休憩室のテーブルに広げた書類を見てキミーちゃんはその大きな瞳を瞬かせた。「雇用、契約書……かっこ、正社員用?」そのうちの一枚を読み上げ、さらに瞼を一段階持ち上げる。今日も睫毛のカールは絶好調だ。

「名前先輩、社員なるんですかあ?」
「まだ確定じゃないけど……どう?って言われた」
「すごーい!おめでとうございまあす」

 パチパチーとゆるい効果音を自分の口で発しながらキミーちゃんはその長い爪がついた手を叩いた。二週毎に変わる彼女のネイル。先週末に新たに施したばかりというくすんだピンクとネイビーのキャンパスに散りばめられたパール。彼女曰く、「ちょー控えめ」な爪先は一足先に秋を彩っている。

「仕事は今まで通りみたいだし、あんまりすごくないよ」
「でもなんか社員って肩書がいいじゃないですかあ」
「キミーちゃんも手挙げたらなれると思うけど」
「んー。あたしは彼氏の転勤とかについていきたいから仕事に縛られるのはいやですねえ」

 彼女はそう言って試作品としてテーブルの端に置かれているべとっとしたソースがかけられたチキンに爪楊枝を刺してぱくりと食べた。「これ、絶対売れないと思うー」と辛辣な評価を下すと、もう一つにも爪楊枝を刺して私の口に放り込む。噛みごたえのない鳥の皮の感触とヨーグルトのような酸味が口内に敷地を増やしていく。

「うぇっ……確かに微妙かも」
「でしょお? あたし尽くしたいタイプなんでえ」
「あ、そっちの話?」

 なんとか咀嚼し終えて胃の中へと滑り落とした肉の味を評していたのは私だけだったようだ。ここに来る前に買っていたアップルジュースで舌の上に残っているべっとりとした酸味のあるソースを飲み流す。
 キミーちゃんはあのときの彼とまだ続いていて、たまに喧嘩もしているけれどこうやって惚気話をする日も多い。そうして彼女たちの絆が深まっていくのを感じるたび、これがキミーちゃんが言っていた秋に始まった本気の恋ってやつだったのだろうなと思う。
 
「……キミーちゃんってさ、なんで彼のこと好きになったの?」

 好きだとか、恋だとか。私の中心で燻り始めたものは本当にそれだと決めきっていいのだろうか。だってこの瞬間好きになったとか、そんなきっかけなんて何にもないのに。
 ポーチから化粧道具を取り出そうとしていたキミーちゃんはうーん、と可愛らしく首を傾けた。

「そおですねえ……先輩、あたしの名前知ってます?」
「え、キミーちゃん……だよね?」
「もおー!キンバリーですよお」
「……まじ?」
「まじですよお。キミーはニックネーム!」
「……ごめん初耳」

 一年ともに働いていたのに知らなかった事実。居心地悪さを誤魔化すようにアップルジュースに口をつけた。「ま、よく言われるんで気にしてないですけどねえ」のんびりとした口調でグロスを滑らせるキミーちゃんもとい、キンバリーちゃん。言葉通り、気にした様子はなさそうでほっとする。

「でもね、彼は私のことキミーじゃなくてキンバリーて呼んでくれてえ、この人だけ違うなって」

 ここがかっこいいとか。こんな一面に惚れたとか、そんなんじゃなくて。

「気付いたら好きになってたんですよねえ」

 ぷっくりとした唇を輝かせる秋の新色はキミーちゃんによく似合っていた。



 仕事終わり、夜の色を塗り始めた街を通り抜け、私の足は知らぬ間にドラッグストアへ向かっていた。手にとって確かめるのは、秋の新色リップ。何種類もあるうちの一つを手にとって、反対側の手の甲に滑らせ発色を確かめる。
 商品ごとに貼られたポスターに映る女優の唇は美しく煌めいている。でも、キミーちゃんの唇はポスターの女優なんかよりももっと艶やかに彩られていた。それは彼女が恋をしているからなのだろうか。
 そして同じような色を求める私も、また。

 ふとした、なにも考えていない空白の瞬間。私の心は夏の余韻を味わおうとする。ちがう、夏だけじゃない。何度も何度も繰り返し思い返す。今までのクラピカとの出来事を。
 好きになるのにきっかけなんていらない。キミーちゃんの言うことはきっと正しい。
 今なら私の過去を憧れの一言で流した友人の言葉もわかる。近づくたび、触れるたび、そこからじわじわと私が塗り替えられる――だなんて、今までなかった、知らなかった感覚。変わっていくことは怖いけれど嫌じゃない。ふわふわと宙に浮いた季節外れのしゃぼん玉が体の中に敷き詰まってはぱちんと可愛らしく弾けて、また満たされて。そんな不思議な感覚。
 秋の新色リップは私の唇にうまく馴染んでくれるだろうか。

「ありがとうございましたー」

 手元で揺れるビニール袋。結局買ってしまった。
 浮かれていると自分でも思う。妙に気持ちが弾んで、そわそわする。買ったばかりの新色リップとクラピカのことを考えてまた心のうちでしゃぼん玉がふんわりと浮き上がる。
 意図せず、ドラッグストアの出入口脇にある小さな棚に視線がいった。栄養ドリンクや美容液の広告紙や求人情報誌が何種類も並べられている。そういえば「チラシを入れさせていただきますね」と早口な店員が購入したリップとともに袋に入れ込んでいたことを思い出した。半透明の袋を持ち上げて覗いてみる。"秋の新色!輝く瞳へ!"……カラーコンタクトのチラシのようだ。

「名前」
「ひゃあっ!」

 突然かけられた声に思わず声がひっくり返った。バクバクと爆音を鳴らす心臓は、声をかけた人物を象るとさらに大きく音を立てた。出入口を出た通り沿いにクラピカが立っていたのだ。
 こんなタイミング悪く出会うことなんてあるのか。恥ずかしいやら、気まずいやらで目まぐるしく感情が回って渋滞する。

「すまない。驚かすつもりはなかったのだが……もっと早く声をかければ良かったか」
「え、え?いつからここに?ていうか私がお店にいたの知っていたの?」
「ああ。珍しく難しい顔をしていたから声をかけ辛くてな」

 その言い方からしてクラピカもさっきまでお店にいたみたいだ。「難しい顔って……」言い始めてハッと気付く。「やっぱ今のナシ。なんでもない」ビニール袋を後ろ手に隠す。
 パチパチパチッ。心の中で楽しげに浮かんでいたしゃぼん玉が勢いよく弾けていく。私、このリップを選んでいるときどんな顔をしていたのだろう。あまりの恥ずかしさに頬が一瞬で熱をもち始める。見られていただなんて!

「他に寄るところは?」
「……ないよ。クラピカは」
「私もあとは帰るだけだ」
「……わざわざ待ってなくても良かったのに」

 今の言い方は可愛くないよなあ、とか。こんなふて腐れた顔を見られたくないとか。そう思ってしまう時点で私の気持ちは固まっていた。
 だからといって可愛く見られようとするのもむず痒い。隠したままのリップを使う機会なんてない気がする。
 そんな私の気持ちなんて知るわけもなく、クラピカは呆れたとばかりにため息をついた。

「もう夜も遅い。ひとり歩きは感心しないな」

 なにそれ。ずるい。今の言葉、心配してくれたってこととして受け取ってもいいの。むくれていたはずなのに緩んでいく頬。気持ちと表情がうまく一致しない。

「そ、そーいうことなら、べつに……その、ありがと」

 唇を内側に丸め込んだ。またもや可愛くない言い方だけれど仕方ない。このニヤケ顔だけは隠し通さなければ。
 私の微妙な表情にクラピカは何を思ったのか目を瞬いたあと、笑った。どきりと心臓が跳ねる。

「ああ」

 それだけ言うと、クラピカは歩きだした。同じ帰り道なのだから私はその後ろを辿るしかない。まだ隣を歩ける顔に戻せなくて、街灯が作り出したクラピカの影を踏むように歩く。
 私の心という伸縮自在な空のもと、またしゃぼん玉が溢れていく。
 なんだかんだと答えを出すことを避けていたけれど、もう潔く認めるしかない。
 私はクラピカが好きだ。

 自覚したばかりの恋心に待ったをかけるように持っていたリップがガサガサと袋の中で揺れる。半透明のビニールから見えるのはカラーコンタクトのチラシ。
 カラーコンタクトといえば、クラピカが常につけているものだ。緋の眼を隠すために。私と見ている世界が違う。それは物理的な意味だけでなく、もっと抽象的で、だけども明確な意味をもっている。
 そうだ、私とクラピカではなにもかも同じじゃない。視点が違う。抱える重みが違う。
 隠した瞳の奥で燃え続ける復讐心はこの先も消えることはない。クラピカの生きる目的は復讐と仲間の眼を取り戻すことだけなのだから。歩んでいく道が重なるのは今だけ。
 そんな当たり前に転がっていた事実を急に突きつけられた気がした。何をひとりで舞い上がっていたのだろう。さっきまでの柔らかで温かい空気なんてもうどこにもなく、まだ秋というには早いこの時期の風は生温く私にまとわりついて離れない。しゃぼん玉で満たされていたはずの私の心はいつの間にか全て消えて空っぽになっていた。
 踏んで歩いていたクラピカの影が建物の影に隠れる。まるで闇夜に吸い込まれるように。前を歩くクラピカの後ろ姿は霞んでよく見えなかった。
 この恋はきっとうまくいかない。いくはずがない。まだ小さなうちに握りつぶさなきゃ、そう思った。


2020.6.13

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