短編 | ナノ



意味不明のファーストキス

 
 
 彼氏にフラれた。
 これは不幸にも少女漫画でもよくあるポピュラーな文句のように思う。
 私は少女漫画や恋愛小説を愛読書としている節があって、ヒロインと同じように笑ったり、ときめいたり、泣いたりしたことがあった。そして、いつか出来る彼氏とは少女漫画のような情熱的な恋愛を経て、永遠の愛を勝ち取るのだと友人に豪語したことがあったのだ。友人はそんな私を見てへえ、と気のない返事しか返してくれなかったけど、私はそれでも良かった。漫画や小説のような恋をするなんてベターな展開で非現実的だと言われていても、私の恋愛観は全てそれらで培われてきたのだから仕方ないのだと言えたのだ。
 そんな私が初めて出来た彼氏は、それはもう素敵な男の人で、年上の知的な感じで顔も中々のイケメン、つまりは絵に描いたような相手だったのだ。緊張する私を優しく、時には意地悪く関わってくれる彼を私は好きだった。それなのに、フラれた。
 恋愛ごっこはこりごりだと匙を投げた発言を浴びた。その言葉に私は上手に笑うことも、可愛く泣き崩れることも出来なかった。ただ茫然とその場に立ち竦むしか出来なくて、彼の後ろ姿を焦燥と愛しさの混ざった瞳でしか見つめることが出来なくて、否定の言葉を連ねて彼をこの場に留めることが出来なかったのだ。
 ケータイのディスプレイに彼の電話番号が表示されているのを見つめて、初めて好きになった相手に告白を伝えた時を思い出した。年齢の離れた私を彼は彼なりに可愛がってくれたように思う。私の願いを全て叶えてくれた。手の握ってくれた時だって、映画館で肩を寄せ合った時だって、必ず彼は困ったように、けれど少し照れ臭そうに笑ってくれたのだ。
 
「おい」
「……あ、黒尾」
「なに突っ立ってんだよ」
 
 気付けば先程居た公園から歩いてきたようで、黒尾と出くわした。声を掛けられてやっと周囲の状況が呑み込めた私は無意識の内に黒尾の家を目指して歩いてきていたことに気付いたのだ。
 怪訝そうな表情を浮かべる黒尾から視線を外して足元を見つめれば、少しだけ濡れた黒い傘に視線が奪われた。
 そう言えばとつい数時間前のことを思い出す。そう言えば、今日は折角の彼とのデートだったのに、にわか雨に見舞われて散々な日になりそうだって思ったんだっけ。彼がコンビニで買った傘に入らせてもらって、二人で笑いながら道を歩いていたら私が思いっきり水たまりに足を突っ込んで彼が慌てたのを思い出す。
 思い出して、不意に靴からじわじわと靴下を濡らす水に気付いた。新しく下した靴が濡れて嘆く私の手を引いて、彼は困ったように笑ったのだ。必ず手を引いてくれた温かくて大きな手のひらも、不器用な笑顔を浮かべる姿も、これから先は思い出としてしか残らないのだ。
 じわじわと水が染みこんでくる感覚が分かる。じくじくと湿った気持ちが私の瞳をじんわりと滲ませた。滲んで、涙となって零れ落ちたのだ。
 
「彼に、フラれた」
「っ、」
「恋愛ごっこが面倒だったんだって。そう言われた時になにも返せなかった」
 
 黒尾が息を飲んだ様子は見なくても想像出来た。私の話を下らないと一喝するのに、最後まで耳を傾けてくれていた友人が彼なのだから突然の告白に驚くのは当たり前なのかもしれない。
 彼の笑う表情が脳裏を掠める度に涙はとめどもなく溢れて、既に濡れている地面を更に色濃く濡らすのだ。
 
「そっか、」
 
 黒尾の声は、私が想像出来る範囲の声よりも遙かに優しさの帯びた声であった。その一言にどのような想いが込められていたのかは想像がつかなかったが、少なからず私は自分の悲しみを彼が共有してくれているのだと考えていた。
 
「良かったじゃねーか。お前とそいつじゃ合わなかった訳だ。付き合ってそう長くねーだろ? 早い内に気付けて良かったじゃん」
「あんた、何言って、」
「要するに、名前には俺のが釣り合うってことだ」
 
 冗談を言い合う気分ではないと、声を上げて文句の一つでも言ってやろうと黒尾を見上げて口を開けたけれど、声よりも先に黒尾が距離を詰めてきて、開いた口は呆気なく彼の唇によって塞がれてたのだ。
 手に持っていたケータイが落ちて、彼の番号を映し出していたディスプレイが暗転した。出かかっていた文句も口が塞がれては居場所を失って萎縮していく。強張った指先で必死に黒尾の肩を押そうとするのに、彼の逞しい腕がそれを制するのだ。
 
「お前の惚気を聞いていて、俺が楽しいとでも思ったか」
 
 唇が離れて開口一番の言葉に言いようのない羞恥心が込み上げてくる。

「っ、意味分かんない! 死ね!」

 黒尾を押しのけて我武者羅に走り出した。私の後を追うように黒尾の焦った声が聞こえたけど、全てを振り払うように腕を振って私は走ったのだ。
 きっと数十秒後には追いかけてきているのだろう黒尾に捕まるのは目に見えているけれど、今はとにかく彼から少しでも離れたかった。どうして黒尾の家に向かってきてしまったのか、今では後悔でしかない。
 
「ほんと、意味分かんない」
 
 服の袖で口元を乱暴に拭う。零れた涙も拭うことが出来ずに、ただただ赤く染まった頬を必死に冷まそうとするのだ。
 今まで私の話をずっと聞いていて何も言わなかった黒尾が突然豹変したことも、少しでも黒尾を意識してしまった自分も本当に意味が分からなかった。
 
意識不明のファーストキス
 
最近こういうの好き。
20140417