先に業を煮やしたのは私。 それでも心臓は今まで聞いたことのない音で脈を打っていたし、滴り落ちるのではないかというくらいに手は汗ばんでいた。 顔が火だるまになるほど熱く、最早他愛ない会話をしている彼の言葉など耳に入ってこなかった。 何せ産まれて初めての試みであったから、全てが分からなかった。 あれ、どうやって言葉って発するのだっけ。 そう真剣に悩むほど兎に角神楽は緊張していたのだ。 散々考えあぐねた結果、場所を変えようと彼が立ち上がったものだから慌てて口走ってしまったのだ。 「好き!」 自分の耳がそれを捉えて数秒。 用意していた言葉など、遥か彼方遠い空の向こうだ。 二人の間を、沈黙が流れる。 繕うことも忘れて神楽は固まった。 もう終わったと、耳の奥で蛍の光が流れた。 しかし。 驚くべきは此処からだった。 沖田総悟という人物を見縊りすぎた結果をとくとご覧あれ。 「なんだよ、すき焼き食べたいなら始めからそう言えや。おめーさっきから飯の話してんのにウンともスンともいわねぇから魂どっかに落として来たんじゃねぇかと思って探しに行くところだったじゃねぇか。すき焼き屋ならこないだ近藤さんに連れてってもらったとこうまかったし、あそこ行くか。にしても、最近のガキはなんでも短けりゃいいと思ってんだろィ、言葉もスカートも気も。人生には省略できないことがいっぱいあるんだから生き急ぐなよ、馬鹿たれ」 玄関に一番近い部屋で身体を丸める神楽はもう三日ほどそうしていた。 想像していた以上に失恋が与える乙女への痛手は身に応えた。 そもそもあれを失恋に勘定していいのかどうか悩ましいところであるが、神楽をこうして廃人に出来る力を持っていたことだけは確かだった。 女の子の精一杯の告白をすき焼きと勘違いするだなんて、どんなだ。 これっぽっちも告白だと捉えないだなんて、どんなだ。 そう思えば思うほど、ため息が出る。 そうだ、あの男は一切考えもしなかったのだ。 神楽が自分に恋心を抱いていることなど。 万に一つの可能性も考えないからこそ、あの馬鹿面が作れるのだ。 どうせならいっそ潔く振られたほうがよかった。 そのほうが、女という意識をしてもらえたのかもしれない。 先程銀時が銭湯へ行ってくると言い残して出て行った家には時計の音だけが鮮明に響き渡る。 今なら泣いてもいいだろうか。 目の奥が熱くなるのを感じて、神楽は布団に頭を隠した。 ああ馬鹿みたいだ。 奴を好きだと気付いた時から、自分が自分でないみたいで。 それでも精一杯がんばった。 人を真面目に愛したのだ。 誰もいない家とは言えど、漏れそうになる泣き声を神楽は押し殺した。 自分の泣き声を聞くことは今は辛い。 どうか、泣かないで。 涙よ、止まれ。 しかし、静寂は神楽に休息さえも与えてくれない。 薄い壁のこの家は、階段の軋む音で誰かの訪問を知ることが出来る。 玄関に一番近い部屋の神楽は尚更だ。 「……」 階段を規則的に上る音。 銀時の足音よりも、少し軽めで同時に鼻歌なんか聞こえたりして。 気付いてから神楽は一度開いた瞳をまた閉ざした。 えらくご機嫌なこと。 一体どの面下げて来やがった。 神楽は頬を濡らした涙を乱暴に手の甲で擦り付けた。 躊躇なく開けられた玄関の扉。 迷いなくその足取りはこちらを向いた。 思い切り襖を開けられると、差し込む光の刺激に瞼が揺れた気がしたが、神楽は黙って寝たふりを続けた。 「おい」 「……」 「起きてんだろィ、クソチャイナ」 「……」 「あ、ゴキブリ」 「!」 飛び起きてから、罠だとわかる自分は何とも情けない。 唇を噛みしめて男を睨みつけると、目があった。 涙に濡れた目、赤く染まった鼻。 この明りの下では確実に見られた。 「銀ちゃん居るから帰ってヨ」 顔を伏せながら無愛想にそう告げると、 「銭湯行くのさっき見た」 追い帰すことに失敗する。 「いいから帰れヨ、これ立派な不法侵入アル」 「お前そんな難しい言葉知ってんの。すげーな」 言いながら、総悟は帰るどころかいそいそと神楽の布団に潜り込んできたのである。 この上ないほどの密着に、まだしつこくも心臓が高鳴る自分が大嫌い。 「お前いい加減にしろヨ!重たいんだヨ」 「ちょ、静かにしてろ」 はしたなく足をばたつかせ、自分に覆いかぶさってきた彼を押しのけようとするも、その身体は思いのほか頑丈で。 びくとも動きやしないどころか、事もあろうか神楽の口を無理やり覆ってきた。 彼の手が、唇に触れる。 まるでその手に言葉が吸収されるかのように、神楽は押し黙ってしまった。 直後。 ガラッと玄関が開いたことに驚いた。 銀時だ。 「神楽ー、俺のタオル取ってくんね。忘れちまってさ」 銀時の声が近くに聞こえた。 返事など、出来る筈もない。 ただこの心臓だけが五月蝿過ぎて神楽はきつく目を閉ざした。 「寝てんのか」 銀時が返事の帰らない部屋に再び話かけた。 襖を開けられやしないかと、最高潮に緊張する。 悪いことを私がしているわけじゃない。 悪いのは自分に乗っかるこの男。 ったく、と銀時が面倒臭そうに靴を脱ぐ物音がする。 総悟の手がするりと神楽の口から離れた。 変わりに極限に近付いた彼の顔を、神楽ははっきりと見た。 唇を、今度は彼のそれで塞がれる。 (酒臭い) リビングに置き去られたタオルを取ったらしい彼は、また玄関から出ていった。 足音が遠のくのを確認して、とうとう神楽は耐え切れなくなった。 力の限り、総悟を突き飛ばす。 息苦しさに零れた涙を拭いながら、大きく肩で息をして酸素の吸引を試みた。 何だこれ、何て罰ゲーム。 「何だヨ、お前。酔ってんじゃねぇヨ、たち悪い」 ふざけるなよ、からかうのも大概にしろ。 虚しさにこみ上げる涙を必死にこらえた。 「酔ってねェよ」 「酒臭いもん」 「酒は飲んだけど酔ってねェ」 「それ酔っている奴が言う台詞アル」 神楽が声を荒げると、確かにな、と総悟が苦笑した。 暫く沈黙が流れた。 酒の匂いが籠る。 こんなところにやって来た時点で、彼が酔っているという何よりの証拠になることを、総悟は知らない。 「なァ」 今度は徐に、神楽の手を掴む。 強請るような、そんな瞳を向けられるとさすがに振りほどくわけにはいかなかった。 「こないだのあれ、本気かよ」 唐突に投げかけられた質問は容赦なく神楽の心を揺さぶった。 こないだのあれ、で連想するのはひとつしかない。 「なんだっけ、すき焼きだっけ」 たっぷり嫌味を込めて言ってやった。 「本気だったアル。おいしかったよ、すき焼き。ごちそうさん」 一息で言い切った。 ああ、駄目だ。 また息苦しさに涙が出そうになる。 総悟は後頭部をぽりぽりと掻いた。 直後彼が困ったような表情を作ったのは見逃さなかった。 「何でだよ、いつから」 「知らないヨ、気付いたときからだヨ」 「ありえねぇだろ、何でおめーが俺を好きなんだよ」 「本当アル。何でお前なんか好きなんだろう」 「どっきりかと思った」 神楽が目を逸らそうとすると、総悟が嫌に真面目な顔で見つめたから合わさずにはいられない。 「こっちがどっきりだったネ。何だよ、すき焼きって」 「お前俺を好きになってどうするわけ」 待ち合わせをしてデートをしたり、お洒落な喫茶店でケーキを分けあいっこしたり、夕暮れ時に公園のベンチでキスをしたり。 会いたいと言われれば会いに行き、誕生日に何処へ出かけようかと計画したり、何一つしてやることはできない事などわかりきっている。 誕生日だろうと記念日だろうと仕事に追われ、幕府の犬だと揶揄されて。 極めつけに、この先いつ命を落とすかわからない男をなんだって好きになったんだ、お前は。 「これ以上俺をどうする気でィ」 葬るつもりだった俺の気持ちはどうすればいい。 どこにやればいい。 あんたに傾いた心に鍵をして、否、したつもりだった。 始めから、そんなことで嫌いになれそうにもなかったのだ。 だからこれはひっそりと昇華させるべき想いであった。 ましてやあんたに好かれるなんて万にひとつも、いや億に一つも思ってなかったこの俺は、震える声で、それでもはっきりと俺を好きだと言ったあんたをあの時抱き締めればよかったのか。 「んなもん好きにするヨロシ。私はもうどうすることもできないネ」 もともとこいつとどうかなりたくて告白したわけじゃない。 自分の気持ちに気付いてしまったら、うまく振る舞えなくなった。 ただそれだけ。 稚拙だと思われるだろうが、これが私の限界。 その先を望んでいなかったと言えばそれはそれで嘘になるが、この先の形は今の私には想像つかない。 「本当に好きにしていいんだな。俺は嘘でもお前を幸せにしてやるなんて言えねぇぞ」 やけに低い声でそう言うものだから、鼻を啜って神楽が顔を背けた。 別にこいつに幸せにしてもらいたいわけじゃない。 そんな高度な事が望める女だと思うな。 「自惚れんなヨ、始めっから期待なんてしてないアル」 首まで顔を紅潮させて、潤んだ瞳で悪態付くこの生き物を総悟は溜まらず己のほうに引きよせた。 体勢を崩して倒れこんだ神楽をそのまま抱きしめる。 抗うことなく、ぎこちない動きで少女はその背に手を伸ばした。 小さな温もりは確実に総悟を捉えていた。 今酔っていてよかったと心底思った事を、例えヘタれだと罵られようとも、暫くはこの手は離せそうにない。 END. |