「名前ちゃん!おはよー!」

 下駄箱で靴から上履きに履き替えていると、アッコちゃんは後ろから私の背中を軽く叩いた。

「おはよう、アッコちゃん」

 彼女は私の顔を覗くとにっこり笑って、「今日も一日がんばろーね!」と元気いっぱいに廊下を駆けて行く。その瞬間、スタイリング剤の甘い匂いが私の鼻を掠めた。私の視線は歩く速度より速く、ウェーブのかかった明るい髪が上下する後ろ姿を追う。

「皆、おはよー!」
「おはよーアッコ。昨日のドラマ見たー?」
「見た見た!続き気になるよねー!あとで話そうー!」
「アッコちゃんおはよー」

 前を行くアッコちゃんは、すれ違う人たち皆と挨拶を交わして、朝の気怠さなんて感じさせない明るさを振りまいていく。彼女の通った場所は温度が上がったように会話に熱を持ちはじめる。

 アッコちゃんの本当の名前はアツコちゃんだ。初めて話したとき「アツコちゃん」と呼んだ私に、「アツコって古臭いから、アッコって呼んでよ」と彼女は気さくに笑った。
 私と彼女は、大雑把に分類すれば友達だと思う。その友達のカテゴリーに細かい分類があるならば、「どうでもいい友達」「外で遊ばない友達」「同じグループで連まない友達」「話すのには困らないけど大事な話はしない友達」「高校を卒業したら会わない友達」ーーそれくらい薄い縁。
 彼女とは、クラスが違うからクラスメイトでもない。前期の体育の卓球でペアを組んだ。それだけの関係だ。本来なら、前期の修了と同時に話さない関係になったところ、彼女の持ち前の明るさを持ってしてこうして毎朝挨拶するし、会えば話をする関係が維持されている。

 ムードメーカーの彼女の熱に当てられて、いつもなら下を向いて歩く私の目線も自然と上がる。

「及川!おっはよー!」
「おはよう。朝から元気だねえ」

 ぐんぐん奥の教室へ進んで行くアッコちゃんは廊下の窓枠に腰掛けて紙パックジュースを飲んでいた及川くんに挨拶をした。大きな二重の瞳を糸のように細めて、彼女は笑う。私には今朝一番の笑顔に見えた。
 二人はハイタッチを交わし、そのままアッコちゃんは教室へ消えて行く。

 及川くんはアッコちゃんの彼氏らしい、とはもっぱらの噂だ。二人の仲睦まじい様子からすると、噂は本当なのだろう。

 アッコちゃんが教室へ入ってしばらくしてから、私も及川くんの前まで来ていた。二人のことを考えていたからか、私は無意識のうちに彼のことを見ていたようだった。
 通り過ぎようとしたとき、背の高い及川くんと目が合った。彼は私に気付くと、咥えていたストローを離して、胸辺りでゆるく手を振る。思わず立ち止まった。

「おはよう」
「あ、うん、お、おはよう」
「なんでどもるの」

 及川くんは可笑しそうに笑った。私はなんとなく誤魔化すように首を傾けて、視線を外した。
 『ブルガリア マイルドプレーン』ーー彼の飲んでいる紙パックの商品名を心の中で読み上げる。私がいつも飲んでいるジュースと同じだ。
 肩に下げた鞄を持つ手に力が入る。

「……なんか、眠くて。ぼうっとしてた」
「一限当てられるんだから、しっかりしなきゃダメだよ」

 彼と私は同じクラスだ。友達ではない。アッコちゃんよりも会話することはもっと少ないから、ただのクラスメイト。
 そのはずが、最近はよく声をかけられる。

「そうだっけ、忘れてたや」

 英語の授業ではその日と同じ出席番号の人から順に当てられる。今日が何日か思い出し、確かに私からだと、及川くんの一言で初めて気付いた。

「じゃ、そんな忘れん坊さんに及川さんからプレゼント」
「え、でも」
「好きでしょ?これ」

 間違って二つ買ったから、と彼は私に自分が飲んでいるものと同じ紙パックジュースを手渡した。少しぬるくなったそれを両手で包みながら、タダで受け取るのもどうかと遠慮する私に、「じゃあ今度奢ってよ」と爽やかな返しをもって彼は私に受け取る以外の選択肢を与えなかった。

「えーっと……ありがとう」
「どういたしまして」

 及川くんは目を細めると、満足そうに笑った。及川くんは同い年なのに、どこか余裕のある男の子だ。でも、こうして笑顔になると、たちまち私と同じ年齢まで降りてくる。そのことに気付いて、首あたりの脈が早くなった。彼はアッコちゃんの彼氏だ、何も考えてはいけない。

 じゃあね、と互いに軽く手を振って、私は教室へ入った。
 掌に水滴を付けてくる『ブルガリア マイルドプレーン』と印字された商品名の下段に書かれた謳い文句は"スッキリ爽やか"。まるで、誰かさんみたいだな、と思った。

 仲のいい友達と挨拶を交わして、他愛ない会話を繰り広げる。友達は今日"当てられる"私のために知恵を絞ってくれるとのことで二人して席に着いた。貰ったジュースを飲もうか迷って、結局開けずに机の上に置くだけにした。
 英語のノートを広げ、シャーペンを手に持つ。英文に目を走らせても、英単語一つ、頭に入ってこない。
 気持ちを切り替えようと、新しいページに今日の日付を記して、ふと思い返すのはさっきまでの会話だ。

 ーー"一限当てられるんだから、しっかりしなきゃダメだよ"

 私は自分の番号ならともかく、他人の出席番号なんて覚えちゃいない。ましてや、仲良くもないただのクラスメイトの出席番号なんて。きっと普通の人だってそうだ。
 ジュースなんてたくさん種類があるのに、及川くんは私の好きな『ブルガリア マイルドプレーン』をくれた。"好きでしょ?これ"、そう言って。どうして私がいつも飲んでいることを知っているんだろう。

「あー……うう……」

 最近の出来事を振り返ると、こういうことは多々あった。そして、私の認識がおかしくなけば、さっき目を細めて笑った彼が嬉しそうに見えたのだ。自意識過剰でないとすれば、それらはまるでーー及川くんが私に気があるみたいな行動。

 でも彼には、アッコちゃんがいる。周りを笑顔にすることが出来る女の子、隣のクラスの可愛い彼女。
 頭を抱える私の目に入るのは、『ブルガリア マイルドプレーン』。間違えて二つ買っただなんて、絶対嘘に決まっている。

「名前どうしたの?わかんない?」
「……それもわかんないし、あれもわかんない」

 彼の行動の意味を求めると答えはわかるようでいて、わからなかった。
 自分のスタンスすらもわからない。私は、どうすればいいのか。
 廊下での出来事は隣の教室から見えていたのだろうか。アッコちゃんは、見ていたのだろうか。
 そんなことばかり考えていた。

 結局、英語の授業で当てられた私は何も答えられなかった。席を立ったものの「わかりません」と言った私に、「ちゃんとhome workしましょう!」と英語訛りで叱る鼻の高い異国の先生。
 皆がクスクスと笑うなか、遠くの席に座る及川くんもこっちを見て笑っていたのに気付いた。目が合うと、小さく手を振られた。私はそれに何も返さず視線を逸らし、「すみません」と謝るとすぐに座った。
 机の端に置いた『ブルガリア マイルドプレーン』が目に入る。飲むわけでもないのに、思わず掴んだ。それはもうとっくに乾いているのに、私の手はひんやりと汗に濡れていた。




 部活を終えた頃には、陽はだいぶ落ちてきていた。本当ならもう少し早く帰れたのに、とひとりごちる。文化部のくせに、作品展を前にして先生が張り切ったせいだ。
 最後の光とでもいうように眩しく輝くオレンジの太陽を直視しないように自分の影を見ながら歩く。コートを羽織るほどでもないけれど、そろそろマフラーくらい巻いた方がいいかもしれない。秋風に吹かれながら、そんなことを考えた。
 門までの道すがら、校舎裏に立った自販機を発見した。普段使わない別棟だから気付かなかった。買うわけでもないのにラインナップを確認すれば、私の好きな『ブルガリア マイルドプレーン』も並んでいた。
 そういえば、結局今日は飲まなかった。鞄の中に眠っているそれをどうしようか迷った末、ここで飲みきって捨てていくことにした。取り出してストローを刺す。吸い上げれば、ぬるい液体が喉を落ちていく。肌寒い今、このぬるさがちょうど良かった。

「岩ちゃん岩ちゃん!ここにも自販機あるんだけど!」

 背後から聞こえたその声に、誰かが「うるせーぞ」と答えた。その声に、誰と誰かはすぐにわかった。及川くんと五組の岩泉くんだ。段々近づく足音とその会話に、私は居心地が悪くなる。彼らは確実にここを目的としている。
 手の中にあるジュースは、まだ半分も飲んじゃいない。

 一緒にここで話す?却下。及川くんはともかく、クラスの違う岩泉くんなんか話したこともない。そもそも、及川くんとも長話できるほど仲良くない。
 せめて振り返って挨拶する?却下。それすら気まずい。
 ここは気付いていないフリをしよう。
 私は俯き加減で門へと向かう道へ足を動か出した。早く立ち去りたくて、自然と早足になる。

「あ」

 私の存在に気付いたように、後ろで声がした。「待って」と言われた気がして、立ち止まろうか、それとも振り返ろうか、一瞬迷ったけれど私はそのどちらもせずに歩みを進める。きっと気のせいだ、そう思っていたのに。

「ちょ、ちょっと!名前ちゃん!待ってって言ってるじゃん」
「え、あ、ご、ごめん」

 腕を掴んだ大きな手に、私の足は簡単に止められた。それに、今、私の名前を。
 目の前の及川くんは、少し頬を赤らめて、浅く呼吸を繰り返す。白いジャージ姿だ。意図せず振り返った先に見える岩泉くんも同じ。彼はまだ自販機の辺りにいる。及川くんだけ、ここまで走ってきたのだ。

「もーこっちは部活終わりで疲れてんだから、走らせないでよ」
「あーうん、本当ごめんなさい」

 私は言い訳のように、「聞こえなかった」と言ってーー事実言い訳なのだけれどーーもう一度謝る。私の腕を解放した及川くんは、「許したげる」と目を細めた。その姿に私はやっぱり視線を下げる。
 もう夕陽は眩しくなんてないのに。

「あれ、それまた飲んでるの?」
「これ、朝くれたやつだよ」
「朝飲まなかったの?だから英語出来なかったんじゃない?」
「ホント、そうかも……飲めば良かった」
「名前ちゃんって意外に抜けてるね」
「そ、そう?」

 あれ、また、名前。
 今まで及川くんに名前で呼ばれたことなんてない。いつも苗字にご丁寧に"さん"を付けて呼ばれるのみなのに。
 意識すれば急に恥ずかしくなって、私は誤魔化すためにジュースを飲んだ。

「及川!オメー急に走るなや!」
「げ、岩ちゃん……!」

 ゆっくり歩いてこちらへ来た岩泉くんは、及川くんの背中を叩いた。結構な音がして、痛そうだ。現に、及川くんは「力加減考えて!」と痛がっている。友達の前ではこういう性格なのかもしれない。教室でいるときのどこか余裕のある及川くんとは少し違うな、と私はその様子を横目で見ていた。
 結局、三人の状況になってしまった。私は気まずさにまたジュースを飲む。もうあまり残っていないせいか、ズズ、とはしたなく音が立つ。そこでようやく私の存在を認識したかのように、岩泉くんは私を見た。

「あ?あ、お前、例の」

 初めて交わす言葉は、なんだか不躾なものだった。「例の?」私は首をかしげると、及川くんはわかりやすいほどぎょっと目を見開いた。大慌てで岩泉くんに詰め寄る。

「ストップ!岩ちゃん今から何も喋んないで!先帰ってて!ハウス!」
「オイコラふざけんなよ」
「ハイハイ!文句はまた明日聞くから!」
「おーおー、明日覚えてろよクソ及川」

 岩泉くんは最後にもう一度及川くんの背中を叩くと、私たちに向かって、「じゃあな」と告げて先に門まで歩いていく。及川くんは「岩ちゃんの馬鹿力!」と岩泉くんへの文句を喚いた後、ちら、と私を見た。視線が絡んで、及川くんはすぐにそっぽを向いた。私は私で二人になってしまった気まずさに、また音を立ててストローを吸う。

「あのさ、一緒に帰んない?」

 断る理由もなく、私は頷いた。

 長話出来るほど仲良くない、そう思っていたけれど、会話に詰まるということはなかった。いかんせん、及川くんのトークスキルのおかげである。もういつもの余裕ある男の子に戻った及川くんは、巧みに会話を広げていく。ただ、時折会話に組み込まれる「名前ちゃん」呼びに私の心臓はその度に跳ねた。

「あ、ごめん。なんか俺ばっかり喋ってるよね」
「うーん、でも及川くんの話、面白いから気にしないで」
「そう?でも及川さん的には、どっちかといえば名前ちゃんの話を聞きたいなー……っていうか……あ」

 及川くんは急に立ち止まると、その大きな手で口を覆った。言葉にならないような唸り声を上げて、それから私に視線を寄越した。気付いたのかもしれない、「名前ちゃん」と呼んでいた自分に。
 余裕ある男の子の仮面が剥がれていく。右へ左へ視線を泳がして、手で隠した隙間から、「ごめん」と小さく零した。

「あのさ……アッコわかる?隣のクラスの」

 唐突に話題に上がったのはアッコちゃんだった。隣のクラスのアッコちゃん。及川くんの彼女。
 そうか、彼女のこと、アッコって呼ぶんだ。それだけで二人の距離感がわかってしまう。
 私は、「知ってるよ」と頷いて、もう中身が空になってしまったジュースをなんとなく揺らした。

「まあ、その、そこそこ仲良いんだけど」

 まあ、彼女ですしね。私はまた頷く。

「よく、苗字さんの話題に出てて」
「……私が?」
「あ、言っとくけど悪口とかじゃないからね、普通に。なんか、卓球のペア及川と同じクラスの子だよーって」

 そうか、アッコちゃんは隣のクラスだ。彼氏との会話のネタとして私の名前が上がっても不思議じゃない。

「それで、向こうはいっつも名前ちゃんって呼ぶから移ったというか、うん……なんかごめん」

 さっきの私より言い訳じみた言い訳。そんなに謝ることでもないのに、と思いながらも、確かに私が急に友達の彼氏を本人の前で名前呼びをしてしまったら気まずいな、とも思う。
 でも、この空気は友達の彼氏という微妙な関係だから気まずいとか、そういう雰囲気じゃない。チラリと盗み見た及川くんは本当に照れ臭そうで、その顔には"やってしまった"と書かれていて、私はその空気に飲まれてしまった。頬が熱い。

「びっくりしたけど、平気だよ」

 平気なわけない。私だって恥ずかしい。

「そっか。ホント、ごめんね」

 及川くんはしつこいくらい謝るものだから、私は何度も首を横に振らなければならなかった。

 ギクシャクした空気を纏って私たちは再び歩き出した。さっきまでの軽快なトークは見る影をなくした。当たり前だ。さっきまで会話の手綱を握っていたのは及川くんであり、私じゃない。その及川くんが不調とあれば、私たちの会話が盛り上がるわけがない。
 続かない会話の気まずさを誤魔化すためのジュースはもう空っぽだ。せめて思考をどこか遠くへやってこの場を乗り切ろうと、手に持った紙パックをいつ捨てようか悩むふりをする。いつもはしないくせに、角を開いて平らにしたり、小さく丸めたり。
 ようやく分かれ道が見えてきて、私は少しでも早くあそこにたどり着きたいと願っていたころ、及川くんが口を開いた。

「ちょっとだけ寄り道してかない?」

 やけにはっきりと大きな声だった。その声につられて見た及川くんの表情は固かった。いつもの柔和な雰囲気はない。また空気が変わった。
 今度は私が視線を泳がして、最後に紙パックを見ながら頷いた。手の中にある紙パックは、硬くてこれ以上小さくできないくらいになってしまった。

 寄り道といっても、店に入るほど時間があるわけでもない。もう夕方も終わろうとしているのだから。川の土手に並ぶベンチを見つけて座った。お互い端と端に座り、真ん中にはそれぞれの荷物を置いた。私はスカートの横に小さく丸めた紙パックを置いた。会話はほとんどなく、相変わらず気まずい。
 川の近くは温度がぐっと下がり、空気が冷たかった。ここに座ったのは失敗だと気付いたのは私がクシャミをしたころだった。ブレザーの上から両腕をさする。

「さむい……」

 思わず零した私の一言に、隣に座る及川くんはエナメルバッグを漁りだし、中身を取り出していく。一体何事か、と私は及川くんを見た。二人の間には、制汗剤やタオル、制服にトレーナーと次々に物が積まれていく。しかし、目当ての物は見つからないらしく、彼は「あれ?」と首を傾げた。

「何か探してるの?」
「ブレザーなんだけど……部室に忘れたっぽい」
「明日の朝辛いね、寒いし」
「まあそれは適当なもの着とけばなんとかなるんだけどね」

 及川くんはそう言いながら、ポイポイと出した物を直していく。案外几帳面ではないらしく、カッターシャツをくしゃくしゃに丸めて詰め込んでいたのには少し笑ってしまった。さっきから、教室の及川くんの影すら見当たらない。
 笑われたのが恥ずかしかったのか、「いつもならちゃんとしてるから」と弁解する及川くんがまたおかしくて、「私の弟もこんなもんだよ」とフォローにならないフォローをした。

 ようやく機能してきた会話に、空気が温まっていく。ほっと安心したのもつかの間で、すぐに別の空気が作り出された。及川くんが、着ていたジャージを脱いで私に寄越したのだ。「寒いし、着て」受け取った白いジャージを持ったまま、私はうろたえた。
 及川くんは、クラスメイトだ。アッコちゃんの彼氏。流石にこれをなんの躊躇もなく羽織ることは出来ない。
 それを嫌がっていると勘違いしたらしい及川くんは、矢継ぎ早に続ける。

「ほら、俺が誘ったのに風邪引かせると悪いし!汗乾いてから着てるから!毎日洗濯もしてるし……でもごめん……臭いかも……」

 段々自信がなくなってきたようで、最後は尻すぼみとなっていく及川くんに、私はそうじゃない、と首を振った。脱いだばかりの及川くんは半袖になって、太い二の腕を覗かせている。随分寒そうな姿に、これを理由にしようと、「嫌とかじゃなくて、及川くん寒いじゃん」と遠回しに断る。しかし、すぐさま彼は、「長袖あるから!」とさっきしまったばかりのエナメルバッグの中からこれまたくしゃくしゃになったトレーナーを取り出して被った。
 逃げ道がなくなり、私には大きすぎるジャージを見て、何度か握った。

「あー……その、アッコちゃんに、悪いし」

 言ってから、今一緒に帰っていることすらマズイ気がした。誰かに見られていたらどうしよう、と周囲を見渡す。部活終わりのこんな時間、川辺には知り合いはいなさそうだった。一安心して、「だから、返す」と及川くんにジャージを返そうとするも彼は受け取ってくれない。キョトンとした顔をして私を見ている。

「なんでアッコに悪いの?」
「え?だって……彼女なんでしょ?」
「はあ?」

 及川くんは素っ頓狂な声を上げる。その声の大きさに私は驚きながらも、あれ、と首を傾げる。

「違うの?」
「違うよ!」
「でもみんな噂してるよ」
「中学一緒だから仲良いだけ!」

 私の頭は、今朝、及川くんの前で笑うアッコちゃんを引っ張り出していた。あれは、アッコちゃんの片思いということか。
 ならばこれまでの及川くんの行動も頷ける、となったが、それはつまりーー

「俺、彼女いないよ」
「……うん」

 彼が私に気があるように思えることも含まれるということだ。

「だから気にせず着てよ」

 そうやって促され、理由のなくなった私は一言お礼を言って、恐る恐るジャージに袖を通した。「臭くない?」と私の様子を窺う及川くんに、「大丈夫」と返して前を閉める。
 襟首の隙間から漏れ出す自分とは別の匂い。なるべくそれを吸わないように、斜め上を向く。川の対岸を歩く人を見ているんですよ、というように。及川くんのジャージを着ているというどう表現すればいいかわからないこの感情に、気をとられないように必死だった。

「あのさ」

 その声に、ちら、と及川くんに視線をやるも、その横顔は川の向こうを見ていた。心なしか、頬が色づいている。

「やっぱり、名前ちゃんって呼んでいい?」

 気まずさを誤魔化すためのジュースはもうない。私はスカートの横に置いた小さくなった紙パックを握りながら、小さな声で答えた。「いいよ」と。


2017.1.18

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