毛布の隙間から得られる情報は少ない。目の前にあるのはクラピカの履いている靴のヒール部分、その奥には黒光りする市長の革靴、それからクラピカが怒っていて緋の眼になってしまったことと――仲間の緋の眼が無い、ということ。
 今までのやりとりからして、私たちが劣勢なのは変わらないらしい。
 どうしよう、どうすれば。そんなこと考えても、私の足りない頭では名案なんか浮かんでこない。思考が停止した私たちに行動を促したのはやっぱりクラピカだった。

「二人とも立つんだ」

 その声は囁きにも似ていたけれど、凛と響いていた。隣では先輩の目がどうすればいいの、と私に訴えかけている。一つに結ったクラピカの頭が、「早く」と急かすように声をかけ、私は頷いた。

「立とう」

 毛布から這い出るようにして出て、急いで立ち上がる。盾になるようにクラピカが広げた腕に、先輩はひっと声にならない悲鳴をあげながらしがみついた。私も縋るようにクラピカの服を掴む。
 市長は銃を持っていた。思わず出そうな声を唾を飲んで喉の奥へ戻す。敵に弱いところを見せたくない。
 彼は立ち上がった私たちを見て、少し眉をあげると、私に焦点を合わせた。「ああ、そんな顔だったのか」と大して興味無さそうに。そしてすぐにクラピカに視線を戻す。彼の興味は、クラピカ――そして、彼の緋の眼にある。

「男の子は範囲外だったけど……君ならいいかな」

 少しだけ見上げた先にあるクラピカの眼は赤く色付いている。市長が興味を惹かれるように、二度目に見たその瞳は相変わらず綺麗だった。
 でも、それはクラピカにあるから綺麗なのだ。クラピカからそれをとってしまえば、そんなの綺麗でもなんでもない。あの棚に並ぶ眼球たちと一緒で、ホラーな雰囲気を醸し出す人の肉と成り果てる。

 クラピカは腕を広げたまま少しずつ後退し、その度に、カツ、カツ、とヒール音が鳴る。彼の背後についていた私たちも必然的に後ろへ退がることになった。そして、退がるのと同じ距離だけ、市長が前から詰めてくる。今のところ、両者の距離は一定に保たれていた。

「面白いね、鬼ごっこかな」

 市長の言動一つ一つに隣にいる先輩はひっと身を縮こませた。これまでの悪行を全て見てきた彼女にとって、市長は恐怖の象徴なのだ。きっと今の私よりも、よっぽど怖い気持ちでいる。
 人殺しと鬼ごっこ。楽しくない響きだ。このままどこかに逃げ切れればいいけれど、この部屋は無限に広がっているわけではない。すぐに踵が棚に当たり、これ以上退がることはできなかった。それでも、この行動には多少の意味はあったらしい。

「撃てばお前の悪趣味な物共々倒れ込んでやる」

 言いながら、クラピカは棚に手を掛ける。市長は、「小賢しい」と舌打ちをした。
 これで助かったとは思えない。市長の手から銃を奪ったわけでも、逃走経路を確保したわけでもない。一時凌ぎなだけ。向こうが気にせず撃ってきたら終わりだ。
 クラピカは勝気な顔を作っていたが、眉間のシワは深い。額には汗の粒が浮いている。焦っている証拠だった。
 なんでもいい。なにかこの場を乗り切れることはないか。必死で辺りを見渡しても、助けになるようなものなんて何もない。少し顔を後ろに向けると、ずらりと並んだ眼球たちは何かを訴えるかのように私を見ていた。瓶には反射した蝋燭の火がチラチラと揺れている。

「あ……」

 ――火。
 腰に下げているものを思い出した。脳を撃ち抜く武器を前にして、こちらにあるのはただ床を綺麗にするだけのもの。なんの役にも立たない。そのはずだった。
 市長に気付かれないように、そっとそれを手に取る。
 クラピカ、小さく零した私の声。クラピカの耳にはきちんと届いていたようで、眼だけを私に向けた。絡み合った視線を誘導するように、手に持った掃除用のスプレーを見せた。そこには大きな字で、"火気厳禁"と書かれている。すぐ近くの床には小汚い毛布、背後の棚は――木製。
 小火でも起こせば、男から逃げる隙を作れるかもしれない。
 さっきまでは私たちを困らせていた蝋燭の火が今じゃ唯一の希望の光のようだった。

「しかし、それは……」

 なぜか躊躇うように、クラピカは燃えるような赤をより大きく見開いて、背後の棚を見た。そして、「私にはできない」となぜか弱気なことを言う。
 迷っている暇なんかない。この場を乗り切るためなら、炎の中を掻い潜って逃げる覚悟くらいある。
 だって一人じゃない。先輩は、逃げ出すためとはいえ危険を冒して私たち側についてくれた。私がここから出ようなんて言わなければ、彼女はこんな目に遭わなかったのだ。何が何でも共に生き抜かなければいけない。
 それに、クラピカがいる。クラピカがいれば、絶対なんとかなる。根拠のない自信だけど、心からそう思うのだ。
 だから、絶対、絶対大丈夫!

「その眼を手に入れるためには多少の犠牲は仕方ないね。確か緋の眼というのは……怒りでより赤く輝く、だったかな」

 薄っすらとした笑みを浮かべ、市長はクラピカに向けていた銃口をずらしていく。照準は――私。
 大丈夫、なんて言い聞かせてもやっぱり怖くて体は震えた。だけど、「名前」と焦ったように私を見るクラピカに歯を見せて笑ってやった。ちょっと強がって。

「大丈夫、絶対うまく行くから!」

 自分自身に発破をかけるためにクラピカの背中を軽く叩いた。それから背後にある蝋燭を取ろうと手を伸ばそうとしたとき、私が動くより先にクラピカが叫んだ。

「棚から離れろ!」

 言うやいなや、クラピカは棚を倒した。驚く間も無く後ろから迫ってくる棚に、私と先輩は倒れこむように横へと逃げる。
 一秒と待たずに、瓶の割れる音が響き、それを追うように棚が倒れた。なんとも例えようのない刺激臭が部屋中に広がり、思わず鼻を覆う。無機質なコンクリートの床にはブヨブヨになった眼球が中の液体とともに散らばっていた。そして、ぼっと音を立ててその身に火を灯す。まるで意思があるみたいに。

「なっ……なにを……!」

 男が驚くのは無理もない。私だって驚いているのだから。スプレーに火をつけてちょっと小火を起こそうと思っていただけなのに。どうやら、クラピカの考えと私の考えとでは随分違うものだったらしい。
 人の目を燃やす――クラピカが渋った理由がわかった。「出口に向かって走れ!」とクラピカは言うと、そのまま慌てふためいている市長目掛けて走り出した。
 刺激臭で目が痛い。生理的な涙で霞んだ視界の中、状況についていけていない先輩の手を引くと、彼女ははっと我に返ったように喚いた。「なに、この臭い!燃えてるし!どうなってんの!」そんなの、私に聞かないでほしい。

「いいから!走る!」

 目の前では、クラピカが市長を蹴り上げていた。お宝が目の前で燃えていく中、銃を構える余裕がなくなっていたらしい。ぐう、と苦しそうにお腹をおさえ、その手から銃がこぼれ落ちる。すかさずクラピカはそれを拾い上げ、市長の足を撃った。
 ドン、と重たい銃声と、痛みに叫ぶ男の声、コンクリートに跳ね返る弾の音。耳を、目を塞ぎたい光景。
 クラピカはそのまま銃口を市長の額に当てる。

「少しでも不審な動きをしてみろ。その時は躊躇わず頭を撃つ」

 ひっ、と再び聞こえた先輩の悲鳴は市長に対してのものではなかった。
 燃えるような赤が、冷たい。それが悲しかった。



 炎に追われるように上がってきた私たちは、部屋から市長室へ移動した。高そうなカーテンを引きちぎり市長の足を止血し、身体を拘束し、口と耳と目を隠した。彼は抵抗もせず大人しくクラピカの指示に従う。頭に銃口が当たるたびに死の恐怖に怯えていたのだ。
 いい気味ね、と先輩は言ったが、決して嬉しそうなわけではない。「こんな奴にみんな……」と悔しそうに歯を食いしばった後は何も言わずに涙を流していた。
 地下へと続く階段はすぐに閉じたけれど、隙間から煙や異臭が漏れ出している。クラピカいわく、ホルマリンは可燃性らしい。だからあんなに燃えたのだ。きっと"彼女たち"は形を残すこともなく燃えてしまっただろう。
 じきに火災報知器が作動し、警備や従業員たちもこの事態に気付くはずだ。そうすれば警察や消防がやってくる。その時に私たちがここにいるのはまずい。

「逃げるなら今しかないが……」

 ちら、とクラピカは市長に視線をやった。逃げるということは、市長をこのままにしておくということだ。
 私たち三人が逃げたとして、彼はその後どのような行動をとるか。仮にも彼は市長だ。様々な権限を持つ。彼が殺人鬼である証拠は炎の中。花畑に埋まった死体の数々も証言者である私たちが逃げてしまえば……答えはそう難しいものではない。
 クラピカを見れば、彼も渋い顔をしていた。
 そんな中、時間だけが無常に過ぎていく。一体何分くらい誰も何も言わずにただ悩むだけのために時間をかけたのだろう。停滞していた空気を動かしたのは、ジリリリリ、と耳障りな高音。火災報知器が屋敷全体に響き渡ったのだ。気付けば煙の臭いが濃くなっていた。
 ハッと顔を上げれば、クラピカが意を決したように強く頷く。

「これ以上考えている時間はない。名前たちだけでも先に行け」
「そんな!クラピカも一緒に行こう!」
「私のことはいいから早く逃げろ!」

 クラピカがそう言って窓の外を指さした時、「待って」と今まで黙っていた先輩が口を開いた。

「……あたしがここに残るわ。警察にもこっちから通報する」
「先輩まで何言ってんの!三人で逃げるの!」
「三人で逃げたら、次は追われる側になるわよ?それでもいいの?」
「それはっそれは……嫌だけど……でも、先輩が残るってことは……!」

 市長は警察とも太いパイプを持っている。それに、先輩は脅されていたとは言え死体遺棄の罪がある。三人ならまだしも、たった一人の孤児の少女を無事に保護してもらえるとは思えない。
 なんとかして欲しくて、縋るようにクラピカを見た。しかし、彼は、「本当にいいんだな?」と確かめるように先輩と視線を交じらせたのだった。

「ちょっと!クラピカまで何言ってんの?ここに残るってことは、先輩が……!」
「その心配はない」

 少し待っていてくれ、と言い、クラピカは足早に部屋を出て行った。今の話の流れからなにがどうして部屋を出て行くことになる? 私と先輩は顔を見合わせた。火災報知器は今もなお、甲高い声を響かせるように鳴いているというのに。

「心配はないってどういうこと?」
「さあ……?」

 数分後、クラピカは茶封筒を持って再び戻ってきた。そしてそれを先輩に渡した。「なにこれ?」先輩は怪訝な顔をして首を傾けていたけれど、中身を見るとパッと顔を上げた。

「奴の罪の数々だ」

 クラピカの言葉に、私も覗きこんだ。カセットテープがいくつかと、何枚もの写真が見えた。写真には、今は後ろで小さくなっている男が映っていた。悪事の証拠。

「警察との繋がりについての証拠もある。他にそのことを知る仲間がいるとでも嘯いておけば、君を悪くは扱えないだろう」
「……ありがとう。何から何まで、本当に」
「礼を言うのはこちらの方だ。君のお陰で逃げることができる……すまない」
「待ってよ二人とも!本当に?本当に先輩を残して行くの!」

 私を除け者にして二人だけで話が進んでいた。その中に割って入り、首を左右に動かして二人の顔を何度も見る。クラピカは強い眼差しで、「彼女が決めたことだ」と言うだけだった。先輩が決めたこと。今度は先輩を見た。「本当にそれでいいの?」だって、一緒に逃げようって言ったのに。

「あんたも言ってたじゃない、罪があるなら償えばいいって……あたし、そうしたいの」

 "先輩の罪だって償えばいい"ーー皮肉なことに、昨日の私の言葉は、今の私の言葉なんかより強いみたい。今の私の言葉なんかでブレない、意志の強い瞳。これ以上、説得はできなかった。

「名前、急ごう。もう時間がない」
「うん、うん……わかってる」

 濃くなった臭いとともに、徐々に白いモヤが空気を汚していた。「あんたたちが部屋を出たらすぐに通報するわ」と先輩は気丈に笑って、「だから早く逃げなさい」と私の背中を押した。

「先輩……」
「あら、あたしもうあんたの先輩じゃないわよ」
「……そんなこと言わないでよ」

 逃げ渋る私の体を動かそうと、クラピカが手を引く。「名前」急かされなくても早く逃げなきゃいけないことくらいわかってる。後ろ髪を引かれる思いで、部屋を出た。火災報知器の音が響く廊下で、使用人達が慌ただしげに走り回っていた。彼らに混じって出口へ向かう。

「さっきも言ったように警察も彼女に無茶なことはできない。彼女の境遇を考慮すればそう重い罪にはならないはずだ」

 だから心配するな、と伝えたいのだろう。繋いだ手に力がこもる。うん、うん。何度か頷いて、足を動かす。私たちは、逃げなきゃならない。先輩を置いて。

 門を曲がろうとしたとき、後ろから私を呼ぶ先輩の声がした。
 "ねえ"でも"ちょっと"でも、"あんた"でもなくて、"名前"って。聞き間違いかと思って先に進もうとしたけれど、クラピカが止まる。振り返ってみろ、と視線で私に伝えてきたその時、また声が聞こえた。

「名前!」

 思わず振り返る。「ここでは必要ないから」と、今まで名前で呼ばれたことなんてなかったのに。

「あたしの名前、バレンシアっていうの!あんたのおかげよ!ありがとう!」

 指で丸を作ったらすっぽり収まるくらい小さくしか見えない距離になってからそんなこと言うなんて、素直じゃない。出会ってから別れまで、気の強さだけは変わらない。
 そんなバレンシアだからこそ、絶対大丈夫だと思えた。

「バレンシア!またね!」

 引かれていた後ろ髪は、彼女がスッパリ切ってくれた。悩み事が消えた頭は軽くなって、自然と前を向けた。前へ前へ。「行こう」私からクラピカに声をかける。「ああ」頷いて、クラピカはまた私の手を引いた。


2018.11.02

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