追撃を繰り出そうとした腕は不意に止まった。 咄嗟の出来事にさすがの総悟も付いていけず、剣の切っ先が皮膚を裂く音が聞こえた気がした。 まずったと、総悟は舌打ちをする。 が、頬の皮膚を裂かれた本人はそれはもう気持ちよさそうな笑顔を作って居たので、多少の罪悪感は一気に吹っ飛び、気味悪いとさえ思ってしまった。 いくら天人といえど一応こいつは女である。 顔にだけは傷を付けないようにこれでも、毎度毎度配慮しているのだが、当の本人はそんなこと微塵も気にせず総悟の刃に身を任すものだから溜まったものじゃない。 想定外の攻撃をしてしまった刀身は罰の悪そうに鞘に収まった。 「いきなり手止めんじゃねぇよ。相手が俺じゃなかったら今頃おめー真っ二つだぜィ」 これほどまでに闘気の萎える手合わせは初めてだ。 彼女の白すぎる肌に目立つ赤い傷。 謝るのも何か違う気がして総悟は頭をぼりぼりとかきむしった。 「決めたのヨ」 頬の傷を手の甲でぐいっと拭って、神楽は何度か頷きながら相変わらず笑う。 何をと促すと、珍しく神楽は総悟に向けて笑顔を作った。 「お前に私を殺してもいい権利をあげるネ」 それは、とてもじゃないが嬉しそうな顔で言う台詞ではない。 「へぇ」 興味なさげに総悟は呟いて、くるりと背を向けた。 突拍子すぎて現実味がない。 というか、こうもあっさりと彼女の殺害権を、しかも本人から与えられてしまうとそれこそ興醒めというやつで。 少なくとも幾度となく交えた神楽との拳には、殺す殺されるという終わり望んでいたわけじゃない。 そうだとも、顔を合わせる度に理由なく物騒なものを振るいあっていた自分たちの間に殺生以外の結末を望んでいたのかと言われればそれともまた違う。 もっとも、いくら本人から殺してもいいと言われたところで、大人しく殺されるような神楽でもないことはよくわかっていた為、余計に先ほど授与されたばりの殺害権の信憑性は皆無に等しかった。 夕暮れ染まる土手道を総悟の背中は何も言わずに遠ざかる。 ただいつも通り。 小さくなるその背を眺めて、神楽も帰路へ付いた。 あの日以来、彼と逢うことは二度となかった。 どっかの大馬鹿があまたの馬鹿どもを引き連れて地球を侵略しに来た為、名ばかりでも正義のヒーローは闘わざるをえなくなったのだ。 酸素の吸引を繰り返しすぎて呼吸器官がひゅうひゅうと悲鳴を上げた。 まるで家の中に隙間風が吹き込んでくるかのような音。 身体に隙間なんかあったっけと悠長なことを巡らせながら、神楽はその答えを見つけてしまう。 腹を穿った大きな穴。 迸る血は壊れた水道管のように止まってくれない。 (水のトラブルはどこに電話したらいいんだろう) 自らの身体を皮肉って、神楽が苦笑する。 己の前に佇む影も随分と苦しそうに荒い呼吸を繰り返していた。 ぜいぜいと音がする。 軋む古柱のように。 「兄妹揃って欠陥住宅アルな」 辛うじて笑ってみせると、神威も引きつった笑いを見せる。 「そうだな。そろそろ俺が建て直してあげるよ」 彼の手には藤色の傘が握られていた。 どんよりと曇った天に一度その切っ先を向けてから、ぶれることなく神楽の喉元に照準が定まった。 ああこのまま殺されるのかと疑いなくもそう思うのに、腹の底から湧き上がる根拠なき安心感が神楽に絶望を与えてくれない。 「結局、弱い奴は弱いまま死んで行く」 珍しく余裕がなく、瞳孔が開ききった神威の蒼い目には恐らく妹としての神楽は映ってないのだろう。 死にかけた只の弱者。 こいつの中から妹が死んだのはいつだったのかは、少しだけ知りたい気もした。 「私を殺すアルか」 「殺す?」 神威は首を擡げた。 「壊すって言うんだよ、ガラクタは」 背筋が凍るほどの冷たい言葉。 これが自分の終焉になるかもしれぬ。 それでも、神楽は霞む目で揺るぎなく神威に向き直った。 「お前に私は殺せないヨ」 はっきりとそう言い放ち、笑ってみせる。 神威の眉が少し揺れた。 「だってお前は私より弱い」 「強がりも甚だしいね」 相変わらず見下す瞳に初めて狼狽が伺えた。 恐らく、自分自身は気付いていないのだろう。 かつて間違いなく存在した家族の幸せが宇宙最強であるはずのこいつにとって、枷になっているということは。 「強がりなんかじゃないヨ。兄ちゃんはいつだって逃げてばっかりだったネ」 大好きな母親が死ぬのを見たくなくて逃げ出した、たった独りの妹を守らなければならない責任感から逃げ出した、ざわめく血に抗うことから逃げ出した、臆病な神楽の兄である。 なんてことない。 血の繋がったたった一人の兄なのだ。 「強い奴、弱い奴の区別を付けないと周りに呑まれてしまいそうでいつもびくびくしてるただの弱虫アル」 「!」 神威が手にしていた傘を振るって神楽の頭を殴りつけた。 脳が激しく揺れる。 「黙れ!」 普段感情を露骨に出さない兄が激昂した。 「そうやって気に入らないことがあったらすぐに手をあげるのも弱い証拠ヨ」 口の中が数カ所切れているため口蓋を血の味で満ちる。 神楽はもう力の入らない腕をのばし、神威の傘を掴んで再び己の喉元にあてがった。 「今此処で私を殺せたら兄ちゃんは望み通り強くなれるかも知れない。でも、妹の挑発に乗った弱い兄に成り下がるネ」 一切の躊躇いを見せず、抵抗も見せず、神楽は目を閉ざした。 閉ざす瞬間、ああやりすぎたと思った。 冷酷非道な兄が今更妹を殺すことに罪悪感を覚えるとも思わない。 けれどこんな安い挑発に乗るとも思えなかった。 神楽は喉元に突きつけられる鉄の感触を何度も何度も繰り返し意識する。 ひやりとした触感は、不思議と怖くなかった。 そればかりか僅かに震えている傘の切っ先を愛おしいとさえ感じた。 兄ちゃん。 幼き頃いつも面倒を見てくれた兄。 あれは一生忘れられぬ恩だ。 あの時握った兄の掌は泣きたくなるほどに暖かかったことは覚えている。 今の兄の手はどうだろうか。 まだ暖かいのだろうか。 刹那が果てしなく感じた。 一切の音を遮断して、死を覚悟した神楽がもう一度瞼を開いたのは、首元に宛てがわれた鉄の感覚が遠のいたからだった。 目の前の光景は、異常と呼んでもいい状況なのだろう。 長らく姿を見なかったから、その名前さえ忘れてしまうところだった人物が、まるで神楽を庇うかのように立ちふさがっていたのだ。 そしてそいつの足下には頭を抱えた兄が顔を歪ませて倒れていた。 「兄妹仲睦まじい所、割って入って悪かったなァ、チャイナ娘」 少し訛りのある口調も、神楽のことを異名で呼ぶ癖も、相変わらず気にくわない奴。 目の前が霞む。 血が流れすぎて、心臓がいつも以上に早鐘を打っていた。 「本当、無粋な真似をしてくれたもんだよ」 そう答えたのは神楽ではない。 覚束ない足を踏みしめて立ち上がる神威だった。 視線が定まらず、瞳は真っ赤に充血していた。 「文句なら、てめぇの愚妹に言いなせェ。俺ァ、こいつに殺害許可もらったんでな、実行するなら今がチャンスだと思って来ただけでィ」 言いつつ、総悟は刀を構えた。 僅かな光をその先端が拾い、一瞬だけ眩く光った。 なんと美しいのだろう。 霞む目をなんとかこじ開けて、神楽は思わず見とれてしまった。 やはり、殺されるならこの刃がいいとかつて願ったのは間違っていなかったのだ。 「おい」 黒い背中が神楽に呼びかける。 「俺はこんな化け物、殺せそうにないぜィ」 ゆらゆらと傘を握り直し今佇んでいる兄からはもはや生気が感じられなかった。 妹を殺しきれず、こともあろうか人間に打ちのめされた彼の絶望は計り知れない。 今兄が立っているのは、死ぬまで闘う使命を忠実に遂行する、愚民族の本能。 神楽は兄に開けられたら腹の傷に触れた。 もちろん激痛が走り、眉を寄せる。 でも大丈夫、まだ生きている。 「殺せなくていい」 正確には、殺さないでほしい。 神楽が兄と呼ぶ男は、今までに数え切れないほどの命を奪ってきた。 けれども、しつこいほどに神楽の兄である男なのだ。 例え身勝手でも死んでほしくなかった。 「でも、お前も殺されんなヨ」 それは聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声だった。 「言われなくても」 一度だけ神楽を振り返った総悟は、不敵にも笑ってみせた。 この男が齎す希望に私はどれだけ縋りつくつもりだろうか。 閉ざされゆく意識の中に、もう一度光を見た。 幾重にも重なる光の筋。 END. |