姿形は全く違わないのに、こういう時、強く思ってしまう。 自分が、「人間」ではないことを。 もしも、 「人間」は肉が裂けると、数日は動けない。 痛々しいほどの真白の布を、裂けた箇所にこれでもかというほどぐるぐる巻きにして、晒された肌は、その布と大差ない色をしたまま、肉塊は微動だにしない。 ただ決められたように呼吸だけを繰り返し、腹が上下するのを神楽は食い入るほどじっと眺めていた。 自分は――。 「人間」でない自分は、こんなにも長い間伏せったことはない。 それが不思議であったと同時に改めて理解させられた。 「私」には「人間」の気持ちを知ることができない。 そして「人間」が「私」の気持ちを知ることはない。 私たちは、相容れない存在。 「神楽ちゃん」 この状況に不釣り合いなほど柔らかな声が、襖が開く音と外界の光と共に飛び込んできた。 一度にたくさんの情報が与えられ、神楽はすぐに反応することができない。 「いい加減休んだらどう?もう二日寝てないでしょう」 新八の声はあくまでも優しい。 なぜ優しいのか。 それは、今神楽が何気なく置かれている状況が、普通の「人間」であれば、苦痛に感じることであるからだ。 だから優しく、穏やかに、促す。 休んではいかがか、と。 「別に、寝なくても平気アル。私は、」 意味深に言葉を切ってしまい、思わず神楽は口を噤んだ。 そんな彼女の心中を察してか、新八は、そうか、と一つ頷くと、 「これ、煎じた薬。沖田さんの目が覚めたら飲ましてあげて」 持っていたお盆を神楽の隣に置くと、余計な言葉は残さず部屋から出ていった。 新八が消えた襖を神楽はじっと見つめる。 そうして目を伏せた。 「……」 今度は目の前に横たわったままの男の顔にまた視線を戻す。 「人間」であるこいつを見つけたのは、二日前。 白昼の似合わない暗い路地裏で、腹を裂かれたまま倒れていたのを、たまたま見つけたと銀時らにはそう話した。 本当はたまたまなんかじゃない。 無意識に血の臭いに惹かれただけだ。 壁にもたれかかるようにして項垂れていた男の足元には、明らかに彼が手をかけたであろう男の死体が無残にも血まみれの状態で投げ出されていた。 血の海と表現するに相応しいその情景は、皮肉にも神楽が一番嫌いな光景で、そして本能では望んでいる光景。 嫌悪なのか興奮なのかわからない感情が、腹の奥底から沸々と沸き上がるのを感じたが、ひとまずそんなことは置いておき、さてと、と神楽は蒼穹に広げていた傘を音もなく閉じた。 「…こんなもの、気絶してからも握ってんじゃねぇヨ」 血まみれの男の手にしっかりと握られた刀にそう呟き、神楽はそっとその手を解いた。 ガシャンとコンクリートの路地に投げ出された刀はまだ、人の血を吸いたげに輝いて見せた。 神楽はその刃を見ていられずに、総悟の腰の鞘にしまった。 一見すれば誰もが絶命したと思われる肢体の背に腕を押し当て、力なく垂れきった腕を己の首に回し、ぐっと踏ん張る足に力を入れる。 それだけで、この男の身体は無力にも浮き上がる。 裂かれた胸に耳を寄せると、微かに脈打つのが聞こえた。 総悟がまだ生きていることに、我知らずほっと胸を撫でおろし、人目につかずこれを運ぶにはと思考を廻らした結果、いつも神楽が連れている白獣の背に預けることにした。 万事屋に辿り着いた時の、銀時と新八の顔は予想がついた。 思い描いた通りの反応をした彼らは、慌てふためきながらも、彼を迎える準備をしてくれた。 総悟が仲間を連れずこうした事態に陥ったこと、そして、彼の傷の深さからどこかに移動することができないことを総合的に判断した銀時が、公にすることはせず、馴染みの医者を寄越してくれた。 真選組の屯所には新八が連絡を入れた。 そこで何と言われたのか神楽は知らない。 ただ、もう二日、何の音沙汰もないことから彼らにも何らかの理由があることを知る。 そんなこと、別にどうだっていいのだけれど。 「……っ…」 神楽がじっと見つめていたものに、二日ぶりに変化があった。 割と綺麗なほうであろうその顔を歪め、辛そうに身を捩ったのだ。 「…――沖田…」 思わず名を呼んでしまう。 呼びかけるでなく、呟いただけのその音が、総悟の瞼を開ける要因となった。 重たそうな双眸を持ちあげながら、何度か瞬きをして、入ってくる光に慣れようとしているその行為に、彼が目覚めた事実を神楽はようやく認識した。 「…チャイナ娘」 聞いたこともないほど掠れた声で、総悟が目の前に飛び込んできた光景に名前を付けた。 とりあえず、今置かれている自分の状況が把握できなくて、総悟は強張った半身を起そうとする。 それとともに脇腹の痛みが頭の芯まで刺激して、咄嗟に身を丸めた。 「…ってぇ…!」 「マジ情けないアル。そんな傷ごときで、いっちょまえに瀕死になってんじゃないネ」 この二日。 碌に言葉を喋らなかった口から、我慢しきれず罵声が飛び出す。 喉の奥にずっと張りついていた何かがすとんと落ち、急に身体が軽くなるのを感じたと共にどうしようもなく遣る瀬無くなった。 「なんでてめぇがいるんでィ」 「私の家に私がいちゃ悪いアルか」 震えて聞こえる自分の声は幻聴なのだろうか。 「は?」 呆けて総悟が眉を寄せた。 その顔はもっともだろう。 どう説明しようか迷って神楽が目を泳がす。 否、いうなれば、口を開くことが出来なかった。 溢れそうになった何かを必死に堪えることだけが、今の神楽には精一杯だった。 その時、襖がすっと開いた。 「え、なになに?いつから沖田くん魚屋でバイト始めたの?」 下を向いて唇を食いしばっていたから、顔をあげることさえできなかったが、声音だけで誰の登場か知る。 「旦那…」 上体を起こしたままの総悟の枕元に、銀時が腰掛けた。 「夕飯の材料買いに行かせたら、こいつ間違って沖田の開き買ってきちまって。食べ方わかんねぇからとりあえず天日干しにしてたんだけどよ、よかったね、グリルに入れられる前で」 そういって銀時はおちょくって見せた。 ちらっと視線を神楽にやると、俯いたその瞳は子どものようにどこか揺らいでいた。 泣きそうに光らせる瞳からは、神楽の感情が手に取るようにわかる。 そんなことは露知らず、総悟が少し笑って肩を竦める。 「こんな苔の生えそうな場所で開き天日干しなんてしてたら生臭くなって仕方ねぇ。旦那、天日干しの意味もっぺん料理ブックで調べたほうがいいですぜィ」 自嘲を交えてそう言った。 相変わらずの減らず口に銀時も負けじと言い返す。 「ま、ちゃんとてめぇの魚群には連絡入れといたからよ、あとはてめぇで群れに帰るんだな。俺、開き以外の魚なら無理だから」 その会話をちゃんと聞いているつもりだったのに、神楽はどこか遠くでそれを見つめているようだった。 銀時は多分、助け舟を出してくれたのだろう。 此処にいれば、恰好がつかないことになるのを見抜いていたのかもしれない。 「もう捕まんじゃねぇよ」 銀時が、ひらひらとおどけて総悟に手を振った。 その手で神楽の腕を優しく掴み、立たせようとする。 「ほら神楽、今晩のおかず一品減っちまったからなんか買ってこい」 (あ、まずい) 右側に総悟の、生きている彼の存在に触れてしまい、堪えていた何かが再び沸き上がるのを感じた。 銀時に支えられるようにふらふらと立ちあがった神楽が一歩、前に足を動かした瞬間。 頬に何かが伝うのを理解するよりも早く、ぽたっと静かな音がして畳に水滴が染みを作る。 総悟がはっと気付いたように神楽を見上げた。 (恰好悪) 神楽は服の袖で思い切り拭って見せたが、止まることなく次々と涙は形になって零れ出した。 「なんだよ、神楽お前そんなに開きが食いたかったのか?わかった、今日は開き買ってきていいから。神楽ちゃんは特別に二枚食べていいから」 銀時の手がぐりぐりと神楽の頭を撫でつけた。 部屋を出る間際、銀時がちらっと総悟を振り返った。 いつもなら、その口元に笑みを浮かべ、神楽を罵る為だけに作っていた彼の顔は、銀時に半ば無理やり連れ行かれる神楽の背中に釘付けであった。 文字通り目を丸くして、情けなくも口は半開きのまま。 そうして、らしくもなく右手で己の口を覆った。 (何だ、これ) ほんのり紅潮した顔を隠すように、総悟は再び布団にもぐりこむ。 彼女に対するこんな感情を、自分は知らない。 流れた涙のわけが意外過ぎて、頭が混乱している。 そうして否定を頭にいくつも並べてみた。 神楽は本当に開きが食べたかったからかもしれない。 急にお腹が痛くなっただけかもしれない。 けれど、そのどれをとってみても、自分の知っている彼女はそんなことじゃ泣かない。 じゃあ何なら彼女は泣くのだろうか。 その理由が、己のことだなんて到底思えないけど。 でも、もしもそうであれば、嬉しいと感じてしまった自分に再度総悟は混乱する。 (ちくしょう、何でィ、あいつ) こいつが、俺を揺さぶるのか。 戸惑いを隠しきれなくて、怒りさえ覚えた。 (あんな顔、作るんじゃねぇや) 総悟は再び瞼を閉ざす。 眠ろうと深い意識に入ろうとするも、それでもやっぱり浮かんで消えない。 神楽の、涙色。 END. |