人々の生活を脅かす鬼が消えた。平和な世の中が訪れた。
 でも隣にあなたがいない。
 
 千寿郎くんが家にやってくる。杏寿郎さんが亡くなってから初めてのことだった。
 そろそろだろうか。お湯を沸かす手を止めるとちょうど良く玄関口から引き戸を開ける音に次いで、「ごめんください」と控えめな声が聞こえ、慌てて玄関へと走った。

「千寿郎くん! 久しぶりね!」
「名前さんお久しぶりです。お変わりないようで安心しました」
「千寿郎くんは大きくなったねえ。遠いなかありがとう。寒くなかった?」 
 
 明け方からちらほらと降り出した雪は昼前になっても止まずにいた。記憶よりも随分と大きくなった千寿郎くんは赤くなった鼻を首に巻いた襟巻きで隠すと、「大丈夫です」と優しく目尻を下げた。
 
「すぐに温かいお茶を用意するからね! さあさあ、どうぞあがって」
「気遣わせてしまってすみません。お邪魔します」

 千寿郎くんが腰掛けて履物を脱ぐために頭を下げると高く結い上げた髪がぴょんと跳ねた。杏寿郎さんと同じ髪色。
 長い髪がしだれて私の肌に触れるのが好きだった。その髪に手を伸ばし、あたたかな色合いが好きなのだと杏寿郎さんに伝えるの。杏寿郎さんはその都度擽ったそうに目を細め、まだ何も成していない私の腹をそっと撫でて口づけを落とした。「君との子も同じになるだろうな」その言葉が嬉しくて、早く子が欲しくて私ははしたなく二度目の夜をねだるのだった。
 今じゃ冷たい布団をひとつひいて、ひとり寂しく枕を濡らす日々。
 懐かしさと愛しさが溢れ、私の手は無意識にその髪に触れていた。千寿郎くんはびくりと肩を上げた。
 
「驚かせてごめんなさい……雪がついてたみたい」
「……そうですか」
 
 言い繕う私に千寿郎くんは一瞬の間をおいて動き出すと、長いもみあげを寒さで赤く染まった耳にかけた。

「あれ、いつの間にか随分吹雪いてる」 
「家を出たときはそうでもなかったのですが……この辺りは山が近いですからね」 
  
 廊下から見えた景色は朝よりもうんと白んでいた。千寿郎くんはこんななか一人で来てくれたのか、と申し訳ない気持ちになる。
 
「昼過ぎまでにここを出ないと帰れないかもしれないね」
「帰れなくなったら……そのときはどうすればいいのでしょうね」
「うーん。そのときは泊めてあげよう」 
  
 私の言葉を拾った千寿郎くんは、音もなく降る雪を見ながら笑っていた。
 
 居間に案内すれば千寿郎くんは上着を脱いで丁寧に畳んで端に寄せた。杏寿郎さんも衣服を脱ぎ散らかすなんてしたことがなかった。兄弟揃ってこういうところに育ちの良さを感じる。
 千寿郎くんは持ってきていた風呂敷を渡してくれた。包を解くと中から甘い匂いがした。

「スイートポテトだ! ありがとう!」
「つまらないものですが……以前名前さんも美味しいと言ってくださっていたので」
「うん。私もこれが好きだったの! さっそく一緒に食べようね」
 
 西洋ではスイートポテトというその芋菓子を千寿郎くんは杏寿郎さんと実家に訪れるたびに作ってくれていた。芋好きな杏寿郎さんはいつも嬉しそうにそれを頬張っていて、そのときばかりは幼く見えて可愛らしかった。そんなことを思い出すと思わず笑みがこぼれた。
 台所から皿を持ってきてスイートポテトを取り分けて手前に置くと、温かいお茶で冷えた身体に熱を戻している千寿郎くんがありがとうございますと頭を下げた。
 
「こちらこそありがとう。美味しそうだねえ」
「そんな大層なものではないので……!」 
「大層なものじゃない。杏寿郎さんは千寿郎くんの作ったこれがとっても好きだったんだから」
 
 私も杏寿郎さんのために作りたくて千寿郎くんに作り方を教えてもらったのだけれど、杏寿郎さんとの折りが悪く一度も食べてもらえなかった。自分一人のために作る気なんて起きるわけもなく、作り方を記した紙はいつの日か火にくべて灰にしてしまった。
 
「いただきましょうか」 
「はい」 
 
 二人手を合わせてスイートポテトを口に運ぶ。思い出通りの味に美味しいとこぼすと、「お口に合ったようで良かったです」と千寿郎くんは微笑んだ。
 
「杏寿郎さんにも食べさせてあげたいなあ」
「ふふ。兄上の仏壇にも今朝同じものをお供えしてきましたよ」
「さすが千寿郎くん。抜かりないね」 
 
 ぽつりぽつりと話をするなかでふと目が合う。杏寿郎さんと同じ色をした大きな瞳。
 
「それにしても千寿郎くん、大きくなったね」
  
 幼さを残しながらも頬の丸みはなくなりより杏寿郎さんに似てきた。あと数年も経てば彼のようにいい男になるだろう。
 けれど自信なさげなその眉は杏寿郎さんとは対照的だ。顔立ちはよく似ているのに。
 
「もう十七ですから」 
「そう。千寿郎くんだなんて軽々しく呼べないね。千寿郎さんのほうがいいかしら?」
「僕はあなたに呼ばれるならばどちらでも構いません」
「口も達者になって。立派な男のひとね」
「……名前さん、からかわないでください」 
 
 じんわりと頬を染めて視線を下げた千寿郎くんが可愛らしくてつい笑ってしまう。千寿郎くんは眉を寄せてむむ、と不本意な顔をして湯呑を傾けていた。その姿は杏寿郎さんに似ていて、自分の笑い顔が歪むのがわかった。
  
「……僕の中に兄上の面影を探しますか」

 寂しさが漏れ出してしまったのだろうか。千寿郎くんは困ったような顔をしてこちらを見ていた。
 
「ごめんなさい。そんなつもりじゃ」 
「いいんです。父上や炭治郎さんも時々そんな目で僕を見ますから。みんな寂しいんです」 
「千寿郎くん……」 
「名前さん。なぜ家に来てくれないのですか」 
 
 煉獄家へ訪れたのは一周忌が最後だ。槇寿郎さんに「君はまだ若いのだから杏寿郎のことは忘れてくれていい」と言われたのだ。しかしそれは私にとって都合が良かった。
 仏壇に手を合わせられないことよりも、彼に似た人たちを見るのが辛い。特にこの子には会いたくなかった。見るたびに成長していくその姿に杏寿郎さんを重ねないわけがなかったから。
 
「僕だって寂しいんです」 
 
 千寿郎くんの大きくなった手が遠慮がちに私の手に重なる。杏寿郎さんより薄くて、だけど私より大きな手。
 この手は子供が寂しい寂しいと人肌に触れたがるのとは別の意味合いを持っている。
 
「千寿郎くん。これは冗談が過ぎるよ」 
「冗談ではありません。僕はずっとあなたに触れたかった」 
  
 彼の頬の色は赤く、大きな瞳はゆらりと燃えている。杏寿郎さんと同じ瞳の色に恐ろしくなって、重なった手を抜き取ろうとしたけれど上から押さえつけられるように力を込められた。
 節だった指が私の手を握る。この子は、千寿郎くんは、もう男のひとだ。
 
「僕が兄上の代わりになります。名前さん。僕はこれからの人生をあなたと生きたい」
 
 いつの日かの杏寿郎さんが頭に過る。これからの人生を俺とともに歩んでくれないか、名前。嬉しさに舞い上がって何度も頷くと、照れくさそうにはにかんでたくましい腕で私を包んでくれた。
 杏寿郎さんと過ごした時間は長くない。この家で過ごしたのは彼の人生のうちのほんのわずか。
 それでもこの家の中には杏寿郎さんが息づいている。彼が好んで使っていた手触りの良い手ぬぐい。広がりやすい髪をぎゅっとひとまとめにできる丈夫な髪紐。母の形見だとどこか寂しそうに語っていた筆や文鎮。見聞を広めるために、と一緒に買った読みかけの本。お揃いのお椀。お祝いに貰った夫婦箸。
 ひとつひとつの物に幸せだった当時の記憶がこびりついている。それらが目につくたび、私は思い出に縋って泣いた。それなのに。
 
「あなたが求めるなら、兄上のように振る舞いますから」
 
 千寿郎くんが縋るように私を見る。杏寿郎さんと同じ瞳が私を映している。私を求めている。恐ろしかった。このまま杏寿郎さんが上塗りされてしまいそうで。
 寂しさのあまり受け入れてしまいそうになる自分が情けなくて、心が震える。
 堪えきれず涙が流れると握られていた手を引かれ、気付けば千寿郎くんに抱きしめられていた。
   
「ごめんなさい。あなたが好きなんです」
 
 この背に腕をまわしたらきっと戻れなくなる。そうすれば今宵、彼に抱かれてしまうだろう。私の中の杏寿郎さんは上塗りされてしまう。
 けれど、千寿郎くんは優しいから。思い出の数々を捨ててしまえだなんて言わないだろう。煉獄家に祀られた仏壇に毎朝手を合わせることができるだろう。一人涙に暮れる日々にそっと寄り添ってくれるだろう。私より先に逝くことなく、長く穏やかに生を全うしてくれるだろうーー千寿郎くんを選んだとしたら。

 ばん、と外から大きな音が聞こえた。あまりの大きな音に身体が硬くなる。私はなんてことを考えていたのだろう。杏寿郎さんの妻でもあろうひとが、なんて恐ろしいことを。狡くて卑怯で情けない女。
 千寿郎くんは私から離れると静かに立ち上がり、襖を開けてガラス越しに縁側の雪を眺めた。ばん。大粒の雪が風に乗って音を立ててガラスを打ちつける。
 
「兄上が怒っていらっしゃるのかもしれませんね」 
 
 寂しそうに笑って彼はそっと襖を閉めた。この吹雪のなか、彼を留まらせるか帰らせるかの判断は私に委ねられている。
 ばん。ガラスを叩く音はいつまでも響いていた。
 

2020.12.30 イメージソング  「The hole」King Gnu

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