「本当に大丈夫なんだな?」
 
 本日三度目のセリフにわたしは大袈裟なほどため息をついた。
 
「だーかーらー大丈夫だってば! ほら、見なよこれ!」
 
 メーターパネルに勢いよく置いた手のひらサイズのカード。目が開ききっていない微妙な表情をした写真の横には私の名前と生年月日が印字されている。
 それを手に取り、隅から隅まで目を走らせーー変な顔をしているからあまり見ないで欲しかったーー、裏面までじっくりと眺めたあと、クラピカは渋々といったように助手席のシートベルトを締めた。
 
「はい、では出発しまーす!」
 
 免許を取ってから、初めてのドライブ!初めてのレンタカー!期待に胸を躍らせている私とは反対に、隣に座るクラピカのテンションは低い。
 
「頼むから事故だけはしないでくれ」
 
 そんな反応もある程度予測していたので軽く受け流してエンジンをかけた。しかし、パーキングからドライブにギアチェンジしようとしても固くて動かない。
 
「あれ……?」
「……サイドブレーキ」
「あーそうだった!クラピカ、免許ないのによく知ってるねー」
 
 ブレーキペダルを踏みながらサイドブレーキを下ろすと、車がかくんと動いた。「ちょっと古いから初心者には動かしにくいかもね」とさっきレンタカー屋さんが言っていたことを思い出す。今度こそギアチェンジして、ゆっくりとアクセルを踏み込む。
 ブオオンとエンジン音を鳴らしながら車が進む。「ほらほら!動いた!」嬉しくって助手席の方を見てしまうと、「ま、え、を、見、ろ!」と頭を掴んで前を向かされた。
 
 慣れない夜道、慣れない車、慣れない車線変更、慣れない右折左折。不安すぎて事あるごとに叫んでーー「いま横いける!?」「ちょ、ちょ、曲がれない!後ろバイクいるし曲がったら轢くって!無理無理!もうこのまままっすぐ行く!」「ひえっ人歩いてるじゃんっ!」ーーしまい、その都度横から怒号ーー「今すぐハンドルを左に切れ!」「真っ直ぐ行ってどうする!行き止まりの看板が見えないのか!なんとしてもここで曲がるんだ!」「ブレーキ!」ーーが飛んだ。
 乗車して十分も経たない間に何度か事故を起こしそうになり、「一旦休憩すべきだ」とのクラピカの案により、路肩に車を停めた。本当はコンビニに寄りたかったけれど、バック駐車ができる自信がないと言えば即座に却下された。
 
「いやあ、なんか……初心者には厳しい車だね?」
「……車のせいだとでも?」  
「えー?はははは……」 
 
 返す言葉もなく、乾いた笑いが浮かぶ。慣れない運転の緊張を解そうと深く息を吐く。重く感じた頭をハンドルに乗せるとブー!とクラクションが鳴って慌てて体を起こした。
 
「……この免許証、偽物ではないだろうな」
 
 じとっとした目で私と免許証を見比べて返却してきたクラピカに、再び乾いた笑いを送るしかなかった。
 
「何か買ってこよう。リクエストは?」 
「カフェオレとチョコがいいなあ」
「わかった。すぐ戻る」   
「お願いしまーす。行ってらっしゃい」 
 
 車で寄りたかったコンビニに向かってクラピカが歩いていく。それを運転席から見送って、室内灯を点けて先日購入したばかりの市内地図を膝上に広げた。目的地までのルートを指でなぞる。遠くはないけれど、山道を通らなくてはならない。
 
「出発したばっかなのにもう心折れそう……」
 
 運転をするのにここまで精神力や体力を奪われるなんて思ってもみなかった。しかも夜道なんか教習所では練習していない。自分の計画の甘さが嫌になる。今日のために免許を取ったり、レンタカーを借りたり、鞄に眠っているデジカメを買ったりしたのに。また頭が重くなって、ハンドルに委ねる。今度はクラクションに当たらないように。
 
 アパートから出ていくことを知った冬。あのときは急なことで驚いて教えてくれなかったクラピカや家族を責めたけれど、しばらく時間を置いて考えるとそんなの当たり前の話だった。クラピカは私と同じ生き方をしていない。私たちは最初から違う方を向いて歩いている人生なのだから。たまたま、運良く、偶然が重なって今同じ時を過ごせているだけ。離れていたものが奇跡的に交差して、また離れてもとに戻る。ただ、その時がきただけ。
 
 明日、クラピカは十七歳になる。
 夏が終わる頃には出ていくと彼は言っていた。冬が終わり、春を迎えた今。残された時間は僅かだった。
 だから思い出を作りたいと思った。二人で過ごした時間を私が大切だと思っているように、クラピカの心の中にも私という存在を残しておきたかった。
 身勝手だと思う。それでもその気持ちを捨てることができず、蓋をすることもできず。
 
「結局まだ好きなんじゃん……」 
 
 うだうだと自分の気持ちと向き合っている間に、助手席のドアを叩く音がした。ハンドルの上で顔を作ってからゆっくりと外へ視線を向ける。「開いてる」とジェスチャーで伝えるとすぐにドアが開けられ、レジ袋を持ったクラピカが眉を寄せながら隣りに座った。
 
「昼間ならまだしも、もう夜も遅い。ロックする癖をつけろ」 
「なんで?運転手いる車なんて誰も盗まないって」
「……目的が車だけとは限らない」
「そんなにお金持ってそうに見えないと思うけどなあ」 
 
 ミラーの中には不思議そうに頭をかしげる私がいる。どう贔屓目に見てもお金持ちには見えない。ミラー越しに同意を求めると、クラピカは「金より大事なものがあるだろう」と助手席側の窓へ視線を流すとため息をついた。
 
 カフェオレとチョコでエネルギーを補給して、私とクラピカと車は再び夜道を走り出した。内緒にしたかった目的地は、「初心者が運転をしながら地図通り走れるとでも?思い上がりもいいところだな」との無慈悲なお言葉により再出発するころには地図はクラピカの手の中に収められることになった。
 
「そこの信号を左折……今なら後ろはいない。ハンドルを切れ」
「りょ、りょうかいっ!」
「次は50メートル先の小道に入れ……そこだ。あとはしばらく道なりにまっすぐ進むんだ」
「おーけー!」    

 クラピカの道案内は的確だった。走りやすい道を指示してくれていることにもしばらくしてから気づいた。地図を気にする必要がなくなったぶん私にも余裕が生まれ、ラジオから流れる音楽を口ずさむ。
 
「これ流行ってるよね。いっつも店で流れてるんだー」 
「そうなのか。通りでよく聴くと思っていた」
「えークラピカ歌とか興味ないの?」 
「あまりないな。それに流行には疎いほうだ」  

 言われてみれば、クラピカの家にはテレビはないし、いつも本ばかり読んでいて音楽を聴いたりするイメージはなかった。そんな本の虫である彼が今日は本ではなく私のために地図を広げている。胸の内から、ぽうっと小さな喜びが湧き出す。今だけは、私がクラピカを独占しているみたいだ。
 
「しかし、最近忙しくしていると思っていたが免許を取りに行っていたとはな」
「思い立ったら即行動!がモットーだからね」
「そのモットーとやらは今日の目的地に関係があるのか?」
「うーん。まだ秘密!」 
    
 二人で迎えようとしている三度目の誕生日。きっとクラピカも何かをしようとしていることに気付いているだろうけど、それ以上聞いてはこなかった。「そうか」と小さく笑ったクラピカをミラーの中に見つけて、諦めの悪い私の恋心が嬉しそうに跳ねた。
 
 だんだん細くなっていく山道にハンドルを握る手は汗まみれになっていた。舗装された道とは違い、でこぼこ道の振動がダイレクトに届いて車体が揺れる。街灯もなく、ガードレールも当たり前のようになく。道の端の真っ暗なその先は崖かなにかで、落ちたら死んでしまうと思うと怖気づいた。
 
「や、やっぱ戻る?」
 
 道の途中でくぼみを見つけ、一旦停止した。当初の目的も忘れ、情けなく提案してみる。ああ、とかそうしようとか肯定的な意見が返ってくることを期待していたけれど、隣に座るクラピカは深くため息をつくと、首を横に振った。
 
「Uターンできるほどのスペースはない。ここからバックで帰れる自信は?」
「バックで……」 

 ゆっくりと後ろを振り返る。真っ暗な山の中、車の明かりだけが見えた。あの細くて暗くてハンドル操作を間違えば崖へ一直線なところを、バックで?
 
「絶対無理!」 
「だろうな。ならば行くしか道はない。頂上近くまで行けば広い駐車場があるみたいだ」 
「……今更なんだけどさ、これってもしかして帰りもこの道しかない感じ?」
「今更だな」
 
 進むことばかり考えていて帰りのことを考慮していなかった。微かな望みを絶たれ、別の場所にすればよかったとルンルン気分で目的地を決めた過去の自分を恨んだ。それこそ今更だけど。
 そう、全部今更なんだ。過去を後悔したって時間は進んでいくし、クラピカと過ごせる時間は減っていくし。じゃあ今できることをしたいってそう思って段取りして、ここまで来たんだ。今更引き返すなんて怖気づいたことを言うな、ばか名前。
    
「ねえクラピカ、後ろに置いてる私の鞄とってくれない?」 
「これか?」
「ん、ありがと」
 
 私の今日の目的は思い出づくりだ。こんな日もあったねって思い出して笑えるようになりたい。
 鞄の中に手を入れて、目当てのものを探し出した。今日のために最新モデルを買ったデジカメ。電源を入れて構えた。「クラピカ、こっち向いて」真っ暗闇の景色を見ていたクラピカが私を見る。
 
「どうし……っ!」   
 
 自動でフラッシュ設定になっていたようで、眩しい光のあと控えめなシャッター音が聞こえた。

「ははっ!びっくりした?」
 
 画像モニターには白飛びしたクラピカの驚いた顔が写っていた。「急に何をするのかと思えば……」と言いながらクラピカも画面を覗き込む。
 
「持ってきてること思い出してさ。記念に撮っておこうかなって」
 
 そのままデジカメを渡せば、クラピカは物珍しそうに操作していた。
 
「一体何の記念だ」
「初ドライブ記念?」
「初事故の記念にならなければいいがな」
「縁起でもないこと言わないでよ……」 
「冗談だ」
「冗談になってないからこの状況」 
     
 さっきまで難しい顔をしていたクラピカがくるりと顔を背けた。肩が震えている。こやつ、毎回私が困っているときに笑うのが恒例になっているな?
 
「事故ったらクラピカのせいだからね!」
 
 不貞腐れたままエンジンをかけ、アクセルを踏む。プスッと気の抜けた空気音だけで動かない車。「あれ!?」戸惑いの声を上げると同じタイミングで、シャッター音。やられた!隣を睨みつけると、「サイドブレーキを忘れているぞ」とクラピカが勝ち気に笑っていた。 
 
 なんとか無事に駐車場までたどり着いたとき、私は心身ともに疲れ切っていた。帰りのことを考えるとぞっとするので、考えないことにした。
 車を降りてからお互いに大きく伸びをしたり体を捻ったりしてストレッチをして、それから頂上へ続く道を歩き始める。この辺りは多少人の手が入っているようで、木で作られた階段の足元にはところどころライトが点いていた。 
 それでも歩きやすい道とは言えず、慣れない運転のあとに登るのはきつい。先導するクラピカの足元を見ながら進んでいたけれど、足がもつれた。「おわっ!」転びそうになり、咄嗟にクラピカの服を掴んでしまった。
 
「大丈夫か」 
「ごめん。結構段差きついね」
「鞄は私が持とう」 

 そんなのいいよって断る前に、私の鞄はもうクラピカの肩にかけられていた。「別に重くないのに」って強がってみたら、「そうだな」と涼しい顔で返された。
   
「もう少しだ。頑張ろう」 
 
 そう言って私に向かって伸びてきた手。反射的に手を伸ばしかけて、中途半端な位置で止まる。
 待って、これは手を繋ぐってこと?予想していなかった展開に頭がパニックになる。きっとクラピカは私が放っておけば転げていってしまいそうだから、それを未然に防ぐために手を差し出しただけなんだと思う。万が一私が怪我をしたら帰りの運転手がいなくなるし。でもだからって、しぶとく生き残っている恋心は意識している相手の手を躊躇いなく握れるほどの勇気を持っておらず。そもそもそんなの恥ずかしくて無理!
 しかし、いつまでもこの手を宙ぶらりんにしておくわけにもいかない。
 どうか掌から私の好意がバレませんように、と覚悟を決めて手を伸ばしたのに、掴まれたのは手首だった。
 
「へ」
 
 拍子抜けして間抜けな声を漏らす。さっきまでの葛藤はなんだったんだ。すでに前を向いていたクラピカは、「……頂上までの辛抱だ」と私を引いて再び階段を登り始めた。
 手を繋ぐよりはハードルが低いけれど、いまクラピカに触れられている。脈の速さでドキドキしているかどうかわかったりするのかな。掴まれた手首の先の掌が妙な汗をかいて、バレないようにぎゅっと固く拳を結んだ。
 転ばないためにこうしているのに、私の足はふわふわしていた。足下のライトが背景の一つみたいにぼんやりと見えて、こんなポヤポヤしていたらいけないと口の中をわざと噛んだ。  
 
 前を歩く背中は相変わらず華奢だけど、いつからか私より大きくなった。知らないうちに好きになっていた。隣に並べるときも確かにあったけど、今は背中を目で追いかけるばかり。だって私が走って追いかけても、手を伸ばしても、届かないところに行く人だから。好きになっちゃいけない人だったんだ。なのに、そっちから手を差し伸べるのはずるい。これから進んでいくところへ連れてってくれる気なんてないくせに。
 諦めるなんて、できるわけないじゃん。
 頂上につくまでの間、クラピカにバレないように少しだけ泣いた。
 
 階段がなくなり、人の手で切り開いていったような細道を歩く。山風に煽られ揺れる葉が体に当たって身じろぐと、手首の熱はさっと離れていった。寂しさを覚えながら、前を行くクラピカの後を歩く。やがて広場にたどり着くと、その歩みが止まった。
 
「……すごいな」
 
 クラピカが息を呑み、感心したようにぽつりと呟いた。展望台というには頼りない柵の向こうには街が広がっていた。光る絵の具を筆の先からぽとりと落としたみたいな街の灯りの中をヘッドライトが縫って走る。街が一つの絵になったみたい。
 
「クラピカ。ちょっと早いけど、誕生日おめでとう」 
  
 十二時までまだあと四時間弱あるけれど、この光が最大限に映える時間に連れてきたかった。

「これが誕生日プレゼント。どう?綺麗でしょ!」
 
 プレゼントなんて言いながら、そこに込められているのは私の願望でしかない。一緒に過ごした日々を、この街を忘れないで欲しい。私を忘れないでほしい。

 隣に並んで、夜景の美しさに瞳を輝かせるクラピカに見惚れた。クラピカを含めてこの絵は完成するんだなって思った。
 ありがとうと頬を緩めたクラピカと、「記念に」と言って写真を撮った。カメラの枠に入るようにくっついた肩は性懲りもなく熱を灯していた。
 
「見て見て!いー感じに撮れたっ!」

 簡単に揺さぶられる心を隠すように明るく振る舞うことにいっぱいいっぱいだった。だから気付くはずなかった。頷いて目を細めたクラピカがこっちを見ていたなんて。
 

2021.8.14

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