「わかったヨ」 喉に力を入れて、ただ一言を発するだけにどれだけの時間がかかっただろう。 やおら神楽は顔を挙げた。 暗闇の中、慣れた目が総悟を捉える。 総悟の、瞳の奥を見据える。 「離縁くらい、お前が望むなら何百回としてやるネ。でも、」 細い細い神楽の指がすっと真っすぐ伸びる。 ぶれることなく、指の先端が標したもの。 「刀は置いてけ」 総悟の腰にぶら下がる大嫌いな凶器を睨むようにして見つめ、神楽は鋭く言い切った。 「おいおい」 刹那、驚き眼で神楽を凝視した総悟だったが、またこれは何の冗談かと言いたげに溜息をつく。 「そいつは聞けねぇ相談だ」 「じゃあ離縁はしないヨ。お前を此処からも出さないアル」 頑なな少女は折れない。 刀を置いていく意味を、こいつはよくわかっている用だった。 「ぼろぼろの死にかけの身体で、そんな物騒なもんこさえて、お前は一体何をしに行くアルか」 総悟の目が少しだけ大きくなったのを神楽は見逃さなかった。 何をしに行くかって? そんなもの一つに決まっている。 理不尽な理由であんたを狙う鬼どもの首を掻き切る為の鬼成敗だ。 「……」 そう答えようとした総悟の唇は操られたように動かなくなる。 模るはずだった言葉は跡形もなく消え去り、不甲斐なくも神楽に自分の行動が悟られた動揺は隠せなかった。 ガキの癖に、透いたような目で世の中見てんじゃねぇよ。 お前の知ってる世界なんて本当に本当に、ちっぽけなんだ。 神楽が置かれている運命は、彼女が自分で思っているよりもっと危険を孕んでいるのだ。 その危険から、只俺は――。 「――…あんたを」 張りぼての強さなんかで、初めから神楽を誤魔化せるわけなかったのだ。 なんだよ、頼むから。 最期の最期までかっこつけさせてくれよ。 お前の憎しみは背負っていくのだから、見逃してくれ。 こんなはずじゃなかった。 こんなところで情けなくお前に頭を垂れるつもりはなかった。 「…あんたを、幸せにしたいだけだ」 総悟の声にしては頼りない音が神楽の耳には心地よかった。 口だけはいつも達者で、慣れない笑顔でいくつもの虚勢を張って。 板についた悪役だけは立派に演じようとする、大根役者の癖に。 こんなにも脆くて弱い総悟を神楽は初めて見た。 医者から労咳だと聞かされた時も、神楽が妊娠したと知った時も、こいつはどれだけの仮面を被っていたのだろう。 独りで、背負えない荷物を背負いこんで、馬鹿みたいだ。 「お前なんかに幸せにできないヨ」 幸せにされるつもりも、されたくもない。 自分と総悟の関係は、幸せをもたらしあうようなそんな温い関係じゃなかった。 幸せになるために私たちは共存しているのか。 そんな三流ドラマみたいな理由で、こいつと一緒になったのか。 違う。 私たちの関係は、其処らにありふれたものなんかじゃない。 「一緒に生きていくんだヨ」 生きるために、私にはお前が必要で、お前には私が必要なのだ。 鬼の首なんて欲しくない。 鬼退治なら私にだってできるから。 泣きそうなのを堪えてか恐ろしい顔で神楽は険しい顔で、下唇を噛みしめた。 血がにじむのではないかと思うくらい、きつく。 そうして小さい両腕を目いっぱい総悟に向かって広げた。 意識するよりも早く総悟の身体が動いた。 初めはゆっくりと、けれど神楽の熱に触れてしまえば、彼女を犇めく腕に力が籠る。 床に臥せって命の果てを垣間見た時、ただ神楽がこの部屋に来る足音が救いであった時。 それがいつか無くなってしまうことが怖かった。 濁った咳が総悟を冒し続ける度に、掌を血で赤く染める度に。 彼女をそして子どもを残して死にゆくことが怖かった。 この矛盾はどうしたら解消されるのだろうか。 何故誰も何も失うことなく終焉を迎えることはできないのだろうか。 「あ」 総悟の肩に口を潰されていた神楽が、思わずくぐもった声を洩らした。 何事かと少し腕を緩めると、愛おしそうに神楽は自身のお腹を擦る。 「今、動いたヨ」 「嘘」 言うや否や総悟が神楽のお腹に手を添えた。 初めて触った神楽のお腹は、異常なまでの温もりが溢れていた。 聞こえない鼓動が聞こえるような気がして。 総悟はそっと耳を寄せてみた。 その彼の行動に、神楽は口を尖らせて拗ねる仕草をする。 先程手渡された札束で、思い切り総悟の頬を弾いた。 「って!」 「てめぇこれっぽっちの金で赤ん坊を死神に引き渡せって言った奴が気安く私の子どもに触るんじゃないネ!だいたいこんな大金あったら何で生活費に入れなかったアルか!お前がいないこの数カ月、食い繋ぐのも必死だったっていうのに!」 「あるだけの金お前にやったら全部食費に消えるだろうが。いろいろ考えてんだィ、俺だって」 「ふーん、この子を殺す為の資金とかアルか」 見下す神楽の目は冷酷だった。 さっきまで泣きそうな顔で総悟に抱擁を求めていた奴とは別人のようだった。 けれど。 「――……」 さすがに今回のことは総悟の分が悪いというか。 暴走しすぎて申し訳ないというか。 「――その、悪かっ」 「私じゃなくって、私の子どもに謝るネ」 神楽は総悟の手首を掴むと強引に自分の腹に手をやった。 その時。 掌いっぱい満たす、微かな合図がまるで地響きのようにどんと伝わった。 「許さないって」 神楽が自分の辞書で訳して丁寧に教えてくれたが。 最早そんなこと耳に入らなかった。 訳も分からず、総悟は泣きたい気持ちになる。 生きたかった。 こいつと、きっとこいつによく似ているであろう子どもと共に。 贅沢はしなくていい。 それなりの、生活を送れさえすれば、ただ一緒に生きてさえいればよかったのに。 そんな当たり前の願いすら神様は叶えられないほど、総悟は多くの人の恨みを買いすぎた。 泥に塗れて生きる覚悟はあった。 自分がいなくなると哀しむ存在がいる中で、死に行く覚悟はしていなかった。 たくさんの恨みを吸ったこの腕が我が子を抱きしめることは恐らくないだろう。 愛しい子は父親の顔を知ることなく生きていくのだろう。 もしかしたら生前父が遺した大きな罪をかぶることになるのかもしれない。 自分が守ってやれない世界で、きっと、父を恨みながら。 例えそうだとしても。 不謹慎にも、自分勝手にも。 この時ほど、総悟は自分の命が朽ち掛けていてよかったと思ったことはない。 たった一つの胎動で、心の底からの幸せを感じることができたのだから。 ただ改めて切に願った。 何があっても、この微かな命と、強い母親だけは生きていてほしいと。 END. |