思わせぶりで人々を翻弄するくらいなら、初めから来なければよかったのに。 そんなことを考えるようになったのはつい最近のこと。 なんて薄情な、かぐや姫。 空に浮かんだのは、一つの角も見当たらない、怖いくらい澄んだ満月。 梅雨に入ったこの季節。 昨夜からの雨は一旦あがったように見せかけて、夜が深くなると同時にまたぽつぽつと地上に潤いを齎した。 黒い雨雲の影に隠れては顔を出すを繰り返す月は今日もまた満月。 弱弱しくも眩い光を燦々と輝かせ、穏やかに雨に降られる地上の様子を眺めているようだった。 湿った空気が肌を撫で付けて不快だった。 ざぁざぁと鳴り響く雨音を聞きながら、総悟は真撰組の制服のきつく閉まった首元を少し緩める。 一人夜の見回りをしている最中雨に降られて近くの茶屋の軒下に駆け込んだのはよかったものの此れは予想以上の大雨だ。 雨宿りをするのも限界がある。 内心ため息をついて、総悟が一つ咳払いをした。 先日こじらせた風邪はまだ治らない。 喉が焼けるように痛かった。 総悟は雨空を見上げる。 時折見え隠れしている月をじっと眺めていた。 「オイ」 不意に声がした。 名前を呼ばれたわけじゃなかったのに、それが自分を呼んでいるものだとわかった。 ふと空から視線を落とすと、真っ赤な傘がまるで花のようにこの闇夜に咲いていた。 知っている。 この主が誰であるかということくらい。 「こんなところで何してるアルか」 傘の端から様子を伺いながら警戒心を解く事はなく、主が尋ねた。 「それはこっちの台詞でィ。ガキがこんな時間まで何処ほっつき歩いてんだ。補導されてぇのかィ」 「ちょっと切らしてたもの買いにきただけアル。子供扱いすんじゃねぇヨ」 減らず口がべっと舌をだした。 神楽の腕には近くのコンビニのビニール袋がぶら下がっていた。 透けて見えたのは大量の酢昆布の箱。 彼女にとっての必需品だった。 「お前傘忘れたアルか」 口に手を当てて総悟を見下すように神楽は嘲笑した。 半分馬鹿にし腐ったような顔。 ざぁざぁと雨水は神楽の傘が弾いていった。 「ちょっと油断しただけでィ」 目を閉ざして総悟はやり過ごす。 だってまさか見回りの短時間でこんな大雨が振るなんて誰が思うだろうか。 最近の天気予報なんてあってないようなもの。 昼間までの晴天に騙されただけだ。 「そのうちすぐ止みまさァ」 茶屋の軒からは連なった水が激しく地面を掘り起こしていた。 大きな雨音に声が聞こえにくい。 神楽は傘の隙間から上目遣いに総悟をじっと見て、訝しげに首を傾けた。 「お前風邪アルか」 酷く枯れた声をどうやら雨は隠すことが出来なかったらしい。 「風邪じゃねぇよ」 総悟がこみ上げる堰を手で覆って、ぶっきらぼうにそう返す。 風邪だと認めればまた被さってくるだろう神楽の嫌味を避けるためだ。 そう答えることが何よりも明瞭な肯定だということは知っていたのだが。 ふうんとだけ神楽は小さく答えた。 会話はそこで途切れる。 喧嘩腰の彼との会話なら慣れているのに、今は喧嘩をする理由が何処を探しても転がっていない。 沈黙が鼓動を急かす。 鬱陶しげに漆黒の雨空を見上げた総悟の顔を、神楽がちらりと盗み見た。 眉を寄せて何処か憎らしげに優雅であるはずの月を見据える彼の瞳に戦慄を感じさえした。 一瞬躊躇したものの。 神楽はパタンと真っ赤な傘を畳んで、彼の隣に、茶屋の軒下に潜り込む。 湿気と熱気を含んだ板壁にゆっくりと背中をつけた。 まるで物珍しいものを見るかのように。 少し驚いた表情で、総悟は肩を竦めた。 「帰らねぇのか」 枯れきった声がせせら笑った。 「少し一緒にいてやるヨ」 大人ぶった口調で神楽が答える。 そして小さな人差し指で己の眉間を指差した。 「そんな顔で考え事してたら胃に穴開くネ」 先ほどの総悟と同じようにくっと眉を寄せてから神楽は小さく笑って見せる。 ――ガキの癖に。 神楽の五感はどんな些細な流水の変化ですら捉えることが出来るのだろうか。 何も答えず総悟は再び空に目を移した。 雨は止まない。 けれど月がその暗黒の雲に隠されることはない。 総悟が屋根から滴り落ちる雨滴にすっと手を伸ばした。 指先で、ついと撫でるかのようにひんやりとしたその感覚を感じていた。 「知ってるアルか」 沈黙を打ち破って、不意に総悟の隣で大人しくしていた神楽が話を切り出した。 その先を促そうと、総悟はちらりと少女を見やる。 視線を感じ神楽は彼の目を覗き込んだ。 「月には兎が住んでるんだヨ」 それは幼子の時。 十五夜の綺麗で真ん丸い月を見上げながら、姉が教えてくれたこと。 月では兎が餅つきをしているのだと。 何て、幻想的で微笑ましい虚偽。 「それがどうかしたのか」 けれども彼女が突然その話をした理由がわからなくて。 総悟は首を傾げた。 するとなにやら神楽は不服そうに唇を尖らせた。 「そんな怖い顔して月を睨んだら兎が怯えるアル」 子供染みた理由だと思った。 思わず総悟が噴出す。 掠れた声でひとしきり笑った。 「心配すんな。俺が睨んでたのはかぐや姫でさァ」 愚かにも人間を、魅了すだけ魅了してあっさりと帰った異国の姫。 この乱暴な気持ちは一体何処からくるのだろう。 「男どもはあんなにかぐや姫を我が物にしようと必死だったってのに、ひでぇ話だ」 微かに総悟が笑った。 彼の言う、かぐや姫を睨みながら。 その総悟の顔は、言葉の割りに哀愁が纏っていた。 神楽が小さく首を振る。 「悪いのは、かぐや姫だけじゃないヨ」 御伽話のお姫様を庇いだてするわけじゃなかったのだけれど。 彼のこんなにも寂しそうな表情を見ていたら。 思わず重ねあわさずにはいられなかった。 かぐや姫と同じく、異国からこの地球に降り立った己を。 「かぐや姫を確り掴んでなかった男も悪いアル」 本当に姫を傍に置いておきたいのなら、どんな手を使ってでもこの地に結び付けて置くべきだったのだ。 姫のちょっとやそっとの決心じゃ揺らぐことがないくらいの鎖を使うなりして。 総悟がちらりと神楽を見た。 わざと神楽は視線を合わすことをしなかった。 何故なのか自分でもよくわからない。 畳んだ藤色の傘からは雨滴が垂れて、神楽の足元に水溜りを作っていた。 雨の音以外、辺りは嫌に冴え渡っている。 「言うじゃねぇか、ガキが」 総悟は鼻で小さく笑った。 そしてすっと手が伸びて、不意に神楽の細い両腕を掴んだ。 一連の動作はまるで一瞬のことで。 華奢な神楽の身体が彼の力で茶屋の壁に押さえつけられた。 そのまま乱暴に口がふさがれる。 「!」 夜兎と言えども所詮少女の力に過ぎない。 抗おうとも敵わなかった。 突然口を覆った暖かさと息苦しさが交差して合わさる口唇の端から神楽の声が漏れた。 「ちょ…!」 咄嗟のことに判断がついていかない。 ようやっと総悟が神楽を解放したとき、既に神楽は酸欠状態だった。 鼓動は怖くなるくらい早く脈を打っている。 身体の何処にそんなものを溜めていたのだろうと思えるような熱がじわじわを湧き上がってくるのを感じた。 肩で大きく息をして、涙目のまま総悟に抗議を一発入れてやろうと口を開きかけた瞬間。 言うほど逞しくない筋肉質の彼の腕が、今度はあまりに優しく引き寄せるように神楽を犇いた。 小柄な神楽の身体はすっぽりと包み込まれるように総悟の胸の内に収まった。 たたくはずだった憎まれ口は一体何処へやら。 半開きの唇を神楽はきゅっと結ぶ。 今まで何度かこの腕で抱きしめられはしたけれど、今ほどに彼が弱くて、そして自分が素直になっているのは初めてな気がした。 心臓は鳴り止まない。 神楽はぎこちなく総悟の胸にそっと額を寄せて、耳を当てた。 ゆっくりと鼓動は動いていた。 総悟は間違いなく今此処に存在して、神楽を抱きしめているという証明。 「いきなりマジきもいアル。風邪うつったらどうしてくれるネ」 優しい彼の体温になれてきた頃。 口を開いたのは神楽だった。 穏やかで、包み隠すことのないその言葉。 神楽を抱きなおすように総悟は蠢いて、相変わらずの調子でおどけて見せた。 「うつるほうが悪りィ」 甘い言葉は掛けられない癖に。 それでも神楽を抱く腕を解こうとはしなかった。 薄暗闇の中。 柔らかい色をした月だけが、相変わらず穴を穿いたように浮かんでいた。 雨は止まない。 それは、月に住む兎たちの祝宴か、はたまた、哀れな姫の哀しみの涙か。 END. |