(急がなきゃ)
神楽は家を出てからだいぶ時間が経っていることを思い出した。
このままでは予約の時間に間に合わない。
近道をするしかないか。
神楽は踵を返して、一筋手前の裏路地に入った。
少し陰気臭いけど、ここから行くのが一番早い。
飲食店のゴミを回収するポリバケツが等間隔で置かれていた。
そのためか、子どもの頃よりも少し狭く感じる。
身体の大きさが変化したというところも一理あると思うが、もっと感じた別の違和感は――。

「……」

神楽の足がぴたりと止まった。
青色の瞳がすうっと細くなる。

「出てこいヨ。気付かないとでも思ったアルか」

傘を握り締める手に力が籠った。
なんて今日は、ついていない。
何処からともなく、砂利を踏む足音が聞こえた。
四、五――。
意識を集中させて、その数を確認する。
その中でも一際大きく聞こえた足音が、正体を現した。
腰に刀を下げた男は、ゆらりと、こちらを見据えた。

「真選組一番隊隊長、沖田総悟の縁者とお見受けするが、相違ないか」

否定することは許されない面持ちの男が問うた。
肩を竦めて神楽は首を振る。

「違う、と答えたら」
「どう返答してもらっても構わない。だが、そなたが沖田の妻である事実はこちらで確認済みだ」

言いながら男が腰の刀をすうっと抜いた。
暗い裏路地でも光を受けて、妖しく光る切っ先はまっすぐに神楽を狙う。
傘を構え、神楽は溜息を洩らした。

「あいつに苦しめられた被害者同士仲良くしましょうなんて、通じそうにないネ」
「ご免!」

男の足が地面を蹴りつけ、刀を大ぶりで振りかざす。
それをひらりと交わし、神楽の傘が風を切った。
男の鳩尾に傘の先端がめり込む音がする。
その身体は汚いポリバケツに向かって放たれた。
がしゃんと荒々しい音が響いたのを聞きながら、神楽は後方から向かい来る殺気を、振りかざした傘でなぎ払った。
飛ばされた刃は、くるくると弧を描いて、地面に放り出される。
刀を無くした男の胴体を、右足で力強く蹴りつけてやった。
(絶対安静を言われてるのに)
そう溜息をついて、迫りくるもう一つの刃を受け流そうとした時。

「!」

頭上から、何かがきらりと光った気がした。
それに気を取られ、己を裁とうとした刃から身を翻すことが精一杯だったものの、避けたと思った刃の感触が今度は神楽の頬を掠めた。
(槍?)
焼けるような痛みを覚えた頬に気を使ってやれる暇もなく。
地面に突き刺さった槍の使い手は、今まで身を潜めていた屋根から地べたに舞い降りた。
落ち着いた様子でゆっくりと、二本目の槍を構えた。
間違いなく、神楽を狙う切っ先。
先程交わした刀も、今度は確実に仕留めるような構えで神楽に向けられた。
絶対絶命とは、まさに今であろう。
(さて、ガチでやばそう)
お腹に荷物を抱えて等いなければ、恐らくこんな状況右手だけでも突破できるのに。
一歩一歩後ろへ、足が地面を踏みつける。
背中を汗が伝うのを神楽は感じていた。

「何の騒ぎと思ってみれば、婦女暴行罪の例のようなシチュエーションだな」

鼻を掠める嫌な煙たさ。

「トッシー」

目の前の二人の男が思わずそう呼ばれた視線の先に意識を移した瞬間を神楽は逃さなかった。
地面を蹴り高いところまでジャンプしたかと思うと、回し蹴りで見事に二人の後頭部をなぎ倒した。

「おい、こら。検診前の準備運動にしちゃやりすぎだクソガキ。大体てめぇ一人で外出んなっつったろが。局中法度違反で切腹させるぞ」

言いながら土方は今自分の眼の前で伸びたばかりの男の頭を掴んでその顔を見た。
咥えた煙草を奥歯で噛みしめた。

「仇討ちと言ったところだな」
「仇…」

土方の呟いた台詞を神楽は反芻した。
仇なんて物騒すぎる。
けれど、誰かに仇として、殺したいほど憎まれている総悟の身の上はなんとも皮肉だ。
彼の身体はきっと、いろんな人の恨みで侵されている。
徐々に朽ち行く身体。
そんな身体になってしまった今でさえ、静かに死なせてくれることを許されはしない。
常に誰かに命を狙われ、憎まれながら殺される総悟の運命を無意識にも想像してしまい、神楽は少し身を震わせた。

「それよりお前、急がねぇと間に合わねぇぞ」
「あ!」

土方にそう促されて、神楽が今自分の置かれている状況を再確認する。
もうすでに検診時間が迫っていた。
身籠っているとは思えない軽快さで、駆けだした少女の背中は路地に消えゆく。
土方が慌てて呼びかけた。

「おい!迎えのやつ寄越すから、終わっても一人で帰るんじゃねぇぞ!」

彼女の手に握られた傘が、高く掲げられ、了解の合図と受け取った。

「さてと」

土方は一つ溜息をつき、煙草を口から離す。
相変わらず消えない気配。

「…いい加減出てこいって」

白い煙を吐き出して、土方は苦笑した。

「総悟」

呼ばれた名は、久しい人物。
名前だけはまだ真選組の隊長である。
やがて、観念したようにじゃりっと砂を踏む音がして、総悟が姿を現した。

「ったく、余計なところだけ察しが良くてますますアンタのこと嫌いになりそうでィ」

冗談めかしたような口調は相変らずであったが、その声は酷く掠れていた。
辛気臭いこんなところで見るからか、もともと白い彼の肌は更に白みを帯びている。
弱弱しく笑みを作る口元とは対称に殺気の収まらない瞳孔は開きっぱなしだった。

「ちょうどよかった。こいつら屯所まで連行すんの手伝え」

土方が首だけで足元に倒れている男を示すと、総悟は驚いたように首を竦めた。

「おいおい、冗談止めてくだせぇよ。俺に運ばしたら屯所つくまでに息絶えますぜ、こいつら」

男を見下ろす目だけが、冗談ではないことを告げる。
刀を支える彼の左手が今にも引き抜かんとばかりに震えているのを土方は見逃さなかった。

「ここで殺しちまったら残党処理ができねぇじゃねぇか。こいつらに拠点を割らせて残りの輩を全員まとめて大掃除だ」
「その必要はありませんぜィ」

総悟は土方に背を向けた。
逆光でその表情が伺えない。

「アジトは俺がぶっ潰します。あんたらの出番じゃねェ」

やけに冷静な総悟の物言いに、土方はこの上ない不安を覚えた。
なんだってそんな確信があるというのだ。

「てめぇ何処でその情報、」

土方が眉を寄せると、総悟は振り返った。
冷徹で残忍な笑顔は、土方に戦慄さえも与えた。

「裏には裏の生き方があるんでィ」

今まで自分が生きてきた人生が間違っていたとは思わない。
血に塗れ剣を握ったことも、中途半端な気持ちをぶら下げたまま神楽を抱いたことも。
けれど今まで自分が犯してきた所業で、他でもない彼女を危険にさらしているのだとしたら、それを護るためにまた剣を振うことはむしろ本望であると。
朽ちかけたこのちっぽけな命しか懸けるものなどないけれど、神楽を神楽のまま返してやる覚悟なら、もう決めた。
神楽だけは壊れてほしくないと、生きていてほしいと、そう思うことさえ勝手なのだろう。
けれど、今まで散々してきた勝手ついでに最後の勝手を許してほしい。
何があっても、未来を護るから。

――人生最初で最後、最大の大芝居。


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