懐に隠していたおかげで割らずに済んだ深緑の目玉が、木のテーブルの上でぐるぐる回る。ガラス瓶を通して、テーブルの上に描かれたスマイルマークが見える。そのせいか、"彼女"が喜んでいるように思えた。
 向かいには、同じ色の瞳をした女性が口を覆って涙を零している。"彼女"のお姉さんらしい。「ごめんね」そればかりを繰り返し、横にいる少女も同じように涙を流していた。どうやらこの少女が例の後輩か。あまりジロジロ見たわけではないけれど、私とは全く似てないと思う。

 妹を、友人を失った彼女たちと同じ空気を吸うのは辛かった。喉の奥が痛み、何度も唾を飲む。視界がぼやけそうになるのを深く息を吸って耐えた。
 私は共に涙を流すことはできない。彼女たちの悲しみに寄り添うには、生前の"彼女"のことをあまりにも知らなさすぎる。気持ちを揺さぶられて泣くのはダメだと思った。
 なんとか別のことに意識を向けようと、隣に視線を向ければ、いつもの服装に着替えた――あの騒ぎの中、ちゃっかり自分の荷物を持ち帰ってきたらしい――クラピカがしゃんとした姿勢で座っている。私の視線に気付いていないのか、その目はブレることなく真っ直ぐお姉さんを見つめていた。
 何を考えているのだろう。私にはわからない。

 テーブル近くの棚には、写真立てが置かれていた。生前の"彼女"は、新聞の三面記事を飾っていたものより何倍も綺麗な女の子だった。時折、堪えきれず漏れた嗚咽がこの狭い部屋に響く。殺された妹はもう生きては帰って来ない。
 気持ちが引き摺られそうになる。グッと握った拳が固く膨らんだエプロンのポケットに当たった。中に忍んでいるのは携帯だけだ。シーグラスのヘアゴムは、少しでもマシに見せようとこの家に訪問する前にボサボサになった髪に飾り付けた。お気に入りのコートや服は、先輩と過ごした部屋の床下に眠ったまま、さよなら。でも、そんなこと今のこの状況じゃどうだってよく思えた。

 涙を流しきったお姉さんは、愛おしそうに"彼女"を瓶ごと抱きしめた。「これでもう、心配事はなくなったわ」慈悲深い微笑みすら携えていた。隣には、まだ涙を溜めたままの少女。彼女はお姉さんが色んな人に頭を下げたお陰で近いうちに養子にもらわれるらしい。そのことを含めて言ったのだと思う。

「……私たちはそろそろ失礼させていただきます。名前」
「え、あ、うん。失礼します」

 長居するわけにもいかず、頃合いを見計らい席を立った。古びた家の前に並んで、二人は私たちに頭を下げた。何度もお礼と称して封筒に入ったお金を渡そうとしていたが、クラピカが頑なとして受け取らないので、封筒はそのままお姉さんの懐に戻った。

「本当にありがとうございました」

 何度目かのお礼の後、頭をあげたお姉さんの顔は晴れ晴れとしていた。何もかも吹っ切れたような、ある種の爽やかささえ備えていた。妹の死と向き合うことで、この悲しい事件を乗り越えて新たな人生を歩みだそうとしているのかもしれない。
 けれどクラピカは、「決めたんですね」と意味深げに目を伏せたのだった。

「ええ。最初からそのつもりだったから」

 二人の会話がなにを意味するのか、私にはわからなかった。不思議そうにお姉さんを見上げる少女もまた、私と同じ気持ちのようだ。こういうところが似ているのかもしれないな、と今更思ったけれど、別にどうだって良かった。

「あなたは私のようにならないで」

 お姉さんのその言葉が妙に引っかかった。クラピカはそれに対する返答はせず、「さようなら」と伝えるだけだった。「また」ではなく、「お元気で」でもなく、「さようなら」と。
 二人は再び深々と頭を下げ、私たちを見送る。古びた家が少しずつ遠ざかっていく。

「ねえ、さっきのどういう意味?」

 吐く息が白く舞う。私より少し先を歩くクラピカの足取りは、いつもより早い気がした。隣に並ぼうと私も足を早めたけれど、追いつく気がしなかった。一歩か二歩、それくらいしか差がないはずなのに。
 結局、私の声は聞こえなかったのかクラピカは何も言わなかった。

 その日の夜、臨時ニュースで流れたのは市長が殺されたというものだった。



 市長の悪事の数々はあらゆるニュースに取り上げられた。中には、便宜を図ってもらっていたのか、あまり事件に触れたがらないコメンテーターもいた。
 市長という立場柄、先輩――バレンシアからの通報ですぐに逮捕とは行かなかったらしい。私たちがアパートへ帰るころ、消火活動にあたっていた消防からの通報によりようやく事態を重くみた警察が屋敷へと突入したとき、市長はすでに事切れていた。至る所に深い刺し傷があり、明確な殺意を持って何度も執拗に刺したのだろう、と新聞には書かれていた。そして、その猟奇性についても。――かつての市長の残虐な行為同様、彼の両目はくっぽりと穴が開いていたのだ。
 警察が探すまでもなく、犯人はすぐに見つかった。花畑の上で。犯人もまた、すでに死んでいたという。
 バレンシアについても記事の隅にて、「共犯とみられる少女は強要されいた可能性が高く、今後精神的ケアを行いながら聞き取り調査を行う」との一文が載せられていた。きっと彼女ならうまく乗り切れるはずだ。

 最近出来たばかりのカフェの店内はムッとするほどの熱がこもっていた。私たちと年の変わらない少女たちもいれば、商談中のサラリーマンとそのお客、もうすでに常連となっているのかコーヒーチケットを片手に持ったおじいちゃんなど、様々な人たちで賑わっている。誰がリモコンを操作しているのか先ほどまで映っていたアンニュイな雰囲気の映画からニュース番組に切り替わるころ、それを合図だと言うように私たちは店内を通り抜け、ビニール屋根を張ったテラス席へと移動した。
 テラス席から見上げた空は灰色の雲に覆われていて、もうすぐ雨が降り始めようとしていた。強い風が吹くわけでもないのに、冬の冷え切った空気のせいで頬がピンと張って痛んだ。その寒さのせいで新しく買いなおした安物のコートは脱げなかった。

「ご注文はお決まりでしょうか?」

 暖かい店内の空気をまとったウエイトレスが尋ねてきたとき、私は寝ていたわけでもないのにようやく今起きたような気持ちになった。
 意識しない間に置かれていたメニュー表は、目を通すこともなく裏返したままだ。その上には、無作法にも水の入ったグラスが置かれていた。この席に座ってからもう五分は経っていた。その間、向かいに座ったクラピカと会話がなかったことに私は今更になって気付いたのだ。

「私はホットコーヒーを」
「……じゃあ、私も」
「コーヒーお二つですね、かしこまりました!」

 ウエイトレスは腰に結んだエプロンのリボンを揺らしながら、パタパタと小走りで駆けていく。少し離れたところで他の店員に話している様子が見える。寒空の下、何も話さない私たちの間では、その会話はクリアに聞こえた。

「こんな寒いのに、テラスに行くなんてなんでだろう?」
「さあ?別れ話じゃない?」
「やだあ、年越し前に?かわいそうー」

 聞こえてくる自分たちの話題に耳を傾ける。側から見れば私たちはそういう仲に見えるのか。妙なところに関心して、もう一人の話題の人物に視線を向ける。クラピカは気にするなとばかりに緩く首を振るだけだった。
 別に、気にしたわけじゃないのに。なぜだかムキになって、メニュー表の上を陣取っているグラスに手を伸ばした。だけど、グラスを持った指先から冷えが始まり、一口飲むと身体が凍えそうになったものだから、すぐに飲むのをやめた。
 冷たい、寒い。指先を擦り合わせて、息を吹き込む。
 何か話さなければならない。だけど、何も話したくない。そんな気分だった。

「お待たせしました!お砂糖とミルクはこちらに置かせていただきますね。ではどうぞごゆっくり」

 砂糖とミルクの乗ったトレーをテーブルの端に置いたウエイトレスが、こちらの様子をチラチラと観察しているように思えて居心地が悪かった。私たちがいつ別れ話を始めるのかと期待しているみたい。もちろんそんな事実はないのだから、始まるはずもないのだけれど。「ありがとう」軽く頭を下げて、その視線から逃れた。
 手でカップを覆って、冷えた指先を温める。湯気の立つコーヒー。焦げついた、苦い香りがする。美味しそう、という気持ちは湧いてこない。

「……飲めないのではなかったのか」

 ぽつり、独り言のように溢れた言葉。聞き逃さなかったのは、あまりにも二人の間が静かだったからだ。

「うん。でも、今日はココアの気分じゃないから」

 クラピカは、「そうか」とまた呟いて、カップに口をつけた。彼はブラック派だ。対して私は、クラピカの言うようにコーヒーは好きじゃない。
 テーブルの端、トレーの上には小さな山を築いた角砂糖と、ミルクピッチャー。いつもの私なら、すぐに手を伸ばしてカフェオレにしてしまっていただろう。でも、今日は甘さも柔らかさも求めてはいけない気がした。
 店内とテラス席を隔てるガラス張りの窓。窓の向こうでは、未だニュース番組のままだ。チャンネル権を持つのは、食い入るように観ている常連のおじいさんなのかもしれない。

「……クラピカはわかってたの」

 クラピカも私と同じように店内に視線を向ける。「ああ」と抑揚のない声でクラピカは頷いた。ニュース番組では、今回の一連の事件が取り上げられている。ここからじゃ音は聞こえないけれど、画面に映る犯人の顔写真ははっきりと見えた。見覚えのある深緑の瞳――あの時何度も私たちにお礼を言っていたお姉さん。

「じゃあ、なんで止めなかったの」

 きっとクラピカは、わかっていた。この結末を迎えることを。私が理解できなかった会話は、このことを指していたはずなのだから。
 クラピカはあの時のように目を伏せ、コーヒーカップの中を覗き込んでいた。そこに映る瞳がなにを抱えているのか、私が見ることはできない。
 ぽつ、ぽつ。頭上に張られた薄いビニール屋根が水を弾く音を奏で始めた。風に乗って雨の飛沫がコートに模様をつける。安物のコートは寒さも水気も弾いてはくれない。

「同じだからだ、私も」

 お姉さんがどうやって市長の家まで行ったのか、どうやって市長を殺したのか――どうやって自殺したのか。それらはあらゆる媒体を通して明らかになっている。事件の詳細を語るアナウンサー、コメンテーター、芸能人……。皆、神妙な表情のわりには饒舌だった。数週間は良いネタになるとばかりに。
 きっと私も関わっていなければ同じだったはずだ。「かわいそう」「殺されて当然」「なにも殺すことはなかったのに」「自殺してしまうなんて」「他にやり方はなかったの?」なんて、その時の気持ち次第で、私は好き勝手に意見を変え、話のネタとして消費してしまっていただろう。でも、知ってしまった今ではそんな扱いはできない、したくない。
 ましてや、同じように大切な人たちを亡くしたクラピカの前では。

「復讐を止めることはできない」

 頷くことも否定することも、私にはできない。ただ、「そう」と平坦な言葉を零す以外は、なにも。
 「あなたは私のようにならないで」――お姉さんの言葉の意味を今は理解できる。
 なにも話したくなかったし、同時に叫びたかった。ずっと両手で覆っていたカップの熱は、とうに冷めている。視界の端には砂糖とミルク。甘さを、柔らかさを求めてはいけない。
 ぬるくなったコーヒーで口内を満たす。ブラックコーヒー。苦くて、まずくて、全然美味しくない。クラピカがこれを飲む理由がなんとなく、わかった気がした。

 その日、雨が止むことはなかった。


2018.11.15

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