もうニ度と着ることのないだろう煌びやかなドレスを丁寧に紙袋に仕舞いこんで、サクラは制服に腕を通した。 冬の温度に馴染んでしまったシャツはいやに冷たい。 戸外の寒さを想像して、マフラーをぐるぐる巻きにすると店を後にする。 しんと静まり返った夜の街を歩くことも、恐らくもうない。 夜中の空気感がサクラは少しだけ好きだった。 どんな小さな音でも宇宙にまで届いてしまいそうな透き通った空気が、サクラをどこか遠くへ連れて行ってくれるようで。 音と共に私も宇宙まで運んでくれたらと何度祈ったことだろう。 夜空を見上げながら吐く息の白さに見惚れていると、ある異変に気付いた。 まるで自分の足音と木霊するかのようにどこか別の場所から足音が聞こえるのだ。 (まさか) 半信半疑でサクラは少し早歩きをしてみた。 変わらず足音は付いてくる。 今度は制服のブレザーに詰め込んだハンカチをわざと落として、それを拾うふりをして立ち止まってみせた。 これがまずかった。 足音はチャンスだと言わんばかりに徐々に近づいてくる。 「!」 咄嗟にサクラは駆け出した。 落ちたハンカチなど気にもせず、一目散に駆け出した。 こういうときどうすればいいのか、パニックに陥った思考を巡らせた。 ひたすら逃げる。 ただ恐怖がサクラの背中から襲ってきそうで、怖かった。 この感覚を私は知っている。 人が生み出す、殺意にも似た恐怖。 息が上がる。 何処まで逃げればいいのかさえ分からず、走った。 その時。 通り過ぎようとした自販機の影から腕がまっすぐに伸びたのをサクラは見た。 その腕はサクラの手を容赦なく掴み、自販機の影に引っ張り込む。 「口塞いでろ。出てくんなよ」 聞き覚えのある低い声が、サクラの耳元で囁かれた。 間違いない、うちはサスケのものだ。 何が起こったのか全く理解できないまま、彼に言われた通りサクラは震える手で己の口をぎゅっと抑え、ひんやりとした自販機を背中に押し当てた。 必死に肩で息をする。 サクラを此処へ押しやった人物は、サクラが逃げてきた道へ戻って行った。 そっちは怖い人がいると、叫びたかった。 けれど声にならずサクラは身を顰めているほかなかった。 「よォ」 やがてサスケの声がした。 それにより、ひとつの足音がとまった気がした。 「お前、昨日…!」 サスケの姿を見てか、聞き馴染みのない男が焦っているのがわかった。 「何持ってる」 鋭いサスケの視線が、男の手元を指摘した。 男の手には不釣り合いの女物のハンカチ。 「どうしたんだ、そのハンカチ」 サクラははっと息をのんだ。 「彼女が落としていった、俺のコレクションだ」 淡々の気味悪い事を語る男の声を、どこかで聞いたことがあると認識し始めたのは息がだいぶ落ち着いてからだった。 「彼女を何処に隠した」 「何の話だ、わかんねぇよ」 「調子に乗るなよ、がきが」 言いながら男は徐にポケットへ手を突っ込んだ。 出てきたものは、昨日サスケも目にしたものだった。 ばちばちと電気音を響かせて、男は得意げに笑った。 「まだ持ってんのか、そんなおもちゃ」 「おもちゃだと。これは昨日お前が食らった倍の威力だぞ」 「それをどうするつもりだよ」 「彼女を持って帰るんだよ」 サクラの心臓が跳ね上がった。 あいつだ。 よく店に来ていたあのリストラサラリーマン。 マネージャーが言っていたっけ、最近うろうろしているから気をつけろと。 頭の奥にまで鼓動が響いてくるようで、怖かった。 必死に口を塞ぐことで浅くなる息が外に漏れないように努めた。 「彼女って」 「春野サクラだよ。あれはもともと俺のものだったんだ。それをお前は横取りしやがって、」 「御苦労。もういいぞ」 興奮してまくしたてる男の台詞をサスケは淡々と遮った。 「は」 眉間に皺を寄せてサスケを睨んだ男の顔が、サスケの手に握られていたものを認識するとみるみるうちに青ざめていった。 サスケはペン型をした銀色の物体を男の前でちらつかせた。 男はそれを見たことがあった。 なんせ自身もサクラの声を録音するために使用したボイスレコーダーだったからだ。 「さっきの話ばっちり撮らせてもらったぜ。誘拐未遂って懲役何年なのか今度教えろよ」 「貴様!」 激昂した男が、スタンガンを唸らせながら飛び込んできた。 が、 「動くな」 いつもよりも鋭い彼の声は、サクラまで震わせる。 コートを翻して彼が取り出したもの。 「!」 男の、息をのむ声が聞こえた。 「ここからは俺のお返しだ」 黒く煌びやかな武器は、テレビの中で見たことがある。 日本じゃ所持を禁止されているはずのそれは、ぶれることなく男の額に向けられているのがわかった。 「そんな、嘘だろう」 男のさっきまでの威勢が消え失せていた。 サスケの持つ空気に取り込まれたことがあるからこそわかる。 彼は誰でも服従しうる雰囲気を持っていた。 洗脳の一種とも呼べるだろう。 彼が右と言えば右、左と言えば左。 死ねと言われれば死んでしまえるほど、サスケの持つ空気は全てを狂わしていく。 「嘘かどうかはお前の身体で試したらいい」 「ガキが。どうやって銃を手に入れることができるってんだ。日本は法律で禁じられてるんだぞ!」 銃? サクラが思わず自販機から様子を伺った。 闇に埋もれて見えにくい。 が、サスケの腕が平行に伸びているのがわかった。 その手に握られているものが時折嫌な光沢を放つ。 ああ、駄目だ。 あの光は人の命を奪うもの。 「最近の不良を見縊らないほうがいいぜ、おっさん」 「おい、やめろ!」 「正当防衛だろ。スタンガンでも死ぬやつはいる。昨日俺はお前に殺されかけた」 「俺が悪かった。頼む、殺さないでくれ!」 無様に命乞いをする男の姿と、無表情のまま引き金に指を掛けるサスケの顔はいとも簡単の想像できた。 初めて見る光景じゃないような気がした。 それはもっと残酷で、惨たらしい情景で。 サクラの足元にも真っ赤な血が流れ込んでくるような、そんな記憶。 もうこれ以上、サスケに命を奪わせてはいけない。 自覚するよりも早く足が動いた。 「サスケくん、やめて!」 咄嗟に、サクラはサスケの背中を犇めいた。 きつくきつく力を込めて願う。 貴方は手を汚さないでと。 当然驚いたのはサスケだった。 銃を持つ手が緩んだのを男は見逃さなかった。 サスケに背を向けて、一目散に走って逃げた。 よほど怖かったのだろう。 手にしていたスタンガンもコレクションだと言って拾ったサクラのハンカチもその場に置き忘れたまま男の背中は小さくなっていく。 肩を竦めてサスケは携帯を取り出すと、電話をかけ始めた。 「兄貴か。そっちに逃げたみたいだ。あとは宜しく」 それだけを告げて通話を終了させたサスケは、まだ頑なに後ろからしがみ付くサクラの手をゆっくりと解いた。 微かに震えている細い腕は、ようやく弛緩する。 「おい、出てくんなって言っただろう」 「ごめんなさい」 震える声で謝ったサクラはこちらを見上げた。 いつもの凛とした表情は消え去って、この泣き出しそうな不安げな顔はサスケの良く知っている人のもの。 思わずサスケは目を逸らした。 そして、男の落としていったものを拾おうとしゃがみ込んだ時。 「っ!」 不意打ちに昨日のやけどが疼いた。 体勢を崩して地面に膝が崩れ落ちる。 「サスケくん!」 まただ。 その名を呼んで心配そうにサクラが駆け寄った。 彼が抑えていた箇所の服を躊躇なくめくって確認するその仕草は手なれたもので。 サスケのわき腹に現れた赤く膿んだような傷跡にサクラは眉を寄せた。 「酷い火傷…治療は何もしてないの」 「放っときゃ治る」 「化膿したら大変よ」 まるで駄々をこねる子供をあやす様に優しくサクラは言った。 「うちは君の家はここから近いの」 「…歩いて5分」 「上等よ。ほら」 言ってサクラはしゃがみ込んで、背中をサスケに向けた。 その格好はよく母親が子供にして見せるのと同じ。 まさか、女子高生が男子高校生に向けるポーズじゃない。 そうは思うものの、否でもあの力自慢のサクラだ。 おんぶだとかでも言いだしそうで、怖い。 その背中を眺めながらサスケが躊躇っていると、痺れを切らしたサクラが当然かのように促してきた。 それはもう、まるでこっちが間違っているのかと思ってしまうほど清々しく。 「何してるの。早く負ぶさって」 |