青葉城西 | ナノ


▽ 耳元で囁いて




 見て、先生のチャック開いてる。

 隣の席の花巻くんは、少し変わっている。いや、変わっているというのは失礼な言い方だったかもしれない。これはあくまでもいい意味だ。バレー部で活躍していて、成績だってさほど悪くはない。けれども花巻くんは、いつだって不真面目である。
 今がいい例だ。教壇に立つ教師のズボンは、確かにファスナーが下がっていて、見たくもないトランクスが顔を覗かせている。肩を震わす花巻くんにつられ、あたしも同様に肩震わせて笑いを堪えた。
 授業なんて、殆ど耳に入っていない。あたしは花巻くんと違って、ちゃんと授業を聞いていないと分からないのに、いつもこうして彼のペースに飲み込まれてしまうのだ。これは多分、花巻くんと隣の席になった人の宿命なんだと思う。
「あー、腹減った」
 小声で、けれども堂々と伸びをする花巻くん。自分のサイズ感や派手な頭のことを忘れているのだろうか。否、彼の体格が小柄だろうと、髪が真っ黒だろうと、彼が彼である限り、この性格は変わらないような気がする。自由奔放。彼にぴったりの言葉である。
 しかしそのくせ、彼は周りのことをよく見ているのだ。チャックの件もそうだが、普段から誰かのミスや悩みにはいち早く気付き、そっと手を差し伸べていることをあたしは知っている。
「これ、誰か解いてくれ」
 先生が問いかけたのに対し、花巻くんはただ一人「はーい」と手を挙げた。そしてつかつかと教壇まで向かったかと思えば、先生に何かを耳打ち。それからスラスラと問題を解くと、再びつかつかとこちらへ戻ってくる。
 ほら、やっぱり。
 先生のチャックがいつの間にかしまっていた。花巻くんが教えたのだということは、本人に聞かずとも分かる。変わっているのは、そういう所なのだ。他の生徒が気付けば、大声で「チャック開いてんぞ!」なんて言って、先生を笑い者にするのに、花巻くんは決してそういうことをしない。勿論、冗談やおふざけをすることだってあるが、人の嫌なことは絶対にしないのだ。
 友達の多さも、先生や後輩に好かれる理由も、きっとそういうところにあるのだろう。あたしが知ってるのは「同じクラスの花巻貴大」だけだが、きっと「バレー部の花巻貴大」も「花巻家の貴大くん」も、全て相違ないのだ。それこそが花巻くんのいい所であり、他の人とは違う、少し変わった所である。
「花巻くんって、ちょっと変だよね」
「え、ど、どこが、」
「あ、ごめん、そうじゃなくて。なんか優しすぎるっていうか。今時、花巻くんほど優しい人、あんまり居ないよ。」
 言いたかった言葉ではないものが溢れてしまった。焦った表情をする花巻くんに、なんとか言葉を取り繕う。貶したかったわけではない。褒めたかったのだ。その意図はどうにか伝わってくれたらしく、今度は花巻くんの顔が赤く染まった。暑いの?なんて揶揄うようなことはしない。だって、花巻くんはきっとしないから。
 黙ってその表情を見つめるあたしに、花巻くんは手の甲で顔を隠して「見ないで」と呟いた。か細くて小さなその声は、今が授業中だということに何一つ関係していないだろう。今の彼の精一杯が「見ないで」なのだ。
 彼の言葉の通り、あたしは黒板の方へとしっかり向き直り、板書をノートに写していく。一方の彼は、机に伏せてしまって、表情が見えない。見えるのは、真っ赤な耳だけ。どうしたものか、とちらり視線を投げれば、同じくこちらへ視線を投げかけていた花巻くんのそれと、ばっちりぶつかり合った。
 お互いにかける言葉を見つけられないまま、そうして見つめ合うこと数秒。その緊張を解き放つかのように、チャイムの音が鳴り響き、誰かが放った号令によって、視線は別々の方向へ。
 号令を終え、みんなはお弁当を出したり、買い出しへと向かったりしている。そんな中、この席を使って友達と昼食をとっているあたしが取るべき行動は、机の上を片付けることなのだが。
「……ノート、貸して、」
「え、あ、うん、いいよ」
 唐突に花巻くんから投げかけられた言葉によって、机にしまいかけていたノートを再び取り出す。昼休み後も同じ授業だけれど、花巻くんに限ってノートが戻ってこないなんてことはないだろう。それに、隣の席だから、書く時までに返してもらえれば問題ない。
 ノートを手渡すと、さんきゅ、とどこかに向かった花巻くん。その手にあるのはお弁当箱と、筆記用具と、あたしのノートだけ。自分のノートを持っていかないのなら、何に移すというのだろう。教えようと思ったところで、花巻くんはバレー部の面々に話かけられてしまって、あたしの言葉は喉元で止まってしまった。
 まぁ、どうせ後で気付くだろうと踏んで、あたしは友達と昼食を済ませ、別の友達ともお喋りするために他のクラスへ。そして昼休みいっぱい喋り倒し、また放課後、と言葉を交わして、教室へと戻ってきた。
 流石、花巻くん、とも言うべきか。既にノートが戻ってきていて、机のど真ん中に置かれている。するとタイミングよく花巻くんも教室に戻ってきて「ノート、さんきゅ」と。そして、それに続くように「次の授業、なんだっけ」とも。
「次も数学だよ」
「……え、」
「え、なに?どうしたの?」
「あ、いや、その……、」
 なんでもない、と紡いだ花巻くんは、けれども分かりやすく机に伏せてしまった。何か気に触るようなことでも言ってしまったのか、伏せるほど数学が嫌いなのか。考えたところで答えには辿り着けないまま、数学の先生が教室へと入ってくる。
 先程と同じ声が号令を唱えた。さっきやったばかりだから、前回の復讐なんてものはない。まるで休憩なんてものが存在しなかったかのように、問題文を黒板に書いていく先生。
 慌ててノートを開き、黒板の文字を写―――そうと思ったその手は、宙で止まったまま動かなくなってしまった。隣の机を見るが、やはり花巻くんの顔は見えない。けれども、やはり耳が赤い。ノートに書かれた「ラクガキ」は、きっと花巻くんの精一杯だ
「……本気、だから、」
 こちらを見ないままに囁かれたその言葉は、あたしに向けられているに違いない。それに対するあたしの答えはただ一つ。花巻くんの耳元で、そっと囁くのだ。

 ―――好きです。




花巻の日2018(180807)

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