梟谷 | ナノ


▽ おこちゃま猛禽類


 お酒の力を借りて繋がるなんて、そんなことしたくなかったのに、何故か天井とあたしの間には彼が居た。どうしてこんなことになったのか、自分でもイマイチよく分かっていない。簡単に言えば、会社の飲み会に参加したら、告白されて、こうなった。――――――んんん、違う、そうじゃない。こんなにストレートな流れなら、あたしは彼とこうしていることに、何の疑問も抱かないはずなのだ。

 バックレられるものなら、バックレてしまいたかった。会社での飲み会ほど、つまらないものはない。何故ならこの人達は仕事上でお付き合いがあるだけで、あたしのプライベートに何ら関係ないからである。仲が悪いわけではないけれど、遊びに行くほど仲の良いわけではない社員たちと、二時間近く何を話せばいいのだ。なんていう黒い気持ちを抑え込み、にっこりと笑って話の輪に参加する。ここまでの行動に間違いなど無かったはず。ごく普通に飲み会に出席し、ごく普通に家に帰る。たったそれだけの淡々な任務。だったはずなのに。
 トイレから戻ろうとしたところで、順調に歩みを進めていた運命の歯車は、突然現れたその男によって狂わされてしまった。
「ちょっと、いいですか」
「……何ですか?」
 突然現れた男、というのは、他の部署に在籍しているらしい同じ会社の人間である。数度、社内のエレベーター前で会って挨拶を交わしたことがあるが、それ以上のことは何もない。そんな男が、どうしてあたしのことを引き留めるのだろうか。少し話があるんだけど、と真剣な顔をして付け足されても、あたしは彼と話すことなど何もない。「はぁ、」と承諾したのかどうか、自分でもよくわからない返事をすれば、それを彼は承諾と受け取ったらしく「その、」と話し始めた。どうせ他の部署ならきっぱりと断ってしまえばよかった、と後悔してももう遅い。
「俺、前々からあなたのことが気になってて」
「……あたし?」
「そうです」
「……そうですか」
 同じ言葉を繰り返してしまうのは、何も、お酒のせいで頭の回転が鈍っているからではない。きっと、どんなタイミングであろうと、あたしは同じように返していたと思う。何故なら、どんなタイミングで伝えられたところで、あたしはその台詞の意味を全く読み取れなかった自信があるからだ。気になっている、というのはつまり、恋愛感情の話だろう。でも、いつ、どこで、どうして。繰り返すが、あたしはこの男とエレベーター前でしか会ったことが無いのだ。本当にあたしの事ですか、と言うのは流石に愚問のような気がして喉の辺りで留める。
 言葉が詰まり、息も詰まった。こんなことなら、上司のおじいちゃん達と意味のない会話をしている方がよっぽどマシである。どうにかしてこの状況から脱出できないものか、と必死に頭を回転させるが、飲み会の席に逃げ戻ったところで、帰り道に再び捕まってしまうのは目に見えているし、下手したら社員の目の前でも同じことを繰り返すだろう。あたしの沽券に関わってくるので、特にそれだけは避けたい。
そうしてまとまりそうもない考えをぐるぐると脳内で掻き回すだけの作業をすること数秒。不意に、その沈黙は破られた。
「何してんの?」
 聞き覚えのあるその声が同期の男性のものだということに気付くまで、そんなに時間は必要なかった。その男、木葉くんは、自然とあたしと例の男の間に立つようにして、それからもう一度「何してんの?」と繰り返す。先程より声色を黒く染め上げた彼は、同期か先輩か後輩かもわからないその男を威嚇しているように見えた。
「そちらこそ、何の用ですか?」
「は?見てわかんねぇの?コイツ返してもらいに来たんだけど」
 威嚇しているように見えているのはあたしだけではないらしい。背の高い木葉くんに遮られてよく見えないけれど、不穏な空気が漂っていることだけは分かる。あたしを喧嘩ごとに巻き込むのは止めてほしい、と言いたいところだが、その中心人物があたしなのだから逃げることも許されない。
「その子、君のなんですか?」
「そうですけど、何か?」
 愈々、話がおかしな方向に転がってきた。木葉くんのものになった覚えなど全くもってないのだけれど、この場を切り抜ける手段としては随分と賢い選択に思えて。「そうなんですか?」とあたしに確認をしようとするその男に、あたしは思わずこくりと頷いてしまったのだ。
 そうすれば「知りませんでした、すいません」と素直に謝罪をしてきたその男は悲しそうな表情でその場に立ち竦み、あたしは「おら、行くぞ」と木葉くんに腕を引かれて飲みの席に戻ったのだった。純粋な好意に嘘で逃げ出すなんて可哀想な気もしたけれど、そうでもしなければあの場から抜け出せなかったのだから仕方ない。
 席に戻るなり、一気に酒を煽るあたしに「悪かったな、」と木葉くんは眉を下げた。一瞬、助けてくれたのにどうして謝るのか分からなかったけれど、それが勝手に恋人だと嘘を吐いたことについて言っているのだと分かり、あたしは首を横に振って見せる。
「ありがとう、助かった」
「よかった。帰りも一緒に帰ろうぜ、まだ見てるかもしれねぇし」
「うん、お願いしてもいいかな」
「任せとけ」
 そう言って笑った彼の顔をあたしは信じて疑わなかったし、純粋に彼とだったら一緒に帰っても構わないと思った。好き、という言葉で括ってしまうのは少し違う気もしたが、プライベートを遮断している社員達の中で、彼だけはプライベート上の付き合いがあっても構わないと思うくらいには好意を持っているのもまた事実。その甘い考えがこの結果を招いたのだと言われてしまえば、言い訳は出来ない。

 冒頭で、ホテルに居る経緯はこうである。終電が無くて、タクシーも通らなくて、困っていたところで雨が降り出した。とりあえずホテルに入って、お風呂で体を温めてからタクシーに乗ろう、と提案したのは彼。どうせならホテルに泊まって、明日の朝、電車で帰るのもアリかと思ったが、一室しか空いてないとのことだったので即座にその思考を打ち消した。
 同期ということもあり、それなりに仲が良いとはいえ、彼だって男だ。ホテルで一晩を明かすというのは流石に問題がある。シャワーを浴びたらタクシーを呼んですぐに帰ろう、そう思っていたのに。
「ちょっと眠ぃから寝かして、」
 ホテルに到着するなり、彼はそう言ってベッドに沈んだ。仕事の後に飲み会に参加しているのだから、疲れているのも無理はない。先に帰っていいから、と一言残し、彼はすぐに夢の世界へと旅立ってしまった。そんな彼に、聞こえているのかいないのか分からないが「ありがとう」と返し、一先ずシャワーを浴びる。もしかしたら、仮眠しているだけで、あたしがシャワーから出た頃には目を覚ましているかもしれない、と思ったのだけれど。
 その睡眠が仮眠と呼べるレベルじゃないことは、お風呂場から出てきてすぐに気が付いた。いつの間に脱いだのか、スーツのジャケットはその辺に放り投げられ、枕を抱きしめて寝ている彼。子どもの様な寝顔にくすくすと笑みを零しながら、投げられたスーツをハンガーにかけた。起こすのは可哀想だけれど、このまま寝ていて風邪をひいてしまうのはもっと可哀想なので、どうせ寝るなら布団に入ってもらうべく、トントンと彼の肩を数度叩く。
「んあ?」
「木葉くん、寝るなら布団かけないと風邪ひくよ?」
「んんん、すぐかえる、から」
 本当に、子どもみたいだ。指をトントンと動かして、ちゃんと起きてるよ、という無駄なアピールをしながら目を瞑った彼は、次第にその指の動きが遅くなっていることに気付いていないのだろう。前髪をわしゃわしゃと触り「髪も濡れてるし」と零したあたしの声など、きっと聞こえていない。こうなれば。
「木葉くん、起きないとキスしちゃうよ?」
「ん……きす?」
「うん」
「…………、」
 寝ぼけた頭に、この冗談は通じなかっただろうか、と思った矢先。ガバリと飛び起きた木葉くんは、周りの部屋に迷惑なくらい大きな声で「き、キス!??」と叫んだのだった。
真っ赤に頬を染めた彼に、あたしはゲラゲラと失礼なほど笑ってみせ、それから「冗談だよ」と返す。そんなに驚いてくれるなんて思いもしなくて、悪戯心があたしの笑いを助長させるが、やられた方はたまったもんじゃない。あたしの軽い冗談は、心優しい木葉くんの琴線に触れてしまったみたいだ。

 ここで漸く、冒頭の状況が完成された。あたしはベッドに寝かされ、木葉くんがあたしに覆い被さっている。一瞬の出来事過ぎて、何がどうなってこの体勢になったのかは分からないけれど。
「あのなぁ、好きでもねぇ女を助けるほど、お人好しじゃねぇの、俺」
「は、はい?」
「あと、適当な奴とホテルに来るほど不健全じゃねぇ」
「はぁ、」
「つまり、好きな女を落とすために少しずつ積み立ててるのに、その好きな女が突拍子もねぇこと言い出したら、いくら何でも俺の理性が保ってられねぇっつーこと」
 わかったか、と怒りを含めた表情でそう言われれば、首を左右に振ることなんて出来ないじゃないか。噛みつくようにキスを落とした彼は、いつもの優しい彼ではなく、まるで獲物を見つけた猛禽類。このまま取って食われてしまいそうで、押し返そうと彼の胸板に当てた手が震えた。
「お前の嫌なことするつもりは無いから、嫌ならちゃんと抵抗してくれ」
 そう言って眉を下げるのはズルい。彼の胸板を触るあたしの右手からは、決して落ち着いているとは言えない速度で彼の心臓が動いていることが伝わってきて。それと同時に、彼の真剣さも伝わってしまうのだ。「俺、お前のこと、本気だから」と付け足されてしまえば、思わず「そういうの、ずるい」と素直な気持ちがあたしの口から零れた。
 気まずい場面で助けてくれたし、ホテルに来ても(あたしの一言が無ければ)いつもと変わらず接してくれたし、そもそも木葉くんのこと、嫌いじゃないし。そんなの、惚れるに決まってる。
「……あたし、本当にキスしちゃうからね」
 さっきの冗談の続き。冗談で終わらないようにそう言えば、彼は「ん、喜んで」と小さく笑ってキスを落とした。

 数日後、エレベーター前で「この間はすいません、今度お詫びさせてください」と言ってきた例の男に、またしても敵対心を露わにする彼を見て、思い返してみれば最初から子どもだったかも、と思ったのはあたしだけの秘密である。



しさちゃんより(171210)



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