齢五つとなる名前は、二年前この万世極楽教の寺院へやってきた。「可哀想に。両親に捨てられたんだね」わけもわからず泣きわめく名前を優しく抱き上げ涙を流した童磨の瞳の色を彼女は今でも覚えている。
 
 質素倹約とはかけ離れた綺羅びやかな屋敷のなかで童磨が蓮の葉が描かれた扇の下でけらけらと笑う。
 名前は風変わりな子守唄を歌う母親に抱かれた赤子を撫でた。大きな瞳が名前を映す。赤子はだあと声をあげて名前の手を握ろうと柔らかなもみじ手を伸ばす。
 
「かわいいねえ! 教祖様見て! わたしのおててにぎってる!」
「こらこら名前。せっかく琴葉が寝かせようとしているのに」
「いいんです。ほら、名前。伊之助の頭を撫でてあげて」
「毛がある! ふわふわ! かわいい!」
 
 幼子二人と男と女。まるで美しい家族のような光景だが、彼らの関係はそうではない。
 伊之助と呼ばれた赤子を抱く女は名を琴葉という。彼女が度重なる夫の暴力から命からがら逃げ出し、童磨を教祖に置く極楽教の寺院にたどり着いたのはつい数週間前のことだった。
 未だ額や頬に残る痛々しい青痣は幼い名前の目には刺激が強く、彼女はそれに意識が向くたびに琴葉の傷あとを撫でた。
 
「琴葉もよしよししてあげる」
「ありがとうねえ」
「おめめ、痛くない?」
「うん。もう大丈夫! 痛くないよ」
  
 視力を失った琴葉の目を気遣う名前に、琴葉は朗らかに笑って伊之助ともども抱きしめる。名前は嬉しそうに小さな身体で力いっぱい抱きしめ返した。
 名前は琴葉が大好きだった。両親と早くに別れた名前は無意識ながら琴葉に母を求めた。琴葉もまた、彼女の期待に応えようとしていた。
 
「ずいぶん仲良くなったねえ」
 
 虹色の瞳が薄っすらと細まる。童磨が扇で口元を隠す前に、名前は彼に抱きついた。
 
「教祖様もぎゅー!」
「おっと、可愛いことをしてくれるね」
「名前教祖様も大好き!」
  
 この穏やかな日々が幼い名前にとっての幸せだった。
 
 しかし、名前の幸せは長く続かなかった。ある日を境に琴葉と伊之助が姿を消したのだ。
 最初の数日はかくれんぼをしているのか、どこか遊びに行ったのか、はたまた元の家に戻ってしまったのか、と周りにいる信者に聞き回る名前だったが、日を重ねるごとに琴葉たちのことを口に出さなくなった。
 
「名前、おいで。今日は暇なんだ。お話でも読んであげるよ」
 
 名前は童磨にだけは琴葉達の行方を聞こうとしなかった。なぜと問われても名前には答えられない。なせだかわからないがそれが生き残る術だと、彼女の本能がそう訴えていたからに他ならないからだ。
 童磨の膝の上で架空の鬼の話を聞きながら名前は目にしたことのない鬼を想像し、その恐ろしさに身を縮めるのであった。
 
 いつしかときは経ち、琴葉や伊之助は名前の薄れゆく記憶の一部となっていた。遠い過去の、小さな幸せは思い出として振り返ることもないままだった。
 
「名前。いつの間にこんなに大きくなったんだい?」
 
 名前は十六を迎えた。近頃、童磨は名前の頬や腕の肉を摘んでは可笑しそうに首を傾げてはそう言う。
 近頃の童磨からは香とは違う別の臭いが混じっている。魚を捌いたあとのような独特の腐臭に近い。
 名前がすん、と鼻を鳴らす前にその長く鋭い爪の先が名前の皮膚に刺さるとぷつりと血が滲む。名前はわずかに眉を顰めた。

「ああごめんよ、痛かったかい」
「いえ、平気です」
「それは良かった」
 
 爪の先についた血を舐めとる仕草がいやに扇情的で名前は目を逸らした。童磨は名前のその様子を見て笑い、いつものように扇で口元を隠した。
  
「それにしても月日が経つのはあっというまだなあ。ついこないだまで俺の膝に乗せてやっていたんだぜ」
「はい。日頃から教祖様に良くしてもらったお陰でここまで大きく育つことができました」
「俺がひとたび瞬きをすれば今度は老婆にでもなってしまうかもしれないね」
「……老婆、ですか?私のほうが教祖様より若いはずですが」 
「そういえばそうだったね! 俺のほうがうんとうーんと年上だ」
 
 彼の声色から意図を汲むことは難しい。扇の下の唇がどのように描かれているのか名前は気になったが、幼き頃のように扇の動きを止めるような礼儀知らずをするわけにはいかない。
 
 うんと年上、と彼は言ったが童磨は一体いくつなのだろうか。名前は今まで考えたこともなかった。なにせ彼の顔立ちは若く、昔から変わらない。今では名前と年の差を感じないほどに。
 名前が童磨の言葉の意味に考えを巡らせていると、彼はふいに一つにまとめた名前の髪を解くと指の腹で舐めるかのような動きで梳いた。色香を漂わせたその動きに、名前は戸惑いびくりと身体を震わせる。
 妖美な笑みを浮かべた童磨は名前の髪を引き寄せるとそっと唇を落とした。
 
「しかし老婆になるまで置いておくのも勿体ない話だ」
 
 童磨が自身の唇を舐めた際、隙間から犬歯が覗いて見えた。牙のように長く、まるでーーおとぎ話の鬼のよう。
 今まではなんとも思わなかった名前だが、今日ばかりはなぜだか末恐ろしいような気になった。そんなふうに思うだなんて不敬だ、とわかっているのに名前の身体の芯はじわじわと冷えていく。
 
 名前は十六となった。童磨が口にしたように女として機能する身体となり、言葉の使い方も礼儀も弁えるほどの成長を遂げた。
 しかし、目の前にいる童磨はどうだ。名前と出会った頃と変わらない。皺一つない青年の姿のまま。
 先程の考えの答えにたったいま、辿り着いてしまった。
 
「これからどうしてやろうか悩みどころだなあ」

 言葉の意味を知ることを拒むように名前はぎこちなく笑みを作った。

 
 
 近頃、何人もの信者が夜半に目撃されたのを最後に突然姿を消していた。どれも若い女ばかりで、駆け落ちでもしたのだろうと重役たちは苦々しく顔を歪めていた。
 「お前は逃げてくれるなよ」と重役の爺が名前に釘を刺すと、別の重役が笑い飛ばす。
 
「こやつめはそんなことせんでしょう。なにせわしらよりも信仰が長い! 信心深い子ですぞ」

 両親に捨てられ、万世極楽教の寺院へやってきてからはや十数年。その信仰深さと年数の長さから彼女は重役と肩を並べる地位にいた。
 名前の世界はこの狭い寺院のみで成り立っている。童磨を中心とした、彼がすべて正しい世界。
 しかし、それは崩れようとしていた。名前のなかで、この夜逃げ騒動についてある一つの仮説が生まれているのだ。
 歳をとらないいつまでも美しい教祖。信者たちはその怪奇に気付かない。考えてみれば彼らのなかで名前より信仰が長いものがいない。みな、十年も経たずして姿を消している。
 近づく度に鼻につく臭いは女性となった証である月のものとよく似た臭いだった。
 いつしかの母子が頭の隅をよぎった。
 
 
 
「教祖様。名前です」
「どうぞどうぞ、入っておくれ」
 
 軽い調子の返答に名前は見えていないとわかりながら襖の前で失礼しますと頭を下げた。
 襖を開いた瞬間、思わず息を止めた。むっと漂う生臭さとそれを隠すように焚かれた濃い香の匂いが鼻にまとわりつく。鼻を抑えたいところを必死で堪え、生唾を飲み込む。
 
「どうしたんだい。ほら、こっちまでおいでよ」
 
 どこかおかしそうに笑う童磨は自身の直前を扇で指した。名前は再び頭を下げて指定された位置に端座した。

「それで? なにかあったの?」  
「……昨晩また一人、姿を眩ませました」
「可哀想に。きっと止むにやまれない理由があったんだよ。でも心配ないさ。俺は慈悲深いからね。その子も極楽へいけるよう願っておくよ」
 
 名前の位置からは童磨の座椅子の下がよく見えた。呼吸が止まる。座椅子の下から細い指が覗いているのだ。
 
「うん? どうしたのかなあ」
 
 美しい七色の瞳が薄っすらと細められる。名前は身体中から汗が吹き出し冷え切っていくのを感じながら、なんとか取り繕うと必死で首を降る。
 
「いえ!何もっ!きょ、教祖様の慈悲深さに感動したあまり、こっ言葉が、上手く出て、こず……」
 
 名前の身体は震えていた。止めようとして固く握りこぶしを作っても止まらぬ震え。
 それを童磨は満足そうに眺めていた。
 
「可愛いねえ」
 
 にんまりと弧を描く唇を今夜は隠そうとしない。
 
「実のところ、そろそろ君を頂こうと思っていたんだ。近頃はそんなことばっかり考えていたから昂ぶってしまってさあ、ついつまみ食いをしてしまったよ」
「な、なにを仰られているのか、わっわたしには、さっぱり」

 童磨は唇を噛んで笑いをこらえた。
 
「えーわかんないの? 本当に? 名前にわかるよう色々散りばめておいたのに?」
 
 名前はひっと短い悲鳴をあげた。自分の位置までするりと降りてきた童磨が、座椅子の下から覗いていた指を引っ張り出したのだ。童磨はそれを玩具のように動かし、名前の頬をなぞった。
 この間、童磨の爪によって傷付けられかさぶたとなっていた箇所をその指で器用に剥がしていく。名前は恐怖のあまり、今度は悲鳴すら出せなかった。
 
「ほら、これがさっき報告を受けた娘。俺が食べてあげたんだから救われたよね」
 
 ちゃんと残さず食べてあげなきゃね、と言うと童磨は指を口に放り投げた。骨を砕く音が部屋中に響き渡る。
 名前は立ち上がって逃げなければならないとわかっているのに、恐怖で腰の抜けた身体が言うことを聞かない。
 
「大丈夫。老婆になる前に鬼にしてやるからね。ありもしない極楽なんかにくれてやらないさ」
 
 喰われてしまう。名前がそう思ったとき、唇はすでに塞がれていた。
 生臭い鉄の味に吐き気を覚えながら次にくる恐怖に身を縮めることしか名前にできることはなかった。
 
 
2020.12.29

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