ここにきてから、何かあったわけでもないのに心に靄がかかって眠れない日がある。今夜もそうだった。
 与えられた部屋から出て、縁側に腰掛ける。見上げた夜空の月は欠けていてどこか物哀しい気持ちになる。杏寿郎さんはこの月夜の下、命を懸けて刀を振るっているのだろうか。
 吐き出した息で両手を温める。軟膏を塗ってもすぐにひび割れていく手。あかぎれごときで染みて痛いと愚痴る無力な自分が嫌になる。
 早く朝が来て欲しい。杏寿郎さんにお帰りと声をかけて、温かいお風呂を用意して、美味しいものを食べさせてあげたい。身も心も削って帰ってくる彼に少しでも安らぎを与えたい。
 そんなおこがましい想いを抱いて、ただひたすらに朝日が昇るのを待った。
 
「風邪を引くぞ」 
 
 うつらうつらとしていた視界に杏寿郎さんは急に現れたものだから私は驚きのあまり声が出なかった。
 杏寿郎さんだ。杏寿郎さんが帰ってきた。
 縁側に座ったまま、庭に立つ杏寿郎さんを見上げた。彼の背後にはゆっくりと昇りだした朝日があった。いつの間にか居眠りをしてしまっていたようだ。

「いつからここに?」
  
 少し咎めるような口調が上から降ってくる。
 それには気付かないふりをして、声を取り戻した私は彼に一番言いたかった言葉をかけた。
 
「お帰りなさい」
「ああ……ただいま」
 
 杏寿郎さんの固かった表情が和らぐ。
 杏寿郎さんが生きて帰ってきてくれた。ほっと安心して、私も自然と頬が緩んだ。
 それでいて、ぎゅうっと胸が締め付けられるような、込み上げるようななにかも感じていた。
  
「あの、怪我はしてませんか?」
「大した怪我はない!」 
「良かった……」
 
 夜明けだからか杏寿郎さんの声は静かだ。それだというのに、私は身を乗り出していた。
 
「お疲れですよね! お風呂には入られますか? ご飯は? 昨日の残りでおにぎりなら今すぐに……! あと、えっと、お茶! 喉は乾いていませんか!」 
 
 居眠りをしてしまう前まではおこがましいだなんて思っていたはずなのに、今の私は彼の役に立ちたくて仕方なかった。
 
「お茶を淹れてきます!」
「待て」 
 
 慌てて立ち上がろうとしたが、手を掴まれた。中途半端に膝を立てたままに、杏寿郎さんを見上げる。
 
「どうされました?」
 
 杏寿郎さんは返事の代わりに親指の腹で手の甲を撫でる。杏寿郎さんの固く分厚い皮膚が私の手の甲を撫でるたび、あかぎれた肌がぴりりとした痛みとともに、鳥肌が立つようなぞくぞくしたものを感じた。
 その手が頬にまで伸び、そのまま流れるように首筋に触れ、びくりと体が揺れる。
 
「あの……」 
 
 遠慮がちに声をかけると杏寿郎さんは私から手を離すとすっと目を細めた。
 
「身体が冷えている。いつからここにいた?」
「えっと……」 
 
 ついさっき流したはずの会話に戻ってきてしまった。柔らかとは言えない声色に背筋が伸びる。
 怒られるだろうか、でも嘘をつくわけにもいかない。杏寿郎さんに嘘は通用しないから。夜中からいたと正直に答えると杏寿郎さんは「む」と眉を寄せ、腕組みをした。
 
「俺のことを心配している場合か? 身体が強くないだろう、君は! また熱を出して倒れでもしたらどうする。自分の身を労ってくれ」 

 最近は熱を出すことも少なくなったからか、油断していた。こちらの時代に来てから慣れない生活と食事、気候に身体がついていかず、何度も体調を崩していたのだ。体調を崩す私の世話は、家にいない杏寿郎さんでも私をいないものとして過ごす槇寿郎さんでもなく、千寿郎くんの仕事だった。家事に鍛錬にとただでさえ忙しい千寿郎くんを拘束することになるのは心苦しかったことを思い出し、私は「うっ」と呻いて項垂れた。
 
「返す言葉もありません……」 
「わかったならばよし! 今日の朝飯は千寿郎に頼んでおく。その分君は自室でしっかりと休め」 
「いやっでも、さすがに千寿郎くんに任せきりで寝るわけには!」
 
 この時代の朝食の準備は現代っ子の私から言わせると大仕事だ。朝から米や麦を炊いて、野菜を切って味噌汁や佃煮などのおかずを作って。それだけでも大変なのに、煉獄家は庶民と比べると裕福らしく、魚を焼く日もある。特に杏寿郎さんが任務を終えて帰ってきた日の朝は千寿郎くんと二人、腕によりをかけて作っていた。
 パン一枚食べて済ませていた元の時代とは朝にかける労力が違いすぎるのだ。
 食い下がろうとする私を杏寿郎さんは腕組みをしたまま見下ろす。ぎょろりとした大きな丸い瞳の圧力の強いこと強いこと。
  
「今日の君の仕事は寝ることだ。いいな」
 
 よくない!と訴えることができる人がいるのならばここに呼んでほしい。私は何も言い返せず頷き、杏寿郎さんに促されるまま布団に入ることとなった。
 そして、再び起きたときには日はすっかりてっぺんまで昇っていた。
  
「千寿郎くんお、おそようございます……」 
「名前さん。おはようございます」
 
 居候の身でありながらこんな時間に目覚めた不甲斐なさに襖の隙間から顔を出した。千寿郎くんは「よく眠れましたか?」と目を細めた。
 
「おかげさまでよく眠れました!」 
「それは良かったです。兄上から聞きました、眠れない日があるようだと。今まで気づかなくってすみませんでした……」
「いやいやそんな! 私が勝手に寝不足になっているだけだから! 千寿郎くんが気にする必要はまったくないので!」 
「そうですか……でも、そんな日は無理されなくて大丈夫ですからね」
 
 千寿郎くんの優しさが心に染み渡る。ありがとう、と頷いて用意されていた朝食にありつく。
 私の妹も千寿郎くんのように優しかったら良かったのに。寝坊したときには決まって「お姉ちゃんってほんと間抜けだよね」とバカにされたものだ。今となればそんなことですら懐かしく、恋しいエピソードのうちの一つなのだけれど。
 
「そういえば今日は鍛錬はしないの? 杏寿郎さんが帰ってきたときはいつも見てもらうのに」
 
 千寿郎くんは、私が遅い朝食を食べ終え食器を片付けている間、居間で読書をしていた。杏寿郎さんが家にいる期間、千寿郎くんが杏寿郎さんに稽古をつけてもらうのがいつもの光景だったのに珍しい。
 
「それが、今日は兄上も任務後の報告などで書き物がたくさんあるようで」  
「そうなんだ。大変だね」
「ええ。だから後でお部屋に茶菓子でも持っていこうかと思っているのです」   
 
 千寿郎くんは戸棚に視線を向けた。そこには、杏寿郎さんが帰ってくるからと昨日二人で買いに行った大福がしまってある。
 千寿郎くんの読んでいる本はまだまだページが厚く、その手を止めるのは可哀想だ。

「私、部屋に戻るからついでに持っていくよ」 
「よろしいのですか?」 
「うん。たまには千寿郎くんもゆっくりしてて」 
 
 千寿郎くんは少し考えるように首を傾げて、それからにっこりと笑った。
  
「ではお言葉に甘えさせていただきます」 
 
 お盆に大福とお茶をのせ、杏寿郎さんの部屋へ向かう私は浮き足立っていた。彼の部屋の前まできて呼びかける前に手ぐしで髪の毛を整えた。
 
「杏寿郎さん、名前です。お茶を持ってきました」
 
 静かだった襖の向こうでかた、となにか置く音がした。足音が近づいてきたと思ったら、襖が開いた。
 
「わざわざすまないな。ありがとう!」 
「いえ! いつもお仕事お疲れさまです。昨日、千寿郎くんと美味しい大福を買ったんです。休憩してくださいね」
「ほう、うまそうだな!」
 
 少し疲れているように見えた杏寿郎さんだったが、大福を見て目を輝かせた。その姿に笑みが溢れる。喜んでもらえてよかった。千寿郎くんにも後で報告しておこう。

「ところで君はどうだ? あれから眠れたか」 
「お恥ずかしながら、さっき起きたところで……あれからぐっすりでした」  
「それならば良かった!」

 ははは、と杏寿郎さんが豪快に笑うので私は余計に恥ずかしくなって下を向いた。妹がいたらきっと「間抜け」と笑われるだろうな。  
 
「あの! どちらに置いておきましょうかっ!」 
 
 どうにかして間抜けっぷりを誤魔化したくて、私は杏寿郎さんに許可もとっていないにも関わらず部屋へと足を踏み入れた。ところが、鈍くさいことに部屋と縁側の仕切りに後ろ足を取られ、つんのめった。
 
「うわっ」
 
 お盆を持つ手を離そうとした。でもせっかく買った大福が!と一瞬考えてしまったせいで、手を離すタイミングを見失った。湯呑が宙を舞う。もはや顔で受け身を取るしかないと妙な覚悟を決めて目を瞑ったが、想像していた痛みはこなかった。それどころか温かなものに包まれている。
 
「……そそっかしいな、君は」 
 
 頭のすぐ近くで低く優しい声がする。私の顔は畳ではなく、温かくてかたい、杏寿郎さんの肩に埋まっていた。つまり、いま、私は杏寿郎さんに抱きとめられているのだけれどーーときめくよりも先に、さっと血の気が引いた。杏寿郎さんの肩口から血の匂いがする。
 
「ありがとう、ございます……」 
 
 杏寿郎さんは私の肩をそっと押して立たせると、私からお盆を抜き取り少し後ろに下がって距離をとった。
 
「すまないな。さすがにこれは受け止めきれなかった」 
 
 色の変わった足元の畳を見て杏寿郎さんはぽつりと呟き、転がった湯呑みを拾う。
 
「杏寿郎さん」 
「気にするな。あとは俺が片付けておく。君はもう戻っていい」 
 
 自然な物言いだった。でも、それはまるでさっきの私みたいになにか隠し事をしたくて誤魔化しているようでもあった。
 私を帰そうとする杏寿郎さんの腕を掴む。固くて、太くて、皆を守っている強く優しい腕。優しい人。千寿郎くんや私にバレないように振る舞っていたのだろう。
 
「杏寿郎さん。千寿郎くんには黙っておきます……だから怪我、見せてください」
 
 傷の手当なんて、転んだときに流水で流して絆創膏を貼るくらいしかしたことはない。きっと私には大したことはできない。それでも放っておけなかった。
 杏寿郎さんは私の目をじっと見つめると、「参ったな」とじわじわと眉を下げていった。
 
「先に大福だけ食べてもいいか」
「だめです。手当が先です!」 
 
 
 
 彼の部屋で手当を行うことになり、私は台所に戻りお湯を沸かした。千寿郎くんが不思議そうにこちらを見ていたが、都合よく溢れたお茶のおかげでお湯を沸かす言い訳がスムーズにできた。
 千寿郎くんに見られないようにお湯を桶に入れ替えて杏寿郎さんの部屋へ戻った。私が準備している間にこぼれたお茶は杏寿郎さんの手によって拭き取られていた。そのことに礼を伝えて、襖を閉めようとすると「閉めてはいけない」と杏寿郎さんは言った。私が「なぜですか」と訝しむと、彼も理解ならないというように眉を寄せて難しい顔をしていた。
 
「男の部屋で二人きりになるものではない」 
「怪我の手当てをするだけですよ」 
「そうだとしても、だ」 
 
 この時代には男と女には明確な線引がある。男尊女卑だとか、亭主関白だとか、見合い結婚だとかそのへんが常識としてまかり通っている時代なわけだ。杏寿郎さんはこの時代の男の人なのだから彼に従うのがセオリーなのだろう。
 もし千寿郎くんが通りかかったら怪我をしたことがバレてしまいますよ!と思うと若干納得はいかなかったが、30センチ程襖を開けた。杏寿郎さんはそれに対して何か言おうとしたのか片眉を上げたが、結局何も言わなかった。
 
「っ……この状態でよく普通の顔して過ごせましたね」 
 
 晒された肌は酷いものだった。杏寿郎さんが自分で巻いたという包帯を解くと、肩から肘にかけて肉が抉れている状態だった。他にも傷跡や細かな傷がいくつもあった。
 杏寿郎さんの嘘つき。今朝方聞いたときは大した怪我はないって言ったくせに。
 手拭いで血を拭き取り、彼曰くよく効くという特製の軟膏を塗り込み、包帯を巻いた。杏寿郎さんはその間、痛みに顔をしかめるようなこともせず、ただ私の手際を見ていた。
 
「君に理解してもらうことは難しいだろうが、俺は呼吸を使うため常人よりも傷の治りが早い。胡蝶が配合したこの薬も治癒力を高めてくれるものだ」
「そうですか」 
「この程度の怪我ならば十日程度で治る」  
 
 杏寿郎さんは袖に手を通して服を整える。私が彼の言う呼吸とやらを理解していないことは事実だ。現代医療を受けたとしてもこんな大怪我が十日で治るわけがない。そして例え十日で治ると仮定しても、今ある痛みが消えてなくなるわけではないはずだ。
 
「だから、そんな顔をしてくれるな」 
「……どんな顔ですか」
 
 私はそこまで難しい顔をしていたのだろうか。
 
「今にも泣きそうな顔をしている」 
 
 その言い方が優しくて、喉の奥がかっと熱くなった。こんな酷い怪我をしているのに、なんでこの人は他人の事ばかり気にかけているのだろう。
 
「杏寿郎さん、今朝私に言ったじゃないですか。自分の身を労ってくれって。私も同じ気持ちなんです。もっと自分のことを大事にしてください……痛いときは痛いって、言ってください」

 慈愛に満ちた目をするこの人が好きだ。他人の機微に敏感な杏寿郎さんの繊細な心や痛みを私が受けとめてあげたい。この人の帰る場所でありたい。ーー例えおこがましいと言われようとも。
 
 杏寿郎さんは何も言わず、怪我をしていない方の手で私を抱き寄せた。回された腕にぎゅっと力が入った。血と汗と杏寿郎さんのにおいがする。耳の横に杏寿郎さんの柔らかな髪の毛がある。
 
「身体の痛みなどいくらでも耐えることができる」
 
 低く抑えたような、掠れた声が鼓膜を揺らす。思わず抱きしめ返そうとして、はた、とその手を止める。
 
「だが、君がいなくなる日を思うと心が痛む」

 たった今、彼の痛みを受けとめてあげたいと思ったばかりなのに。私はいつか元の世界へ戻ってしまう身だ。私は杏寿郎さんの帰る場所になんてなり得ない。
 私は彼の想いを汲むことも、溢れ出す気持ちを伝えることもできず、ただ彼の肩口を濡らした。
 
 
2021.2.10

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