短編 | ナノ



僕だけの女神さま

 
 ボールの跳ねる音が体育館の静寂さを露わにする。その瞬間に、デオドラント剤の匂いが鼻につく。よく、相手の香りがなんて言うけれど、いざ抱き締めて至近距離に居てみると、及川は部室で嗅ぎ慣れた匂いを感じたのだ。
 声を掛けて、振り返った所を狙って腕を引いた。そして抱き締めるに至ったが、今のところ続きはない。名前は及川を見上げる。その瞳には困惑とほんの少しの羞恥が混ざっていた。
 
「どうしたの?」
 
 短いその反応は瞳に映る感情を体現しているかのような表現だ。まさに、どうしたの、だ。事実、名前からすれば及川の行動は唐突で予測出来なかったのだろう。抱き締める力をそのままに及川は詰めていた息をゆっくりと吐き出した。そして見上げる名前を見て、少し強張った口元を僅かに緩めるのだ。
 
「怖くなった?」
 
 もう一度、名前は及川に問いかけた。しかし、先ほどのように漠然とした疑問をぶつけるのではなく、ある程度的の絞った発言で、彼女なりに考えた結果の答えがそれなのだろう。
 及川はもう一度小さく息を吐き出して、小さく頷いた。言葉は出なかった。口の中が乾燥しており、胃が独りでに動き出すかのように吐き気を催して気持ち悪い。心臓は悲鳴を上げていて、指先まで血液が通っていないようにかじかんでいるのだ。
 確かに練習は順調に進んだ。大きなミスはなく、寧ろ今までの努力が実った場面が幾つか垣間見れたのだ。けれど、練習が終わり、自己練習が始まった途端、それまで張りつめていた糸がぷつんと糸切り鋏によって切られたかのように緩んだ。
 個々を加味したトスは上がった。腐れ縁でもあり良き相棒でもあるエースから怒声が飛ぶこともなかった。サーブもコートに入った。けれど、言いようのない感情に苛まれるのだ。
 名前の言葉を借りるのならば、これは、恐怖だ。
 毎日のように練習を繰り返し、成長も見られるが、ふと、自分はこのままでいいのかと考えてしまう。いつもより練習時間が長ければ? いつもよりサーブを重ねれば? 突き詰めて考えればそれが莫大なものへ変貌する。後一本でも多くボールを空へ上げれば、手を伸ばしても届かない位置居るライバルたちに手が届くのではないか、と。
 コーチや監督にも、チームメイトにも、ましてや腐れ縁に対してですら明かしたことはなかった。更に言えば及川自身、気付いていながらも感じていなかった感情だ。怖いなんて、今まで積み上げてきたものを考えれば伝えるなんて到底出来ない感情なのだ。
 名前は今日も練習後、いつものように自己練習を重ねる及川を見つめていた。ボールを手に動きを止めた及川に疑問を抱いたのか、近寄った所を抱き締められたのだ。
 跳ね返ったボールは及川の足元に転がって動きを止めた。名前の首筋に顔を埋めると、ようやくデオドラント剤の匂いから解放された気がした。女性特有の柔らかい匂いに包まれる。そこで及川は改めて大きく息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出したのだ。
 
「名前は、こんな俺……可笑しいと思う?」
 
 躊躇いがちに問うた質問に、名前は頬を緩めた。
 そして、かじかんだ指先に自身の指を絡めて、今度は悪戯っぽく笑ってみせる。
 
「私がどう思ってるか知っているのに、聞こうとするのね」
 
 及川の問いかけに名前は直接的な言葉を伝えることはなかった。ただ、冷えた指先に熱を与えるように、悲鳴を上げる心臓を宥めるように身を寄せるのだ。
 恋人の関係に至る以前から、名前は熱心に及川の練習風景を見ていた。恋慕に染まった感情だけでなく、マネージャーとしての凝り固まった責任感だけではない瞳の熱を背に感じている時は、今のように温かい熱が解きほぐしてくれている感覚を覚えた。

「まいったな。君に何回救われるのか分からなくなる」
 
 身体に熱が移ったようだ。心臓は落ち着きを取り戻し、指先も今ならほんのりと温かい。足元に転がるボールを見ても焦燥感は無かった。これも名前のおかげなのかと考えれば自然と笑いすら込み上げてくる。
 ゆっくりと身体を離して及川は足元のボールを拾い上げた。
 
「もう練習再開?」
「名前にインターハイの切符をプレゼントしないといけないからね」
 
 ボールを上げる指先の感覚はしっかりと取り戻していた。コートを見据えて、居るだろうチームメイトを思い浮かべて及川はボールを体育館の空へ上げたのだ。
 そのすぐ近くで自分を見つめる確かな熱を感じながら。
 
僕だけの女神さま

休憩時間に彼女を抱き締めて「○○ちゃん補給!」っていうのを解きほぐすとこういうことになると思う。
20131205