微睡みのなかで、名前は幼い頃の自分となっていた。父に抱かれ、その肩に頬をのせる。母はそんな二人を柔らかな笑顔で包んでいた。「名前」両親は愛おしそうに彼女の名を呼び、それぞれ頬や頭を撫でる。くすぐったいとばかりに名前は目を細めた。
 視線を感じ、ふと見上げた先には、こちらを眺めているもう一人の自分がいた。その瞬間、名前の視点は幼き日の何も知らない自分から、虚ろな目をしたもう一人の自分へと移る。視点が変われば、幸せな家族が遠く離れて霧になって消えていく。まるで蜃気楼のように。
二度と戻らない日常。
 グッと食いしばった歯はずれて、頬の内側の肉を噛んだ。

 ーーバウバウ!
 朝の六時半。鈍い痛みと血の味が混じった寝起きの口内に吐き気を覚えながら、名前は腹に飛び込んできた犬を払い除けた。
 
「最悪な寝起きだよ。バカ犬」
 
 今日も今日とて、バカ犬はバカ犬だ。名前は頭上に置いたティッシュペーパーを何枚か取ると、その中にツバを吐き出す。透明と赤が混じったそれを見ることもせず、丸めてゴミ箱に捨てた。
 
 初夏を迎えようとぐんぐん気温が上がっていく頃、ノストラードファミリーの新規事業は軌道に乗りはじめていた。それはクラピカのお陰と言って過言ではなかった。当初、若く、冷淡な新しいボスに不満を抱いていた組員は少なくなかったが、こうして彼が成果を上げた今では表立って嫌悪を示すのは名前しかいない。そんな名前相手だからこそ、ファミリー内で巡る彼の噂を知ることになったのは他の誰よりも遅かった。皆、名前の前ではなるべく彼の話題に触れぬようにしていたのだ。
 
「名前さん、若頭の噂ってマジなんすか?」
 
 そして事情を知らず口を滑らせた新入りーー哀れなことに、彼は名前から舌打ちをされ縮み上がってしまったーーにより名前は噂話を手に入れた。
 偶然耳に入った噂話は、"若頭が私欲のためにネオンのコネクションを利用して何かを手に入れている"というものだった。それを聞いたとき、名前はあながち間違えではないだろうと思った。クラピカの事情は知らないが、あのようなタイプの人間は本来こういった裏家業は好まないはずだ。
 ヨークシンでの出来事や陰気な表情、見なくなった民族衣装姿、ネオンのコネクション。"自分"というアイデンティティを捨ててでも手に入れたいもの。
 彼が探し求める"何か"が何を指すのかはわからないが、自身の首を絞めるように垂れ下がる両親の指輪と同じ意味を持つのだろうと名前は推測していた。何かと心配性なセンリツは詳しい事情を知っているのかもしれない。感の鋭いリンセンあたりも、全く何も知らないというわけではないだろう。だからといって、自分も知ろうとは思わない。
 彼女とて、知ろうとして知ったわけではないのだ。さして興味も湧かないその真相を確かめようと動くことはなかった。
 
 汗ばんだシャツを摘み、中に風を送りながら名前は重厚な門を抜けた。耳にかけた髪は水分を吸ってサラサラとは程遠い。初夏だというのにここのところの気温は真夏並みらしい。明日は雨らしいが気温の下がる見通しはないとのことだ。以前なら気にしなかった天気予報を今では毎朝欠かさずチェックしている名前は頭の中に週間天気予報の表を思い浮かべた。暑さで火照った頭が、自分は営業疲れのサラリーマンか何かかもしれないと名前に嘯くが、あながち間違いではない気がした。
 
「お疲れ。どうだった?」
 
 いつまで経っても美人な受付嬢を置かない受付台から気遣いの言葉と水の入ったグラスが渡される。気が利かない美人がここを陣取るくらいならば、頬のコケた冴えないこの男のほうが受付台に相応しいと名前は密かに思っているが、それを彼に伝えたことはない。
 名前は生返事で頷くと、勢いよく水を飲んだ。ごく、ごく、と音を立てて飲み干していく名前に周りにいる見張りたちは、「名前さんマジお疲れっす……」と哀れみに似た表情を浮かべている。この男たちほど"使えない"人間ならば面倒な仕事などせず、見張りだのの楽な仕事につけただろうに。なまじ"使える"タイプであるから自分は損をしていると名前は思っているし、またそれは事実であった。
 一滴残らず飲みきった名前は大きく息を吐くと、眉間にシワを寄せてリンセンを睨みあげる。
 
「あのクソジジイ、もっと安くしろだってさ。あいつの言い値通りにしたらこいつらみたいな奴すら雇えないのに!むかつく!」

 そんなことを思っていたものだから、名前の愚痴には熱が入る。こいつら、と一纏めにされた見張りの男たちは名前の標的にされないために視線をずらした。名前の調子に慣れているリンセンは、「まあ落ち着けよ」と彼女の肩を叩き、水を注ぐ。促されるままにまた水を飲み、名前はまた大きく息を吐いて、湧き上がる苛立ちを吐き出した。
 
「なんかもーやってらんないわ。私、このあと消えるから」
「どういう意味だ?」
「こんだけ頑張ったんだから今日はもういいでしょってこと。あ、センリツには内緒にしててね。あとあの堅物にも!じゃあね」

 後半あたりにはもう名前は受付台に背中を向けていた。言い逃げだ。
 その背を見送るリンセンからは、呆れたようなため息が漏れる。「オレは知らねーからな」と投げやりな言葉に名前は振り返りもせず手を挙げた。「定時には戻るのでよろしくー」
 
 名前がそこに足を踏み入れてしまったのは偶然であった。ノストラードの屋敷で静かに過ごせる場所はあまりない。侍女や見張り、舎弟、最近では経理の事務員。そこかしこに誰かの気配があった。たとえ部屋に誰もいないとしても廊下に響く足音が休息を許さない。ましてや、近くにセンリツがいたとしたら名前の休息という名のサボりはすぐにバレてしまう。仮に見つかったとしてもセンリツのことなら見逃してくれるだろうが、それは彼女が一人だった場合に限る。あいにく、センリツは名前の気に食わない男といることが多い。見つからないに越したことはないのだ。
 誰にも知られず、一人になりたい。その一心で人気の少ない廊下を突き進み、名前は別棟まできていた。やがて辿り着いたのがその部屋だった。
 
 辺りは不思議なほど静かで、冷えている。この辺りだけ冷房をつけているのか。もしそうだとしたら、誰かいるのかもしれない。そんな考えが過ったが、冷えた場所で休めるという誘惑に名前は負けた。
 廊下の端に位置する部屋には、プレートが掛けられていた。「立入禁止?」名前はそれを読み上げ、首をひねった。立入禁止の部屋はいくつかある。ライトやネオンの私室、金目のものや経理関係の部屋、武器庫などがそれにあたる。しかし、それ以外にも立入禁止の部屋があるだなんて。古株であるはずの自分が知らないはずないのに、と。
 ドアには鍵穴があった。ますます不思議だ、と名前は眉を寄せる。一体この中に何があるというのだろう。休まる場所を求めていたはずの名前は、いつのまにか好奇心からドアノブに手を掛けた。
 
「開いてる……」
 
 鍵はかかっていない。今誰かここにいるのか。一体誰が?
 彼女は立入禁止のプレートなど気にも留めずそのままドアを開け、そこに広がる世界に息を呑んだ。
 
 名前は知らなかったが、噂には続きがあったのだ。"若頭が私欲のためにネオンのコネクションを利用して何かを手に入れている。ーーだから、別棟にある立入禁止の部屋には近寄るな"と。
 
 大きくない部屋の中は、いくつかの蝋燭の明かりで照らされていた。橙色に揺れるその光の周辺には色とりどりの花。花はその美しさと共に並べるには不釣り合いなものを飾り付けるかのように置かれていた。名前は台座に並んだそれに見覚えがあった。緋の眼だ。ホルマリン漬けにされた緋色の眼球ーーそれも一つではなく、複数も。
 
 薄気味悪いとも幻想的とも言える不可思議な空間。名前は自分の視界に入るものすべてをその目に焼き付けていた。子を抱く母、ラッパを吹く天使、祈りを捧げる聖母といった小さな石像たち。それらの前に置かれた花と緋の眼。鉄格子の向こうから入る日の光。中央に置かれたアンティーク調の丸椅子。
 そして、不可思議な世界の真ん中に座る男ーークラピカの存在。
 
「ここは立入禁止のはずだが」
 
 彼は振り返ることもせず、冷たく言い放った。覇気のないその声はプレートを無視した名前を咎めていた。彼の口調はまるでここに立っているのが名前だとわかっているようだ。
 名前は何も言わなかった。いつもなら何か嫌味の一つでも返したかもしれない、舌打ちをしたかもしれない。しかし、今は彼女の口から音は出てこない。
 
 ヨークシン以降、いや、それ以前から。彼は自分と同じ表情をしていると名前は思っていた。復讐心を燃やしてこの世界に飛び込んできた、と。
 名前は両親の仇を殺すことだけを目的に生きてきた。それぞれの結婚指輪からしか判断出来ないほど弄ばれた両親の死体を目にしたときから、ずっと。それだけが生きる意味であり、目的であり、彼女にとってのゴールであった。自分の生き方など考えたことがなかったし、考えなくても良かった。しかし、ヨークシンにて名前はその目的を捨てなければならなくなった。自身が復讐を果たす前に、仇はなんらかの理由で見知らぬ誰かに殺されてしまったのだ。
 目的を失ってからというもの、名前は以前にも増して自堕落に生きた。いつ死んでもいいとさえ思ったが、自ら命を絶つほどの覚悟はない。楽に生き、楽に死にたい。そんなぼんやりと生きる彼女を現世に留めようとするかのように、形見の指輪はいつも名前の首にあった。
 自身の手で復讐を果たせずにいる名前にとって運が良かったのは、殺しに手を染めずに済んだこと。彼女の手はまだ血の色を吸っていない。今は、まだ。
 
 名前は自分の掌を見つめる。どれだけ食い入るように見ても、自分の手は変わらない。肌の色、汚れを知らない手。
 彼女は確かめなくては、と思った。同種だと思っている男が、果たして自分とイコールで結ばれているのか。
 
「あんたが嫌い。初めて会ったときから、ずっと」
 
 話の脈絡もなにもない。唇を割って出てきた名前の声は掠れていた。クラピカは名前の独白に近い言葉に返事をすることも頷くこともしないければ、振り向くことさえしない。
 
「スクワラだってあんたのせいで死んだの。あのバカ犬も、エリザのことも全部あんたのせい」
 
 今どんな顔をしているのか気になった。こっちを向け、傷付いてしまえ。クラピカを振り向かせるために吐いた棘のある言葉たちは、名前の本音であり、八つ当たりでもあった。
 あんたのせいだ。噛み締めるようにもう一度口にする。そうすることで、スクワラの形見を渡せないままでいる罪悪感を消せる気がした。すべてクラピカの責任にして、名前は自分を正当化させたかった。ただでさえ底辺を歩む人生、少しでも楽に生きたい。
 
「いつまで黙ってんの。ねえ」
 
 こっち向きなよ。名前はそう言って、クラピカの肩を強く引いた。抵抗もなく、流されるまま振り返った男の表情に息を呑む。彼の表情からは何を考えているか読めなかった。ただ言えることは、名前とは全く違う表情だということ。
 後ろに並ぶどの眼よりも瞳が緋い。双眸はぶれることなく名前を映していた。悲しみを堪えているのか、怒りを孕んでいるのか。名前にはそれすら読めない。
 
 成した者と成さぬ者、人を殺した者とそうでない者。
 
 彼の肩に触れていた名前の手は、知らぬ間に震えていた。その手は肩から離れ彷徨った末に、自身の首から下げた両親の指輪を握りしめた。これ以上首が絞まらぬように。
 
「私、あんたみたいになりたくない」
 
 鉄格子の隙間から漏れた光は影を作っていた。黒い影は伸び、クラピカに重なる。それはまるで、クラピカを逃さないための檻。
 クラピカは自身の瞳をそっと手で覆った。白く骨ばった美しい手。きっとその手は自分とは違う色をしているのだと名前は思う。
 
「私も、私が嫌いだ」
 
 いつもの冷淡さからかけ離れた、か細く小さい声。見える口元だけが、自嘲するかのように笑っていた。
 
 
2019.3.1

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