200人うぇい企画 | ナノ
BAR


ちょっと飲みに行こうぜ、なんて言うから、てっきり安い居酒屋だと思ったのに。仄暗い中、温かみのあるランプが、木目の浮かび上がったシックなカウンターテーブルと、それに囲まれた中年のバーテンダーを照らす。スーツとまではいかないけれど、決してラフとは言えない服装を身に纏ったそのバーテンダーは「本日は何になさいますか?」と穏やかな口調で私たちに問うた。この店には相応しくないであろうラフな格好のあたしは、ただ俯くことしか出来ず、その横で鉄朗が「二人ともお任せで」と。そういうカッコ良いことは、一体どこで覚えてくるのだろう。いつの間に、安い居酒屋から少しお洒落なバーに心変わりしてしまったのだろう。そんな鉄朗が嫌いになったという訳ではなく、寧ろ、好きだからこそ知らぬ間に変わっていくことに不安が募ってしまうのだ。

「はい、どうぞ」

暫く、何を話すでもなく、店内に流れる静かなアコギのBGMに耳を澄ましていれば、目の前に差し出されたのは紫色のカクテルで。綺麗な色ですね、とか、何の味なんですか、とか、言いたいことは色々あったはずなのに、それらが音になるよりも早く「何かあったんですか?」なんて優しい声が降りかかる。はて、どうしてそんなことを聞くのだろうか。それほどまでに何かあったように見えるのだろうか。疑問符を浮かべつつ、隣に座る鉄朗を見れば、はっきりとした表情は分からなかったものの、ほんの少しだけ笑ったように見えた。

「表情から不安の色が窺えたので。私でよければ話を聞きますが?」
「話したいとこなんですけど、今はまだ、」
「そうですか、ではまた後程」

鉄朗とバーテンダーの間でのみ交わされたその言葉の意味を理解できず、まるであたしだけが除け者にされているみたいで口を尖らせる。そんなあたしの気持ちを知ってか知らずか、不意に鉄朗はポンポンと頭を優しく撫でてきて。鉄朗のことだから、てっきりいつものように「今度気が向いたら教えてやっても良いけど?」なんて意地悪い笑みを浮かべているのだと思ったのだけれど、どうやらそれは予想違いだったらしい。顔を上げても、彼の泳いだ瞳はあたしの瞳と向き合うことは無く、期待した言葉の代わりに告げられたのは「ちょっとトイレ」の一言。まるで肩透かしを食らった気分だ。いってらっしゃい、と鉄朗を見送って、それから誰にもバレないように溜息を一つ零した。

今日の鉄朗は、あたしの知ってる鉄朗じゃない。理由は分からないけれど、あたしが何か怒らせるようなことをしてしまったのかもしれないし、何か心配事があって気になっているのかもしれないし、わからないけれど、兎に角いつもの鉄朗じゃないのだ。バー独特のグラスに入った飲み物が一向に減っていないことも、いつもはベラベラとうるさいくせに口数が少ないことも、トイレから戻って来るなり零れた溜息も、すべて。

「鉄郎、」
「ん?」
「あたし、何か気に障るようなことしちゃった?」

もしそうだとしたら、謝りたいからちゃんと話して。
何もないのならそれでいいけれど、あたしだってこんなに重たい空気の中で過ごしたくないのだ。真剣に鉄朗を見て話せば、少し硬直した後に「あ、いや、えっと」とわざとらしく聞こえてしまう程に口籠った鉄郎は「違うけど、」と消え入りそうな声で呟いた。再び逸らされた視線からは、鉄朗の真意など全く読めない。じゃあ悩みでもあるの?と質問を重ねてみても「悩みっつーか、」とまたしても情けない声を零すのみで。お洒落で優雅なバーのイメージとは正反対に、あたしの心の中は醜くどす黒い感情が疼く。鉄朗が何かを隠していることに気付かない程、あたしはバカじゃないんだから。

「もう帰ろっか」

思った以上に、低く冷たい声が出てしまった気がした。先程まで合うことのなかった鉄朗の目は大きく見開かれ、今はバッチリあたしの視線とぶつかっている。「待てって、」そう零してあたしの腕を掴んだ鉄朗に、今度はあたしが、わざとに、溜息を零して見せた。困ったように下がった眉も、あたしを掴む手が震えていることも、か細い「ごめん」の声も、ほら、やっぱり鉄朗らしくない。

「でも、今日の鉄朗、なんか変だよ?」
「……それは、その、」
「うん?」
「緊張、みたいな?」

はは、と鉄朗の乾いた笑い声に、あたしの「は?」という一言が終止符を打つ。そうすれば誤魔化す手段のなくなってしまった鉄朗は、引きつった笑顔を浮かべて、間もなく「はぁ」と深い溜息を零した。あたしを掴んでいた手は持ち場を離れ、するりと鉄朗自身のズボンのポケットへと入っていき、それからすぐに姿を現したかと思えば、小箱を大事そうに抱えているもんだからドキリと心臓が跳ねる。あのサイズの箱に入るものなんて限られてるし、しかもあんなに変な鉄朗の様子を考えたら、その箱に入っているのは、つまり。

「結婚してください」

目の前で開かれたその箱と彼の言葉に、あたしの思考回路が鈍っていく。向けられた真っ直ぐな視線から逃れることは叶わず、頷くことだけで意思表示をするあたしに、鉄朗は手を震わせながらも指輪を差し出した。
「手、貸して」言われるがままに手を差し出せば、どこでサイズを知ったのかは知らないけれど、するりと指を通り抜けていったそれに、思わず笑みが零れる。嬉しい、口に出すつもりはなかったのだけれど、気付けば零れていた言葉に、鉄朗もあたしと同じように笑みを浮かべた。

「なんか、誤解しててごめんね」
「いや、俺もカッコ良いプロポーズにしようと思ったんだけど、こんなんでゴメン」
「ふはっ、あたしは普段通りの鉄朗が好きだから良いの!これからもよろしくね」
「ん、よろしくな」

こと、と小さな音がして、そう言えば家じゃないんだった、なんて今更なことを思い出して赤面すれば、そんなことは一切気にしていない素振りでバーテンダーがにこりと微笑んだ。「これは私からの祝福です、お代は要りませんので」そう言って差し出されたのは、さっきのとは違う、濃いピンク色のカクテルで。驚いて鉄朗を見て、それからふとカクテルに視線を戻して、妙に類似した色合いに、今度はバーテンダーまで視線を戻す。どうぞごゆっくり、そう言って小さくウインクをしたバーテンダーはもしかしたら何もかもお見通しだったのかもしれない。



(170815)リク…綾瀬ちゃん「BAR」/200人うぇい企画







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