※バンパイアパラレル



宝物が何故愛しいか知っていますか。
それは何を犠牲にしても、護られてきたものだから。

彼女が嘆き苦しむわけを総悟は知っていた。
それでも手放したくないというこの我儘は許されるのだろうか。


月明かりが、異様にも星一つ煌かない闇夜に浮いていた。
大きくて真ん丸い月が憎い。
無駄に広い部屋の片隅で、身体を小さく縮こませて神楽は窓越しに玉蟾(つき)を睨んだ。
血を欲して、熱が上がる。
荒い息をどうにか抑えようと、何度も何度も深呼吸を試みる。
汗で衣服がべたついた。
それが酷く気持ち悪い。
嫌い。嫌い。
月は嫌い。
私の欲望をありのままに誘ってしまう。

「おい」

耳鳴りしか響かなかった耳殻に馴染んだ総悟の声が触れた。
部屋のドアががちゃりと開いて彼が帰ってきたことを伝えた。
彼が此処へ戻ってくるのは決まって夜半。
自分の帰宅をいつも彼女は受け入れた。
けれども今日は沈黙がそれを拒絶する。
(駄目)
震える喉から声は出ない。
(来ないで)
部屋の片隅で蹲る兎は只管に己の理性を押し殺す。
総悟の足がゆっくりと、神楽に近づいた。
哀れなほど細い手足を折りたたんだ彼女はベッドと壁の間に出来たわずかな隙間に自身の身体を無理やり詰め込んでいるように見えた。
微かに開いた窓ガラスからは月明かりと共に、穏やかな風が流れ込む。
神楽はきつく唇を噛み締めた。
そうして膝を抱きかかえた腕に額を擦る。
(――やっぱりな)
総悟が一つため息をついた。

「――だから無理だっつったろィ」

神楽は臥せったまま頭を左右に振った。

「無理じゃないネ。水持って来いヨ」

篭った小さな声が途切れ途切れ息苦しげに訴える。

「いい加減にしやがれ。てめぇんなこと言ってここ三日間水しか飲んでねぇじゃねぇか」

総悟は、長い指で首元を締め付けているネクタイを外した。
そしてワイシャツのボタンを少し緩めた。
男の割りに白い肌が、露になる。
其処に覗いたのは、血が滲んだ傷跡。
痛みはするが不快なものでない。
彼女が生きていくための唯一の術でもあった。

「バンパイアなんて本来血を主食に生きる生物だろうが。人間が米食うのと一緒でィ」

どかっとベッドの端に腰掛けた。
それを優しさと呼ぶのなら。
総悟は酷く優しい。
己の血潮を神楽の生きる糧にしてくれる。
ただそれが、神楽にとって戦慄を与えていることをこの人は知っているのだろうか。
ここから月はよく見える。
総悟の足元には相変わらず蹲ったままの少女の頭を大きな掌で彼は撫でた。
それに導かれるように神楽はゆっくりと顔をあげた。
額には汗を浮かべて、何処か苦しげにこちらを見上げる。
息は荒い。
何処となく蒼い目は潤んでいた。
もう限界であることを、知らせていた。
それでも。
嫌に穏やかな顔をして少女は拒み続ける。

「――…お前の血は吸いたくないアル」

この口の中に納まる二本の白い凶器が、彼の首筋に立てられる感触が大嫌い。
生臭い血の匂いも、暖かい血の味も、それに縋る己も全部大嫌い。
吸血鬼は嫌。
ただ私は、貴方と同じ世界で生きていくことを望んでいるだけなのに。

「――お前の血だけは、嫌だ」

自分がこの人を必要とする、血以外の理由が欲しかったのだ。
彼の傍にいる理由が、ただ血の適合者だからだと認めることが哀しかった。
たとえ彼が適合者じゃなくても、自分はこの人に身を寄せることが出来ているのだろうか。
それはこの先もずっと共生していきたいと強く願っていたからであろう。
もし欲望のままに総悟の血を口にしてしまえば、それは【証明】になる。
所詮、自分は吸血鬼としてでしか彼を愛せないという【証明】。
頑固娘を前に、総悟はため息をついた。

「じゃあこれからどうするつもりでィ」

その問いに神楽は答えることが出来なかった。
ずっと水だけで生きていけるわけがないということは十分に承知していた。
けれど吸血鬼というのは厄介な生き物で、口にするのはどんな血でもいいというわけでもない。
適合しない血を飲んでしまえば、忽ち身体の全細胞が拒絶反応を起こす。
時には死に至る場合もある。
それほど血の適合者の存在は、大きなもの。
神楽は力の入らない足を踏ん張って、よろよろと立ち上がった。
それだけで眩暈がする。
やおら弱弱しい笑みを神楽は向けた。

「――お前以外の適合者を、探すアル」

総悟の目が神楽を捉えた。
月明かりに晒された白い肌。
このまま消えてしまいそうな不安が頭をよぎる。
思わずか細い神楽の手首を掴んだ。
怖いくらい冷たかった。
総悟はその腕をぐいっと己の方に引き寄せた。
大して力は入れなかったのに、バランスを崩した神楽の身体は総悟の胸に倒れこむ。
そしてそのまますっぽりと彼の腕に抱きかかえられた。
まるで脆い玩具でも触るように。
彼の手はただ優しくて、その優しさに涙がでそうになる。
こんなに密接していては総悟の首筋が露になっているのがよく見える。
其処に目立つ、痛々しい傷跡。
目に入らないように神楽は俯いた。
血がかおってしまえば、もう自制は聞かなくなる。
するとぐっと総悟が顔を寄せた。

「お前さ、知ってんのか」

いつもより低い声が神楽の耳元で囁かれた。
総悟は少女の首筋に顔を埋めた。
肌の匂いがするほどに近く。
その行為を羞恥に感じたのか、神楽が驚いたように息を飲んで、身じろいだ。

「な、何するアルか!」
「何ってお前が俺の血吸う時の真似でさァ」

淡々と総悟はそう言った。
そして白く綺麗な神楽の首に歯を立てる。

「!」

甘噛みだから痛いわけはない。
それでも、総悟の肩にかけられた神楽の手にびくっと力が篭った。
月明かりでしかよく伺えないが、白かった彼女の肌は徐々に紅潮していくのがわかる。
その理由を総悟はよく知っていた。

「な、思ったより理性は持たねぇだろィ」

神楽にしてみれば、血を吸う行為とは、ただの食糧補給だったのかもしれない。
けれどこちらからしてみれば、そう割り切ることはできない。
毎回毎回どれだけこの高ぶる理性を我慢したと思っているのだ。

「俺以外の男にこうして食らえつくつもりか」

適合者を変えるとはそういうことだ。
他の男と、互いの息遣いまで鮮明に聞こえるほどに密接して。
冗談じゃない。

「……」

押し黙った神楽が総悟を見つめた。
その、血を欲する瞳を総悟は覗き込んだ。
顔は赤く火照っている。
総悟が己の舌の端を、ぐっと噛み切った。

「っ!」

思った以上の痛みに少し眉を寄せる。

「!お前何して、」

神楽の言葉は中途半端に途切れた。
彼が神楽の唇の自由を奪った。
総悟の口からは血の味がした。
(こいつ!)
この男、わざと神楽に血を飲ますために舌を噛んだのだ。
わかって神楽は咄嗟に逃れようとしたが、それを総悟が許さない。
逃れようとすればするほど、深く口付けは絡む。
その度に血が喉に流れ込んだ。
理性は徐々に狂わされる。
血を欲していた本来の欲望が抑えられることなく神楽を支配した。
合わさる唇の端から、総悟の真っ赤な血が顎を伝う。
それが白いシーツに染みを作った。
けれど構いやしなかった。
頭がぼうとする。
それは総悟によって齎される熱に酔わされているからなのか。
はたまた血が神楽を狂わせているのかはわからなかった。
喉を彼の血が流れる。
不快なわけない。
だって心の何処かではその血を望んでいたのだから。
普段交わす口付けよりもずっと深くて長いものだったのに、神楽は息苦しさを訴えることはなかった。
やがて名残惜しそうにその唇は離れる。
息が切れたのは珍しく総悟のほうだった。

「お前ちょっとは手加減しやがれ」

肩で息をしながら、そう睨みをきかしてやった。
神楽も大きく息をする。
足りなくなった酸素を肺が一杯に求めていた。
泣きそうに眉を寄せて、小さな手はぱちっと総悟の頬を包み込んだ。

「――…お前の血は嫌だっていったアル」
「そうかい、そりゃ悪かったなァ」

肩を竦めて総悟はおどけて見せた。

「舌なんて噛み切って、お前出血多量で死ぬかもしれないヨ」
「こうでもしなきゃてめぇ血飲まなかったろ」

当たり前だ。
怒気の色をした神楽の目が睨んだ。

「お前の血なんか飲みたくなかったのに」
「くどくどうるせぇよ」

神楽が拒絶する理由なんて百も承知だ。
でもこっちにしてみれば、傍にいる理由はなんだっていい。
神楽がただ己の血を必要としているだけだとしても、構いやしない。

「お前はただ黙って俺の血吸ってりゃいいんでィ」

彼女が他の男に縋るなんて考えたくもなかった。
俺が適合者だった時点で、あんたに自由なんてない。
こちらを見つめる神楽の横顔が月明かりに照らされる。
ゆっくりと、その影は彼と重なった。
小さな口から覗いた二本の白い歯。
唇を合わせてしまえばそんなことは気にならない。
珍しく神楽の舌が総悟のそれを捉えた。
傷付いた箇所に多少痛みが走りはしたものの、柔らかい感触が総悟の理性を狂わせる。
するっと神楽を纏う黒いドレスの肩紐に手を掛けた。
白い肌が何の抵抗もなく紐を滑らせる。
月光に光って見えた。
抱えていた神楽の身体を総悟は己が腰掛けているベッドに倒した。
それでも深く交わる唇は離れようとしない。
彼女の甘い吐息だけが切れ切れにこの広い部屋に響いた。

「――やけに積極的じゃねぇか」

顎を伝った唾液を手の甲で拭いながら、総悟が揶揄気味に言った。
白いシーツの上に押しやられて神楽の髪はふわりと広がる。
ベッドに体重をかけると、スプリングが軋む音がした。

「傷は舐めときゃ治るネ」

そんなことを言って、神楽は総悟を求めて手を伸ばす。
彼の首にきゅっと絡めた。
そしてもう一度口付けをせがむように彼の顔を覗き込んだ。

「んじゃ治るまで舐めてろや」

仕方なく、総悟はその行為につられてやる。
鉄の味が広がる口で、神楽の口を塞いでやった。
高ぶる熱は、抑えられることもなく。
月がやたら眩しかった。
神楽の肌の色を掠めてしまうような月夜の元でただ欲望は膨れ上がる。
その光に晒されて、少女が只管血を欲したように。

END.


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