名前はソファに横になり、くたびれた身体を休ませていた。正午はもう三時間も前に過ぎている。新規事業の顧客確保のために、あちこちに顔を出して頭を下げ、やっとこさ事務所に帰ってきたところなのだ。味わいもせずかきこんだ遅れた昼飯は、何を食べたかもう覚えていない。上瞼は下瞼と今にも一つになりたがっている。

「わたしゃー営業マンじゃねーっつの」

 いじけたように零した愚痴は、能力を使うまでもなく聞こえたのだろう。ソファの裏からくすくす笑い声が飛んできたと思えば、センリツが小さな手に湯気の立った二つのマグカップを持って名前の前に現れた。
 甘いミルクの香りに誘われるように起き上がった名前は、どうぞと差し出されたそれを受け取る。

「サンキュー。助かる」
「どういたしまして」

 ネオンの護衛は今じゃもっぱら目の前にいるセンリツの役目となっていた。精神が不安定なネオンに対して、柔軟な対応をとることができ、また離れた部屋からもその念能力を使って彼女の様子を察知できるためだ。
 名前がついこの間までしていた楽チンな仕事である。
 なんだかなあ、と名前はセンリツが羨ましいような恨めしいような複雑な気持ちで白い水面に映る自身を見た。

「でも名前のおかげで随分スムーズにいってるみたいよ」
「……誰かさんが作ったマニュアル通りやっただけですう」
「マニュアル通りこなすのが難しい人だっているんだから。それにこういうのは愛嬌も大事なの。あなた、向いてるのよ」
「……ならいっそカタギの仕事に就こうかな」

 元マフィアの美人セールスレディなんてどう? 冗談まじりの名前の言葉に、センリツは否定することはせず、「それも良いかもしれないわね」と笑みをこぼした。
 名前は一瞬、一般企業に就職した自分を想像して、すぐにそんな甘い夢を捨てた。こくり、こくりと甘いミルクを飲みながら、身体を温める。世の中、このミルクのように甘くも温かくもない。

「それよりさあ……なんでコーヒーじゃないの?」

 欲を言えば、吐きそうになるくらい苦いコーヒーが飲みたかった。ただでさえ寝不足の日々、疲れ切った午前を終えた昼下がりにシュガーたっぷりの温かいミルクなんか飲んでしまえば眠くなるなと言う方が酷だ。名前はマグカップにべっとりとついた口紅を親指で拭き取り、うつらうつらと今度こそ本当に一つになりかけている瞼を懸命に押し上げた。

「コーヒーだと目が覚めるじゃない」
「覚めたかったんだけど……」
「午後から出掛ける予定はないでしょう?少し横になったらいいわ」
「出掛ける予定がない分、報告という名の地獄が待っている……」

 誰と面談し、どういったやりとりをしたか、どのような契約を結んできたのか。そういったことを理路整然と説明するのは名前は得意ではなかった。
 名前の営業マンとしての才をセンリツは"愛嬌"と言ったが、現実はそう可愛いものではない。マニュアル通り説明したところで頷く客ばかりではない。特別口が上手いわけでも、機転がきくわけでもない名前に残る手は、"女"。
 幸いなことに、容姿には自信があった。いつもなら着ないパツパツのスカートから覗いたガーダーベルト。そこに相手の掌を持って、「ご贔屓にしていただければ……ね?」といつもより濃いリップをのせた唇を耳元に近づけるだけで、"その先"を想像して鼻息荒くなったあちらさんが勝手に判を押してくれる、というわけだ。勿論、こんなこと誰にも言えやしない。

 そこまでして、この仕事にしがみつきたい思いが名前にあるわけではない。だからといって裏社会から出て清く正しく生きていけるとも思わなかった。
 贔屓にしてもらったところで自分に対して得はない。すけべな親父どもが期待しているその後の展開に持ち込まれる気もさらさらないが、だからといっていざその時になるまで対策を立てようとも思わなかった。
 彼女は常に、その場しのぎで生きているのだ。
 とりあえず今日明日を過ごすために与えられた仕事をこなす。ただそれだけ。名前にとって、全てがどうでも良く、また逆に全てが必死だった。
 いつ死んでもいい。けれども死にたくない。そんな矛盾した気持ちは以前より一層強くなっていた。

 気持ちを読まれまいと名前はすぐに別のことを考えつつ、「だから寝れない」と首を振る。だが、センリツは名前からマグカップを抜き取ると彼女の肩をそっと押した。その力に逆らうことなく重力に従いソファに背中をくっつけた名前は、「センリツ」と困った顔をして彼女を見上げる。

「あなた、ちゃんと寝れてないでしょう」
「……家が遠いから朝が早いの。それに、バカな犬が来たせいで目覚ましより三十分も早く起こされるし……」

 嘘ではない。事実、睡眠における三十分は大きい。あの犬が来てから、「後三十分眠れたら……」と名前が思わない日はなかった。
 しかし、センリツからすれば論点はそこではないらしい。そうじゃないでしょう、と彼女は眉を下げて首を振る。

「……. スクワラのことで落ち込んでいるのは知っているわ。あなたたち、仲が良かったものね。
 でも、それ以外にも気に病むことがあるんでしょう?話してみると楽になるかもしれないわ」

 お節介焼きめ。心配そうに名前の顔を覗き込むセンリツに対し、名前は心の中で呟いた。
 センリツが嫌いなわけではない。普段ならそのお節介がありがたかったりする。しかし、その話題に関してだけはそっとしておいて欲しかった。人は誰しも、踏み入って欲しくない部分を持っているのだから。

「……あなたたちを見ていると心配なのよ」

 センリツは心を完璧に読めるわけではないが、名前が自分に対して抱いている感情が決して良いものではないと気付いていたのだろう。「たとえ余計なお世話だと思われようとね」センリツは控えめな笑みを浮かべた。

「……悪いけど、私のことはほっといてほしい」

 同情も、憐れみも必要としていない。名前は腕で顔を覆い、センリツの視線から逃げた。「ごめん、やっぱ寝させてもらうわ」そう言って自身を拒絶した名前をセンリツは怒ることも咎めることもなかった。

「ええ、ゆっくり寝てちょうだい」

 そう一言残したセンリツの足音が、遠ざかっていく。カチン、と陶器のぶつかり合う音と、扉を開ける音がして、彼女が給湯室に向かったことを知り、小さく息を吐いた。
 疲れからなのか、これ以上追及されない安堵からくるものなのか、それ以外のものなのか、名前自身そのため息の正体がわからなかった。

 せっかくの機会だ、本当に寝てしまおう。腕の下で瞑った瞳同様、意識も閉じようとしたときに、先ほどのセンリツの言葉が耳鳴りのように聞こえてくる。

ーーあなたたちを見ていると心配なのよ。

 あなた"たち"? 浮かぶのはスーツ姿のやつれた金髪男の顔だ。あの顔と同じ表情をした女を毎朝鏡で見ている。互いに傷跡は深いのだろう。だからといって踏み込む気は毛頭ない。それなのに瞼の裏からあの顔が消えない。これじゃあ夢見が悪くなるじゃないか。落ちゆく意識の中で、名前はそんな愚痴を吐いた。



 名前は目を覚ますと、ソファの上で小さく伸びをした。同じ姿勢をキープし続けた腕のダルさに少し顔を顰めて、ぼんやりと天井の模様を見つめる。どれくらい寝ていたのだろう。

「あなたも少し休んだらどうかしら」

 聞こえてきたのはセンリツの声だった。自分へ話しかけたにしては声が遠い。それに名前は今しがたじゅうぶん休憩を取ったところだ。誰かと話しているのか。未だ覚醒しきっていない頭で、名前はそんなことを考えた。

「そんな暇などない」

 男にしては高い声色が、淡々と告げる。寝入る前に思い浮かんでいた人物だ。徐々に覚醒しつつあった頭が一気にクリアになる。何も起き抜けにまで現れなくていいのに、と。
 起き上がることも憚られて、名前は寝返りをするふりをして彼らに背中を向け、その会話に耳を傾けた。

「身体を壊したら元も子もないのよ」
「自分の限界は私が一番よくわかっている」
「ヨークシンで寝込んだのは、その限界を越えたからでしょう」

 お節介焼きめ。浮かんだセリフはさっきと同じだが、名前は愉快な気持ちで彼らに見えないのをいいことににんまりと笑った。いつも自分を言い包めるクラピカを追い詰めるセンリツの図が面白かったのだ。
 図星をつかれた、とでも言うようにクラピカは一瞬言葉を詰まらせた。やがて、「同じ過ちを繰り返すつもりはない」と言い、センリツの優しさを突き放す。
 先程名前は同じようにセンリツの優しさを無下にしたというのに、まるでそのことを棚に上げて、クラピカを冷たい男だと心の中で野次った。

 呆れたとも諦めたともとれるため息を零すと、「仕方ないわね」と言ってセンリツは名前が寝転ぶソファの横を通り過ぎていく。この部屋から出て行くらしい。扉に手を掛けたとき、ちらりと視線を寄越してーーきっとその地獄耳で起きたことを知っていたのだろう。バッチリと目線があった名前に対し驚く様子はなかったーー困ったような顔をしながら何かを伝えようとしていたが、結局その唇から音が出ることはなかった。

 ぱたん、と静かに閉まった扉を見つめていた名前は、ここからの行動をどうとるべきか迷っていた。意図せずして、クラピカと二人きりになってしまったのだ。彼に起きていると気付かれれば、今朝の取引について話さなければならないだろう。
 さて、どうしようか。起き上がって素直に白状すべきか、狸寝入りを続けるか。
 対して悩みもせず、名前はもう一度目を瞑った。面倒ごとは嫌いだ。とにかく、この場を乗り切りたい。
 自然と研ぎ澄まされた聴覚は色々な音を拾う。自分の呼吸音、単調な空調機の音、扉の向こうで給仕が忙しなく廊下を走る音、重なった紙をめくる音ーー

「ところで、君が担当したいくつかの事案について話があるのだが」

 凛とした声は、名前の重たい瞼を開かせるには十分だった。この部屋には名前とクラピカしか存在しない。君、と指された人物は間違いなく自分のことだろうと名前は理解していたが、もう一度瞼を下ろす。
 起きてなかったことにしてしまいたかった。

 「いつまで空寝を続けるつもりだ」と続いた言葉が今度は上から降ってきた。起きてない、聞こえない、は通用しないらしい。
 ゆっくりと首だけ動かして開けた視界に飛び込んできた端正な顔立ちは、和かとは言い難い。下を向いているせいか、眉間には谷の影が深く作られている。

 これ以上逃げることは出来ないな。名前は大きく息を吐くと、柔らかいソファから重たい背を浮かせた。

 
 2019.2.14

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