心が崩壊する音は、思ったよりもずっと優しかった。
暖かい湖に身体が浮いている感覚の中を、ずっとサスケは彷徨っていた。
暖かいくせに、それがやけに不快で、逃れたくて逃れたくて目を閉ざすと聞きたくない声が何処からともなく聞こえてくる。
醜い人間の浅ましい言葉。
弱い自分を護る術を持っていなかった子供の頃の己にとってその言葉が柔らかい胸に痛かったのを思い出した。
誰も居ないと思い込み、独りで居る自分が何より可哀相で。
求めたかった温もりを忘れたふりをして、これ以上傷つくのを避けるために何枚もの殻を重ねてきた。
それでもその殻を必死に割ろうとした少女がいた。
自分が生んだ心無い言葉で傷つけても彼女は弱き己に手を差し伸べてくれた。
縋ろうと、何度手を伸ばしたことだろう。
その度に過去の傷が邪魔をして上手く彼女の手を掴めない。
そうしているうちに、だんだん怖くなってきた。
目の前に広がる手。
決して頑丈ではない手。
自分なんかが握って、穢れないだろうか、壊れないだろうか。
それは、少女の手を心配してのことじゃなかった。
ずっと握っていた手が壊れてしまって、突然暗闇に放り出されたあの恐怖心が蘇る。
この少女の手を壊してしまえば、本当に今度こそ自分は独りになる。
それがただ嫌だった。
だから、湖を抜けた。
暖かかったけれど、その暖かさに自分は酔っている場合ではなかった。
目指す道は決まっている。
自分の足元には標ひとつないけものみちが広がっている。
行かなければならない。
鉛のように重たかった足は、今思えば身体の拒否反応だったのだろうか。
それでも右足をサスケは無理に動かした。
一歩。
前に踏みしめようとしたとき。

現実に引き戻された。


「……」

ドクンと大きく心臓が跳ねて、呼吸が一瞬止まった。
大きく見開いたサスケの瞳にはガラス戸一枚が介された太陽の光が降り注ぐ。
全身の筋肉が硬直して動かない。
自分でも信じられないような力で、サスケはベッドのシーツを握り締めていた。
浅く激しい己の呼吸が何処か遠くで呼応する。
鼻の奥をつんと医薬品の匂いが刺激して、サスケに此処が病院であることを認識させた。
先ほどの悪夢のせいもあってか頭が酷く痛い。

激しく脈打つ己の鼓動を聞きながら、サスケはふと右手に広がる感覚に目を移した。
受けた印象は桜色。
麗しい髪が、今自分を覆っている真っ白い蒲団の上にふわりと広がっている。
左足に痺れたような感覚。
サクラの体重が被さっていた。
サスケの左手をぎゅっと握り締めたまま、少女は彼のベッドに突っ伏して一定のリズムで寝息を立てていた。

――暖かい湖はこれだったのか。

じんわりとしたサクラの優しい熱が、全身を包む。
穏やかな太陽の光で今が早朝だと知る。
半開きになったガラス窓からは、春のこの季節にしては冷たい風が流れてきた。
頬を少しだけその冷風が縛った。
次いでサスケは気持ちよさそうに眠っているサクラに目をやった。
露になった二の腕がやけに白く見えて、冷え切っていることを表していた。
このままでは風邪を引いてしまう。
安っぽいパイプベッドの足元に、使われていない毛布が一枚畳んであった。
それをかけてやろうとサスケが上体を起こそうとしたとき。

「…っ!」

全身を、激痛が走った。
思わず首筋を抱え込む。
その事態にサクラが飛び起きた。

「サスケくん!」

握っていたサスケの左手を離し、咄嗟に彼の肩を支える。
彼の苦しみの根源は知っている。
男にしては白い肌に浮く、漆黒の呪印。
これがいまだにサスケを蝕み続けていた。
見える傷でも、疾患でもないから医療忍術ではどうすることもできない。
こんなときばかりはサクラは己の無力さを嘆いた。
一番大切な人を助けることは出来ない。
そんな懺悔を口にすることもできなくて、ただサクラは唇を噛み締めた。
何も出来ないから、何かしたくて。
サスケの温もりが篭った右手でぎゅっと彼の首筋に触れた。
包み込めるなんて思っていない。
ただ紛れることができたらいいと思った。
サクラの体温がすぐ其処にある。
苦しい時に求めたかった熱。
縋れなかった手。
もう今なら許されるだろうか。
痛みで痺れる腕を伸ばし、サスケは今目の前にいるサクラを引き寄せた。
サクラは一瞬驚いたように息を飲んだが、やがてその両手でそっとサスケを抱きしめる。
其処には言葉なんて存在しなくて、言いたかった台詞も、聞きたかった台詞も全て熱に込めた。
ちっぽけな自分が出来る全てを今貴方に尽くしましょう。
見返りは求めないから。



END.

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