、それでもまっすぐにサスケの眼を見つめていた。 「…結婚、って、聞こえた」 お酒は涙腺を弱くしてしまうから如何せん困る。 本当に幼子のように無防備に、涙をぼろぼろと流しながらもそう口にしたサクラが、堪らなく愛おしくて。 サスケは思わず噴き出した。 頬を流れて顎を伝った彼女の涙を、手で拭って、今度こそ頷く。 「そう言ったんだ」 サクラは、両手で口を覆った。 涙が、溢れて止まらない。 きっと一生分の涙を、使ってしまいそうなほど。 「返事は」 サスケの掌が、サクラの頬に宛がわれた。 こんな馬鹿みたいに泣いて不細工な顔、見てほしくないけれど。 泣きすぎて声が出ない。 変わりに何度も何度も頷く。 濡れた頬を覆ったサスケの手が、サクラの首筋に周り、そうして辿り着いた淡紅色の頭を、力の限り己の胸に手繰り寄せた。 この心臓の鼓動が、彼女に伝わるだろうか。 自分の腕の中にすっぽりとはまってしまったサクラを、包み込むように抱きなおし、サスケが天上の月を見上げた。 そうして一つ大きく息を吸った。 今この場にある全てを忘れないために。 ――この時、鼻孔を霞めた秋の香りは、サスケが他国にいる間中ずっと、サクラを思い出させて止まなかったという。 END. |