赤が嫌いになった理由 | ナノ


優しさごっこをしようか
 
 通いなれた住宅街の一角にたたずむアパートに足を踏み入れ始めたのはいつからだろう。
 白い扉の向こうで、普段通りに生活をする彼女の一角に住まうようになった自分はいつからこの感情を弄ぶようになったのだろう。
 白いシーツに包まって、二人で眠る夜。
 約束された朝があるからこそ、俺は彼女を抱き締めたまま目を瞑る。
 
赤がきらいになった理由
 
 寝返りを打ち、隣が空いていることに気付いた。
 温かいシーツに包まったまま、隣を探すように動いた俺に気付いたのだろう。頭上から柔らかい声が降り注ぐ。
 
「おはよう」
 
 ぼんやりと、けれど少しずつ覚醒していく頭を擡げて声を確認すれば、伸ばされた掌が俺の髪を優しく梳いた。
 
「おはよう。もう朝?」
「うん。起きる? それとも、もう少し眠る?」
「……起きる」
 
 身体を起こせば、香しいにおいが鼻孔を刺激する。
 彼女――和音さんは俺の髪を弄る手を休めない。
 
「今日はトーストなんだ」
「そう。トーストにハムとスクランブルエッグかな。気に入らなかった?」
「ううん。むしろ逆」
 
 髪を梳くように動く指先を自分の手で覆い、小首を傾げてみせた彼女の唇にキスを一つ落とす。軽いリップ音がコーヒーメーカーや湯沸かし器の生活雑音に紛れこむ。
 いつもの俺らの朝であった。
 大きく伸びをしてからベッドを降りて、落ちているズボンを履きながら用意された食事の前に足を運ぶ。既に身支度を終えている和音さんはテレビをつけてニュースへとチャンネルを切り替えていた。
 
「迅くん。今日の予定は?」
「ボーダーに行くけど、夕方には帰れるかも。和音さんは?」
「いつも通り! なら晩御飯は迅くん担当でいい?」
「おーけー」
 
 席に着席してからトーストへと手を伸ばす。
 朝食を口へ運びながら今日の予定を擦り合わせていれば、俺の晩御飯担当が決まってしまった。昨日はハンバーグだったし、その前は筑前煮。順番でいくと和食かなと献立を頭の中で考えていれば、向かいに座ってコーヒーを啜っていた和音さんの口元に小さな笑みが浮かんでいることに気付く。
 
「いいことでもあった?」
 
 これから仕事へと赴くにしては上機嫌な彼女に俺は首を傾げることになる。
 たしか昨日の夜は明日が大変でと愚痴を零していたはずで、良い事を見つけることが出来なかった。
 そんな俺の問いかけに彼女は口元に小さな笑みを浮かべた。へらりと笑う軽いそれは次の発言を裏付けるものとなっていた。
 
「いんや。こんな朝がいいなーって」
 
 朝を一緒に迎えて、予定を合わせて、また夜の約束をする。
 一見、普通の恋人であれば当たり前の出来事を俺たちはうれしいと感じてしまう。
 不謹慎だろうか。それを喜びと取ってしまうことは。
 けれど、俺たちは、俺は、些細なヒトコマだったとしても喜びだと思ってしまうのだ。
 
「和音さんが嬉しいことを言ってくれるから、今日は和音さんの好きな大根料理ね」
「わーい。木崎さんだったっけ? また料理教えてもらってきてねー」
「任せて!」
 
 顔を見合わせて笑いあう。
 時計を見て慌ただしく朝食を掻き込む姿を見ながら俺は彼女を目に焼き付けるようにじっと見つめる。
 
「(良かった)」
 
 ――良かった。
 “今日の”彼女は俺のよく知る和音さんだ。
 よく食べて、よく笑って、よく怒る。かわいい和音さんのままだ。
 
「じゃあ、迅くん戸締りよろしく!」
「いってらっしゃい」
 
 そう言うのが早いか和音さんは車のキーを回しながら家を飛び出した。そんな後ろ姿を見送りながら今日という一日に安堵する俺が居る。
 
  
優しさごっこをしようか
(俺の望む)
(“今日”が始まる)
 
20170123