隣にいること「此処にはこの公式があてはまる。……すると、xを代入して」 「あ!」 「分かった?」 その言葉につられるように顔を上げれば、柔らかく微笑む叶の瞳とかち合う。驚きから一瞬だけ息をするのを忘れてしまった影山は慌ててノートに視線を逸らした。 事の発端は昼休みの職員室であった。 抜き打ちテストの結果が悲惨で担当教師に呼び出されていた所、偶然にも叶と出くわしたのだ。 「おお、叶くん」 「……はい」 あろうことか叶を手招きで呼び出した担任は笑いながら影山の首に手を回すのだ。 「影山の数学のテストが破滅的だったんだ。補習授業をしたい所なんだが放課後に会議が入っててな。叶くんが代わりに教えてくれないか?」 「俺が、ですか」 「ああ」 任せたよ。そう言って託せば叶が断ることは出来なかったのは自然な流れだと言えただろう。 図書室へ着くなり教科書を開き、シャーペンを片手に次々と問題を説明していく叶は教師よりも的確だ。影山の説いた式を眺めた後に、傾向を把握し、影山に分かりやすいように説明をする。集団授業では出来ない説明ではあるが、それでも放課後の時間を勉強にあてることを少しも苦に思わせない。 「叶さん、分かりやすいです」 「……まあ、田中たちに説明してるからな」 「あー」 何となくイメージ出来てしまうのが面白い。きっとさじを投げる田中や西谷を相手に叶と縁下二人でなんとか勉強させているのだろう。 元々の頭の良さにプラスアルファして、教え慣れているのも教え上手に繋がっているのだろう。 次の問題はと説明を始める横顔を見つめて、影山は少し前を思い出した。 叶と二人きりで話したのは掃除当番の時に偶然鉢合わせたあの時だと言えた。自己紹介ではまともとに言葉を繋ぐ機会もなく、ごみ捨てで鉢合わせた時に会話が出来たことを喜びとした気がする。 元々選手ではない叶と接触する機会は少なく、会話の輪に叶自らが率先して入ってくることがないため尚更だ。 前回も今回もきっかけがあってこそ出来た関わりであって、それは叶の意思でも影山の意思でもない。 「影山、影山?」 「あ、すんません」 「どっか飛んでたよ」 そう言いながら叶は僅かに唇を緩める。折角の説明を聞かなかった影山を咎めることはせず、ただ受け流す。それは叶の優しさなのか、それとも興味がないのか、影山は判断出来ずにいた。 「あの」 「あー! 叶くんじゃん」 勉強を教えるのが迷惑じゃないか。一瞬過った感情をそのまま疑問として口に出そうとした時、突然乱入してきた声によって遮られる。 それは先輩だろう女子のグループであった。内一人の女子が声を上げ、こちらに近づいてくるのが確認できた。 その行動に比例して、叶の眉間に僅かに皺が寄ったことが分かる。成る程。田中たちの言っていた女子が苦手な図を初めて垣間見た気がした。 「田中たちが居ないのに珍しいねね? 後輩」 「ああ」 「勉強教えてるんだ。叶くんやさしー」 「私たちにも教えてほしいなあ」 色目を使っていると表現するのが的確か。影山など眼中にないように叶に群がる女子のグループは目をハートにして格好いいと連呼する。確かに男の影山から見ても叶のスペックで勉強が出来るとなれば憧れの対象だ。それが異性から見た時に目がハートになるのも頷ける。 この図を見れば田中さんあたりが発狂しそうだ。影山は心の中で呟いた。 男である手前、少しはでれでれするのかと叶の様子を伺えば、叶は無表情を一貫して崩すことがない。流石鉄仮面、後ろに居た女子が小さく呟く声が聞こえた。 「影山」 「は、はい」 今まで一度も口を割らなかった叶が突然影山の名を呼ぶ。つられるように大声を上げてしまった影山を目で制しつつ、叶は立ち上がるのだ。慌てて教科書をかき集めて席を立つ。 「行くぞ」 白々しい叶の態度に動揺することのない女子のグループは慣れた様子で手を振って見送る。それに一度も返事を返すことなく図書室を後にする叶の後ろ姿は面倒くさいといった雰囲気を醸し出している。元はと言えば影山が原因で放課後の時間を割いて叶は勉強を教えてくれていた。そんな中で苦手な女子たちと出会うことになったのを申し訳なく思ってしまうのだ。 「あの、すんません」 「なんで影山が謝るんだよ。俺のほうこそごめんな。あいつらと会うと思ってなかった」 その口ぶりから、一応は顔見知りであることを知る。 「キリも良かったし部活に行くか。田中たちがうるせーし。……勉強は今度でいいだろ」 「でも」 「大丈夫。先生には黙っておくから」 勉強なんて適当でいいだろう。続けられた言葉は優等生と思えない発言であったが、叶は撤回することなく言い放つ。バレーの方が楽しいだろうと言われてしまえば影山も頷くしかないのだ。 不思議だ。影山の持つ叶のイメージは正にそれだと言えた。 感情が読み取りやすい訳ではないけれど、感情がない訳でもない。田中や西谷のように“先輩”とはっきり分かるわけではないものの、影山という後輩と居る時、些細な気遣いが“先輩”と思わせてくれる。 「あの、また教えてもらってもいいスか?」 咄嗟に出た言葉に一瞬瞬く叶であったが、次には小さく破顔して、ゆっくりと頷いてみせた。 それが隣に居ることを認められたようで嬉しかった。 隣にいること 20150508← |