朝焼けを拝めたことに安堵した。まるで私を迎えにきてくれたかのように光り輝いている。
どくどくと音を立て、体中を巡る拍動。生きている。私はまだ生きている。
深く暗い森の中を縫うようにして差し込んできた朝陽が張り詰めた緊張を解す。背後に並び立つ木々の一つに力の抜けきった身体を預けた。先程まで何が何でも離すまいと掴んでいた刀は役目を終えたとでも言うように震える指先からカランと音を立てて落ちる。
ああ喉が渇いた。気休めに唾を飲み込むが、潤うには程遠い。
たった一晩で人はここまで渇きを感じるのか。なんて疑問の答えはじわじわと色を変える隊服が教えてくれた。左脇腹の肉が抉れるほどの咬傷。軽症ではないが今すぐに死に直結するわけではないはずだ。呼吸で止血することができれば。そう理解しているものの、痛みが呼吸の邪魔をする。
しっかりしろ、名前。己を鼓舞し、耐え難い痛みを伴いつつ、呼吸を整える。ぐう、と喉の奥で唸った。止血と言うには物足りないが先刻よりも幾分かましだ。
耳元に鴉が一羽、降り立つ。カァ。気遣うように鳴いた鴉に「がぁ」と返した潰れた蛙のようなしゃがれ声のなんと情けないことか。
「ねえ、おまえ。誰か、ひとを呼んできて」
カァ。返事をするかのようにまた一声鳴いて鴉は飛び立つ。賢い子だ、と名前も知らない相棒を見送った。
その視線を正面に向き直すと、乾きで飢えているはずの瞳が水分で満ちていく。ああ、なんて酷い。私を闇夜から救い出してくれた朝日が映し出す景色の、なんと凄惨なことか。
地面に色濃く残る血の痕。その身を高く放り投げられたのだろう、ひしゃげた体。獣がじゃれつくかのように咬み千切られ、頭を半分なくした体。四肢をもがれ達磨となってしまった体。見るも無残な死体があちらこちらに散らばっている。
彼らは最期まで剣を振るい、一番鬼の頸を切れる可能性があった私を生かすための盾となった。この世から鬼を殲滅して欲しい、という想いのすべてを託して。
痺れる掌で隊服の上から傷口に触れる。呼吸が乱れ、痛みが戻ってくる。仲間たちの血に濡れた身体が重い。
生きている。私は生きている。
私だけ、生き残ってしまった。
息を吸うことさえままならない。ひゅうひゅうと頼りない呼吸音が狭まった喉を通る。歪む視界。不十分だった止血がその意味をなさなくなる。急激に冷えていく体は身の毛が粟立つ感覚を覚えようとしていた。
「呼吸が乱れている。もっと精度を上げろ」
霞みゆく景色に色を戻したのは溌剌とした声だった。私はこの声を知っている。
れんごく。数少ない同期の名をうまく動かない唇がなんとか象る。ぎょろりとした目が私をその瞳で食らうかのように見ていた。
「集中」
額に乗った太い指先に従うがまま呼吸を整える。もう一度左脇腹に意識を集中させ、ありったけの力を込める。先刻までとは比じゃない痛みに唸り声すら出ず、ただただこの痛みをどうにかしようと歯を食いしばる。
煉獄はそのさまを片時も逸らさずに見ていた。
「うむ!止血できたようだな!」
どれくらいそうしていたのだろう。鷹の目が細められて、私はようやく力を抜くことができた。かと思えば、「呼吸を怠るな。今の状態は気を抜いても良いとはいえないぞ」ともっともな声が私を再び集中状態へと戻した。
それでいいと頷くと、煉獄は躊躇することなく私の帯革を緩め、服を捲くりあげた。懐から取り出された白布により、慣れた手付きで隠されていく傷跡。大人とは言い切れない、それでも私より大きな掌は白布を巻き終えるときゅっと強く結び目を作った。
煉獄も私も隊士になってまだ日は浅い。だというのにこうも処置が手慣れているのは彼が炎柱の息子ゆえだろうか。それとも、それほどに人を助けてきたからだろうか。きっとそのどちらも正しい答えなのだろう。
「君の鴉がここまで導いてくれた。
……生き残ったのは君一人か」
聞かずともわかっているでしょう。そう思いながらも少しだけ首を傾けた。身体が思うように動かない。「鬼は」続けてきた問いかけにまた頷く。
私は鬼の頸を斬った。皆の意志を受け継ぎ、たった一匹の鬼を倒した。多くの隊士の命を犠牲にして。
「そうか」
「……ん」
しゃがれ声とともに、涙が頬を伝う。
煉獄は近くで任務にあたっていたという。隊士になったばかりの彼は単独で任務をこなせるほどに強い。
私じゃなくてこの人が来ていたら。もしかしたら誰も死なずに済んだのかもしれない。そう思ってしまう。
煉獄が止めどなく流れ始めた涙を指の腹で拭う。私の涙の理由を知ってか知らずか、上り調子な眉を少し下げ、わずかに笑った。わけもなく泣き喚く幼子を安心させるかのように。
「ひとりでよく耐え抜いた」
そう言って私を抱きしめた彼の腕の中で思ったのだ。
遅かれ早かれ、私はこの人より先に死ぬのだろう、と。
一体私はどこにいるのだろう。まどろむ視界に映る見知らぬ天井。
「いっ……!」
不思議に思いながら起き上がろうとすれば腹部に激痛が走って私の身体は布団に逆戻りした。そうだ、私は鬼との戦いで怪我を負ったのだ。そして煉獄に助けられた。おそらく彼がここまで連れてきてくれたのだろう。
ふと手を伸ばすと、着慣れぬ白い服を纏っていたことに気付く。今寝ている布団だって床より随分と高い。ベッドというやつだ。さしずめ、ここは花柱が隊士たちの治療を行っている蝶屋敷というところか。
「起きたか」
声の主へと頭だけ動かした。
「れんごく」
喉の奥がひっつき合っているかのように声が出にくい。私はあのとき以来、水一滴すら口にしていないのだ。
彼は名前を呼ばれたことにああ、と言って頷くと表情を和らげた。
「無理に動けば傷が開く。しばらく安静に、とのことだ」
「しばらく」
「ひと月もすれば良くなる!大丈夫だ」
感情を乗せたつもりもない、ただのオウム返しのような一言だったのに、煉獄は私が打ちひしがれていると思ったのだろう。彼は明るい笑顔を浮かべてみせると、そっと私の髪を撫でた。髪の間を指が通っていくのが心地よい。まるでこの人の妹にでもなった気分になり、目を閉じる。
まぶたの裏に映るのは、鬼に殺された兄の幻想。だからか、つい気が緩んでしまった。
「ねえ、れんごく」
「なんだ、どうした?」
自分でも戸惑うような甘えた声。だというのに、煉獄は動じることなく優しく受け止める。
「みず、ちょうだい」
棚に置かれた吸いのみに視線をやれば、彼はわかったと頷いてそれを取った。口元まで運ばれたそれにそっと唇を開く。ゆっくりと注ぎ込まれる水を今か今かと待ち望んでいた身体がごくりごくりと音を立てて飲下す。口内を潤し、喉を下って身体中に行き渡ったころでようやく口を離した。
大きく息をついてから煉獄に礼を言うと、彼は大きな瞳を細め、穏やかに笑った。その表情に、一瞬息が止まる。兄はこんな顔を私に向けたことはない。
まるで幼子に戻ったようだな、と口の端に垂れた水だか涎だかわからないものを彼はその指で拭った。
△
自分は案外悪運が強いほうなのだと気付いたのは、入隊から半年ほど経ってからだった。
数少ない同期はただ一人を残して志半ばにこの世を去っていった。彼らのように死は何度も私を迎えに来たが、その手をとったことは一度もない。身体中痛みに苦しみながらも朝まで耐え抜く。そんな日々を重ねるごとに階級も上がる。私は着実に強くなろうとしていた。
今日もまた、生き延びた。
戦いを終え、鉛のように重たくなった身体を休めるために訪れた藤の花の家紋の家についたのは夜が明けてすぐだった。風呂から上がると用意されていた清潔な浴衣に袖を通す。いつもながら彼らの献身には頭が上がらない。
「朝食はどうされますか」
羽織を肩にかけるころ、扉の向こうから屋敷の女主人に声をかけられた。風呂の準備が整うまでの間交わした世間話では、彼女には学校に通う子どもがいるとのことだった。母親の朝はさぞ忙しいのだろう。藤の花の家紋の家の方たちにはいつも良くしてもらっているのだから、負担にならないようにしなければ。
「……あまりお腹が減ってなくて。起きてから、昼食を兼ねて頂いてもよろしいですか?」
「わかりました。ではごゆっくりお休みください」
彼女に気遣ったのも事実だが、腹が減っていないのもまた事実だった。
部屋へ戻ろうと縁側を歩いていたが、手入れの行き届いた庭をただ通り過ぎるのも勿体なく、火照った身体を冷やすことにした。
縁側に腰掛け、早朝のツンとした冷えた空気とあたたかな陽の光の調和に絆され、目を細めた。うららかな春の陽気というにはまだ朝早いが、疲れていたこともあってか眠りへと誘われてしまいそうだ。
落ちていこうとする瞼を受け入れようとしたとき。
「苗字!」
落とされた轟に眠気が一目散に逃げ出す。声の主にはしっかりと覚えがある。
「……煉獄」
「久しぶりだな。元気そうでなにより!」
「まあ、その……おかげさまで」
私と揃いの浴衣に羽織を着た煉獄も風呂を済ましたあとらしい。湯上がり後の爽やかな香りを漂わせて私の隣へ腰を下ろした。まだ太陽は真上まで登っていないというのに、何度か気温が上がったような気がする。笑顔が眩しい。
「人伝に君が随分階級を上げていると聞いた。頑張っているようだな! 感心感心!」
煉獄と顔を合わせるのは蝶屋敷で別れて以来だ。その時の出来事がどうにも私の心をざわつかせた。
思わず唇に手をやる。あれに他意はない。彼だって言っていたじゃないか、幼子に戻ったようだ、と。だというのに、繰り返し夢を見る。大人びた顔で笑う、彼の指の感触を思い出そうとするかのように。なんてはしたないのだろう。本人を前にしてしまったら、なお鮮明に思い出してしまう。きっと今日の夢にも出るに違いない。
そんな複雑な心境など露知らず、煉獄は適当に相槌を打つ私にお構いなく話を続ける。歳の離れた弟が自慢だとか、歌舞伎を観に行っただとか、うまい芋の産地だとか、どこその桜が見頃だとか。その饒舌っぷりに今日は特別気分がいいのかと空返事をしながらぼんやりと思った。
「朝飯はもう済んだのか?」
「ううん。お腹空いてないから遠慮したの」
「どこか傷が痛むのか?」
え、と声を出す間もなく、何を勘違いしたのか煉獄は私の顔を覗き込んだ。大きな丸い瞳と目が合う。夢など見なくとも、あの日の場面が瞬時に頭の中で流れ出す。
身体が熱を帯び始める。恥ずかしい、情けない。感情がまぜこぜになる。あ、う、と言葉にならない声がいくつか零れ出て、咄嗟に手で口元を隠す。
鷹の目が、私の言葉を待っている。何を言えばいいのだろう!
「父上、母上、行ってまいります!」
突如、屋敷の入り口から聞こえてきた幼い声にはっとする。どうやらこの屋敷の子どもが尋常小学校に向かう時間のようだった。
それが合図とでもいうように、煉獄は素早く立ち上がった。
「よもや! もうこんな時間か。早く寝なくては夜に備えられんな。俺は先に失礼する! 苗字も早く寝て怪我を治せ!」
「わ、わかった!」
その勢いに釣られ、私も慌てて立ち上がる。たいした怪我などしていない、と訂正する隙はなさそうだ。
互いに別れを告げる。なんだかどっと疲れた。言われたとおり部屋へ戻って早く寝るとしよう。
煉獄とは部屋が逆方向にあるようで背を向けて歩き出すと、「苗字!」後ろから私を呼びかける声が聞こえ振り向いた。
「今からだと起きるのは昼時だろうか!」
「たっ、たぶん、そのくらい!」
そう離れていないのに大きな声に驚いたせいか、私の声もつい大きくなってしまった。
「そうか! ならば共に食事をしよう。主人には俺から伝えておく!」
「う、うん!」
「ではまた後ほど会おう! 良い夢を!」
おやすみ、と伝えると彼は見た目に反して優しく微笑むものだから心のうちが僅かに震えるのを感じた。
凄まじい食べっぷりを見て別の意味で震えることとなるのはこの数時間後の話である。
△
鬼殺隊士とて、所詮消耗していく心や体を持つやわな人間だ。悪鬼滅殺を胸に志高くもつこともあれば、どうしようもない現実に打ちひしがれるときもある。
藤の花の家紋の家はどこに行っても美しく庭を整えている。いつもならばこの縁側から広がる景色に癒やされるが、今日はまともに景色を見れちゃいない。
風呂に入る気力すら起こらず、泥のついた服のまま抱え込んだ膝の上に額を押し付つける。心が軋み、じわりと滲み出る。
「やるせない」
今宵、山に迷い込んだ子どもたちと探しに来た親が鬼の餌食となった。救援要請を受けて駆けつけたときには既に遅く。なんとか助けることのできたのは母親ただ一人だけ。
「どうしてもっと早くきてくれなかったの!どうしてっ……!」
子を亡くしたばかりの母親は半狂乱になって我が子の血に濡れた手を煉獄に向かって振り上げた。
あの子がいない人生を生きたって意味がない。助けてくれなくてよかった。あそこで死なせてくれたらよかった。
事後処理に来た隠が引き離すまで彼女は何度も何度もその手で煉獄を殴り、責め詰った。鬼の頸を切ったのも彼女を助けたのも彼だったというのに。
避けることも止めることもできただろうに何もせずに彼女の悲しみを受け入れている煉獄に、私はその様子をただ呆然と見ているしかできなかった。
思い出しただけで溢れだす熱い涙を抱えた膝に擦りつけて隠す。
「君が気に病むことはない」
合わせた背中の向こうからかけられた声が優しくて、切ない。煉獄が一番傷ついているはずなのに。
「煉獄は悲しくないの」
「悲しんでいても時は止まってくれないだろう。時間は有限だ。立ち止まっている暇はない」
「そんなの……強がりだ」
「そうかもしれないな」
煉獄の言うことは正しい。強くあろうとするその志は気高くて、真似なんて到底できない。だけど、正しさばかりで生きていけない。
「私はずっと前ばかり向いてられない」
私は弱く、脆い人間だから。それは煉獄だってそうだ。背中に感じる温もりだって私と同じ。
傷付いた煉獄の心は誰が慰めてくれるのだろう。
「君の生き方を否定するつもりはない。苗字が泣きたいなら泣けばいい。気が済むまで付き合おう」
「じゃあ今日だけは……一緒に悲しんで」
じわ、とまた私の心が滲み出る。喉の奥がつっかえ、咳のように情けない泣き声が漏れ出て肩を揺らす。
ふいに、背中の温もりが離れ、優しく撫でる手に代わる。それがどうしようもなく苦しくて、腹立たしい。
泣きたいのは私だけじゃないのに。
「れんごく」
振り返ると眉を下げた煉獄と目があった。優しい瞳。思わず手を伸ばす。長い睫毛に沿うように指を滑らせた。指の腹が僅かに湿った。
「一緒に泣こうよ」
大きな瞳が一回り大きくなった。息が詰まる音。煉獄は私の手をとると、何かを確かめるように頬を擦り寄せ目を伏せた。
「……ではひとつ、情けないことを言っていいか」
「……ひとつでもふたつでも」
掌に僅かな振動。ふ、と煉獄は笑った。
「実のところ、今回ばかりは少し、堪えた」
俺の代わりに君が泣いてくれ。そう言って背中に回った両腕にすがりついて私はまた涙を流した。
△
鬼が出ると派遣されたものの、実際は熊だった、人の仕業だった、ということはそう少なくない。
昨晩もそうであった。熊の仕業だったようだが肝心の熊は到着した時には既に討たれたあとだった。地元のマタギ達は「なんか黒い服着た集まりが置いてったんだ」と不思議そうに首を傾げながら息絶えた熊を捌いていた。
用無しになってしまった私は藤の花の家紋の家で一晩を過ごした。
「見てください。こんなリボンがありますよ。都会ですねえ」
「あら、田舎の出なの? 東京ではこんな大きなリボンをつけたモガばかりよ」
「ええ、そうなんです。東京には任務でしか行かないですし、昼間歩くこともあまりなくって。でも、言われてみればハイカラな装いだった気がします」
別の任務に当たっていた先輩隊士と意気投合し、次の任務が下されるまで散策しようと街へと繰り出したのが先刻。
普段立ち寄らない小物屋には和と洋が混ざりあったなんとも可愛らしい飾り物がずらりと並んでいた。ひとつひとつ手に取るごとに女心を擽らんとする装飾に感心する。
どれもこれも愛らしいなか、棚の隅でひっそりと置かれた簪が目についた。淡い黄赤の飾り玉がついた淡白な造りのそれは他のものとは随分と見劣りした。
それなのになぜ気になるのだろう。手にとって光に透かしてみる。そうすると、ただ淡いだけの色合いのなかに炎を灯したようにゆらりとした赤が見えた。
卓上に置かれた鏡の前で自分の髪に合わせてみようとしたけれど、手が止まる。鏡に写った真っ黒な隊服には到底似合いそうにない。
「そんなに気になるならつけてみればいいじゃない」
「いいんです。これは……私には勿体ない」
「そんなに高いかしら?」
棚に戻した簪を見て、先輩は不思議だとばかりに首を傾げていた。
それからいくつか店を見て回ればいつの間にか昼時となっていた。どこかで昼食を、と言い出した頃に先輩の鎹烏が伝令を告げた。先輩と別れ一人になった私は腹の虫と相談した結果、適当な店に入ることにした。
「うまい! 大将! 同じものをあと三人前いただきたい!」
「へ、へい!」
店の外にまで聞こえてくる声に驚きながら扉を開けると、年若い男が凄まじい量の皿に囲まれて食事をしていた。それも、自分がよく知った人物が。
「……煉獄」
「む!」
こちらに気づいた煉獄は口の中のものを飲み込んでからぱっと顔を輝かせた。
「苗字か! 奇遇だな!」
「久しぶり。元気そうだね」
「苗字も元気そうだな!」
「お連れの方ですか?お隣へどうぞ」
女将さんに促されるまま空いていた隣の席に腰掛けた。
運ばれたお茶を啜りながら、壁にかけられた品書きに目を配らせる。さて、何を食べようか。悩んでいるといつの間にかお椀を空にした煉獄が楽しそうに笑った。
「ここは親子丼がうまい。俺はもう七人前平らげてしまった! 悩むなら親子丼にするといい!」
彼の大食漢ぶりに最初こそ驚いたが、今はもう慣れっこだ。
「うーん。煉獄のおすすめならそうしようかな」
「うむ。大将! 連れにも親子丼をひとつ!」
わざわざ声を張上げなくてもそのうち女将さんが聞きに来てくれるのに、と思ったが煉獄にとっては普通のことなのだろう。厨房の奥で慌てたように返事をする大将の煉獄の対比がおかしくて笑ってしまった。
「どうした?」
「ううん、なんでもない。そういえば煉獄はなんでここにいるの? 任務?」
「任務のはずだったのだが……どうやら熊の仕業だったみたいでな。早々に熊を討って引き揚げたところだ」
「……もしかしてそこの山で出た熊?」
「ああ、大きな熊だった! 人里に降りてこなければ討つこともなかったが人死にがかかっているとあれば仕方あるまい」
なるほど。昨晩の熊は煉獄の手によって討たれていたらしい。マタギが不思議がっていたことを話すと煉獄は大きな瞳を瞬かせて、快活に笑った。
「そうだったのか! 隠に後処理を頼んだら動物は畑違いらしくてな。猟師さんが近くにいたようなので頼んだと言っていた!」
「なるほどね。私としては仕事せずに済んで楽で良かったけど」
「そうか! 俺のしたことが君の休息に繋がったのなら良かった」
「そのお陰で街を散策する余裕もできたしね」
「散策か! このあたりは開けていて気晴らしに丁度いいしな! ひとりでか?」
「ううん。藤の家で過ごした人と一緒だったよ」
「……そうか!」
「おまちどうさん! 親子丼四人前です!」
ちょうど会話の切れ目で親子丼が運ばれてきた。
湯気立つ親子丼は卵と出汁がふんわりと香り、食欲をそそる。いただきます、と手を合わせ食べると優しい味が広がった。付け合せの味噌汁に口を付けようと手を伸ばしたとき、隣が静かなことに気づいた。
「どうしたの?」
先刻までの元気の良さはどこへ行ったのか。既に七人前を平らげているのだ。腹が膨れたのかと思ったが煉獄の箸が止まる様子はなく、黙々と食を進めている。どうしたのだろう。
彼は丼一人前を平らげたあとお茶を飲むとこちらを見た。
「一緒にいた隊士は男か」
珍しく難しそうに眉を寄せていたから何事かと思えば、そんなことを言う。否定すると眉根の皺がぱっと消えた。
「女か!」
「え?うん」
「それを聞いて安心した!」
「は……」
なんだか今、とんでもないことを言われた気がする。言葉の意味を深読みしてしまったせいで食を進める手が止まる。先刻買うか悩んだ簪の色を思い出して妙な気持ちになる。
とうの男はうまい!うまい!と次々に食器を重ね、更に追加を頼んでいた。
「さっきより飯がうまく感じる!」
朗らかに笑う姿を横目に私はそっと息を吐いた。
2020.12.21 少年煉獄
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