幼き頃。 父親と母親のやり取りを見ながらよく思った。 いつか自分にも本当に心の底から愛せる女性が現れるのだろうと。 また二人の間には子供がいて、皆元気で幸せに暮らせることができるのだろうと。 夢に描いたあの世界を どんなに立派な人間でも腕の数は二本だと決まっている。 そしてその二本の腕に抱えきれるものなど、これもまた決まっていた。 雲ひとつ無い空を、サスケはアカデミーの屋上の椅子に座りながら仰いだ。 任務から帰ってきたばかりだからか、やはり身体には疲労が溜まっていた。 足は鉛をつけたように重たく、自分の意思では動かすことも困難なくらい。 片手に缶コーヒーを弄んでいたサスケを、傍らに座っていたサクラが申し訳無さそうに忍び見た。 「疲れてるのにごめんね。早く家帰りたいでしょう」 自分の身体も大変なこの状況で何よりも己の身を気遣ってくれたと、そんな些細な愛情が彼女らしい。 両手では自分の大きなお腹をさすりながら、彼女が頭を垂れるものだからサスケが微かに笑ってやった。 「赤ん坊、大人しくなったのか」 サクラのお腹を彼も同じように触れると、ドンという振動がサスケの掌に伝わった。 まるで怪獣か何かが卵の殻を破って出てきてしまいそうな感覚に駆られ、サスケが肩を竦める。 「まだ暴れ足りないみたいだな」 「うん、なんだか最近ずっとこんな調子で」 サクラが困ったように眉を寄せた。 サクラの妊娠がわかったのが、丁度今から九ヶ月前。 出産を来月に控えている。 そして臨月に入ろうとする今の時期からお腹の中の小さな命はよく動くようになった。 サクラが言うにはお腹の子は常に動いているようなのだがたまに歩けなくなるくらいに激しい時があるようだ。 サスケが長期の任務から帰ってきた今日。 迎えにきてくれた彼女と帰路をたどっていた途中、父親を出迎える為なのか盛大な運動を繰り広げ始めた赤ん坊はサクラの足を留めた。 「つわりは言うほどなかったのにな」 膝に頬杖を付きながらサスケが言った。 確かに、今まではずっと大人しくて悪阻も酷くはなかった。 でもだからといって大きくなったお腹の子が暴れないという保障は何処にもないのだが。 サスケは空っぽになった缶を遠くのゴミ箱入れに放り投げた。 カランという乾いた音が響いて、ちゃんと入ったことを知る。 けれどもすかさずサクラがじとっとした眼でこちらを睨んだきた。 「そういうお行儀の悪いことは、この子が産まれたら止めてもらいますよ」 いつになく改まった口調で言い放つものだから。 はいはいと生返事を返すと案の定、真面目に言っているのにと彼女が唇を尖らした。 平穏な時は、当たり前のように流れていく。 それでもまだ時々どうしようもなく不安になるときがある。 今この穢れた両手は大切なものを確り掴んでいるのかと。 零れ落ちてやいないかと。 サスケは虚しくなった左手で、おもむろにサクラの右手を握った。 新しい生命の宿ったお腹を優しく撫で続ける左手の薬指にはサクラがずっと己の傍にいることを誓ったシルバーリングが光っている。 なんだかその紅差指が誇らしく思えた。 サクラが此処にいてくれる魔法のようで。 そんなことを口にすれば、指輪なんてなくてもずっと傍にいるじゃないのとサクラは笑った。 何も恐れる必要はない。 隣にいる彼女と、そしてその中に眠る小さな鼓動をサスケは何がなんでも護ろうと思った。 幸せを壊したくなかった。 壊れた時の哀しみと深い絶望を二度と味わいたくなかったから。 そして一度だって彼女達に経験させたくなどなかった。 「サクラ」 意味なく名を呼んでみる。 「何?」 笑いながらサクラは応えた。 この屈託のない笑顔がサスケは好きだった。 「俺は、産まれてくる赤ん坊が生きていればそれでいい」 どんな身なりをしていようと、男だろうと、女だろうと。 ただ生きてさえいれば、他には何も望まない。 繋いだままの手をサクラがぎゅっと握り返した。 小さいくせに力強い。 「任せて。元気な子産んでみせるから」 えらく逞しい母親だな。 そう言ってサスケがそっと笑った。 妊婦は逞しいものなのよ。 負けじとサクラも言い返す。 護ってみせる。 赤ん坊を、サクラを、そして今の幸せを。 幼い頃自分が夢見た世界を誰の手でも壊させないためにも。 END. |