私の屋敷での生活は化粧を落とすことからスタートした。
 彼女曰く、「化粧した召使いなんて聞いたことある?」とのこと。「そういう人もいるんじゃ?」という私の疑問に対する答えは返ってこず、問答無用とばかりに顔に向かってタオルを投げつけられた。
 未だ状況をよく飲み込めていない私を、二人部屋だったという彼女の部屋にある後輩の作業服に着替えさせられ、それなりに努力して整えて一つに束ねていた髪の毛は、彼女の手によってぐしゃぐしゃにされた。いくら背格好や雰囲気が似てるといっても、「顔を見られたらやばい」とのことで前髪とマスクで顔を隠し、常に俯いておくよう指示された。

「ここ、開くようになっているから。服とか入れときな」

 そう言って彼女は部屋の床板を外した。綺麗とは言い難い隠し場所。せっかく買った服に棘が付きそうだったがここは仕方ないと諦めて、屋敷に来た時着ていた服を畳んで入れた。赤いシーグラスのついたヘアゴムは失くさないように掃除用エプロンのポケットへ仕舞っておいた。

「今からあんたは掃除婦で、あたしはあんたの先輩。他の人とは一切話さないこと!」

 そうして、私は掃除婦となった。



 掃除婦の朝は早い。
 そして、寝ぼけ眼の私を叩き起こすのは、先輩の役目だ。彼女はいつから起きているのだろう。三日中三日とも、私がまだ覚醒しきってないうちに硬い布団を抜け出し、音を立てないようにドアを抜けていく。どこへ行っているのか聞いても、「花に水遣りをしているだけ」と素っ気なく言うばかりだ。

 日が昇りきる前に身支度が終わる頃、私たちよりも更に活動の早い使用人が部屋の前に置いていく朝食にありつく。置かれた朝食は、かたいパンと冷えたミルクのみ。昇ってきた太陽を眺めながら、ミルクに浸してなんとか噛みきれる硬さのパンを頬張る毎日だ。
 バイトの残り物を食べれていた日常を恋しく思う。つい三日前まで、私はそれなりな生活を送れていたのに。
 ため息をついた私を見て、先輩は私の頭を軽く小突いた。

「朝からしけたツラしてんじゃないわよ。鬱陶しいわね」

 彼女は"先輩"と呼ばれることを望んだ。名前は教えてくれない。「ここでは必要ないから」だそうだ。事実、私の前任者の名前すら先輩は知らなかった。
 私の名前も呼ぶことはなく、呼びかける時は「ねえ」「ちょっと」「あんた」といった可愛げのないものだ。
 先輩以外の人達からは、名前を呼ばれるどころか関わることすらない。皆、どこか虚な目をしていて、他者に興味が無いようで、自分の役割をこなすことに懸命だ。そのお陰で私はニセ者だとバレずにいる。

「先輩、朝からきつい……」

 先輩といっても、彼女は私と同い年だ。それに、私はいわば彼女にとって命の恩人。だから、私は特に敬語を使ったりはしない。
 あの時「殺される」と言った先輩は青い顔をしながらも、「同室の後輩を逃したとなれば、あたしの罪になる。間違ったとはいえ、そのあたしが連れてきたあんたも同罪、ただじゃ済まないわよ」と続けた。ようするに、彼女は私を脅したのだ。
 首を縦に振るしか無い状況だったとはいえ、私という命綱で先輩は生き長らえているわけなのに、彼女の気の強さは一級品。私に対するそれは恩人に対するものとは思えないものだ。
 そもそも、先輩に私を帰すつもりはあるのだろうか。「いつまでこうしていれば?」と何度か問いかけているものの、明確な答えが帰ってきたことは一度もない。

「文句言ってる暇あったらちゃっちゃと食べなさい。もうそろそろ出るわよ」

 そう言って、先輩はマスクを着ける。私はパン屑の浮いたミルクを飲み干して、同じようにマスクを装着した。そこで、私はすべき事を思い出してマスクを顎までズラして先輩に声を掛ける。

「先輩、ちょっと行く前に携帯見ていい?」
「また?何回見ても同じなんでしょ」
「まあ、そうなんだけどさあ……一応」

 面倒臭そうに顔を顰める先輩をよそに、私は床板を上げて隠し場所を開いた。
 昨日、思い切ってクラピカに連絡をしたのだ。『どこにいるの?』と。電話もかけた。しかし、反応は無く、留守電に切り替わったタイミングで私は通話を切った。
 喧嘩みたいな状態になっているからかも、謝罪の言葉を最初に送れば良かったかも、怒っているのかな、と一晩悩んだが、クラピカはそんなことで連絡を無視するような性格をしていない。だから、これは私への拒絶ではないはずだ。
 なんて、半ば願いも込めつつコートに忍ばせた携帯を見るが、今も着信や返信は無い。

「ほら、なんもないんでしょ。早く行くわよ!」
「うん……」

 ここに来てから三日、クラピカの姿はない。先輩も金髪の男の子なんて見た覚えが無いと言っていた。見落としたのでは、という可能性は低いらしい。この屋敷には男は少なく、もし男がいたら目立つそうだ。
 ついでに情報屋が言っていた家出少女についても聞いてみたが、先輩は知らないの一点張りで、それ以上何も答えてくれなかった。彼女は無事なのかどうか、存在すらわからないとなれば知る術がない。
 クラピカの携帯のGPSは、いつもこの屋敷周辺に矢印を指している。一体どこにいるのだろう。



 屋敷は広く、部屋数も多い。掃除をするのも一苦労だ。本来ならば二手に分かれて仕事をするのが効率的だが、私を一人にしてニセ者だと気付かれてしまったらいけないため、常に私たちはセットで動くことにした。
 屋敷で働く者はそれなりにいて、すれ違うことも多いので、日中の私はほとんど下を向いている。そのせいで、三日経っても屋敷の間取りを覚えられない。

 暖炉周りに飛び出した灰を箒で集め、ゴミ袋の中に入れた。ザッと音を立てながら、細かいチリが舞い上がる。目に入らないように手を振ってその空気を避けた。次はフローリングを拭きあげようと掃除用スプレーを床に吹きかけようとしたとき、
「ちょっとあんた!」と先輩が声を荒げた。

「これは火の近くで使うなって言ったでしょ!」

 先輩の指す"これ"とは掃除用スプレーのことだ。はあ、と気の無い返事をよこす私から、先輩は掃除用スプレーを取り上げて、くるりと反転させる。裏面には、『火気厳禁』と大きく記されていた。

「でも、暖炉の火も消えてるし……」
「馬鹿。もし火種が残ってたりしたら引火するのよ。気をつけなさい!
 それからあんた、掃除の仕方がなってないわ。もっと腰を落として力込めて踏ん張りなさい」

 先輩は厳しい。
 私は「はーい」と少しだけ口をすぼめて腰を落とした。そもそも、私がこんな仕事する羽目になったのは彼女のせいなのに。

 当初、彼女と仲良くなろうと私は色々身の上話をした。学校を卒業していることや、おばあちゃんの代わりに大家になっていること、お惣菜屋で働いていること、友達を探しにきたことを赤裸々に話し終えた頃、彼女はポツリと言ったのだ。「あんたとあたしは住む世界が違うわね」と。
 先輩が厳しいのは、彼女にとってここでの生活が"生きるための全て"だから。先輩にとって掃除をすることと身の保障はイコールらしく、だから求められたことを完璧に仕上げなければならない、と。私と違い、あまり自分のことを話したがらない彼女が話してくれた。
 彼女にしてみれば、私は甘えたお嬢さん。「自分がどんなに恵まれているのかわからないんでしょうね」と先輩は私を皮肉った。

「さっさと終わらせて次行くわよ!ノロマ!」

 だからって、私に当たりがキツイのは違うと思う。

 次の部屋へ移動しようと廊下に出たとき、私たちの方へ向かって歩いてくる人物がいた。先輩はすぐさま私に視線で合図を送り、私もそれに応えて下を向く。顔を見られてはならない。
 近づいてくる足音は二つあった。頭を下げたままの私の近くで、先輩が小さく零す。「市長だわ」と。一番会いたくない相手だ。その一声に心臓がどくんと脈打ったが、平常心を保つために浅く息を吐く。
 大丈夫、今の私は掃除婦だ。マスクもしてる、下も向いている、ただの掃除婦の顔なんて市長が覚えているはずがない。バレっこないはず。
 そうやって心の中で自分に言い聞かすものの、コツコツと足音が近づくにつれ、毛穴という毛穴から冷たい汗が噴き出す。

 この瞬間、もしもバレたら私はどうなる?先輩は?

 そんな私の心配をよそに、市長は私たちの前を通り過ぎていく。俯いた私に見えるのは、市長のスラックスから覗く革靴と、半歩遅れてついてくる低いヒール。秘書だろうか。
 先輩と二人、すれ違う瞬間、彼らに「おはようございます」と当たり障りない挨拶を投げかけた。私は出来るだけ小さな声で、先輩は私の声をかき消すように大きな声で。
 三秒も経たず私の視界から彼らの足元は消え、マスクの中で安堵のため息をついた。そのときーー

「君、ちょっと」

 緊張が走る。
 あろうことか、市長は振り返り声を上げた。思わず顔を上げそうになる私を制するように、先輩が、「はい、何でございましょうか!」と威勢良く返事をした。しかし、市長は「君じゃない」と断ち切る。

「そっちの彼女だ」

 二度目の緊張が走った。
 さっきと違い、市長のいう"彼女"は確実に私を指している。コツコツと踵を鳴らして、市長は私の目の前に立ったのだから。
 緊急事態だ。私はどうしようか逡巡するが、名案なんて浮かばない。それに、いつまでも市長を無視して俯いているわけにもいかない。私は恐る恐る、顔を上げた。

「なんでございましょうか?」

 目の前にいる男は、ポスターの写真よりくすんで見えた。この距離で見える肌は年相応に弛み、毛穴が見えた。キリッとした年配の女性好みの顔立ちも、どこか小難しく神経質な顔に見えた。これがおぞましい趣味を持った男の顔か、と思うと背筋が凍った。
 市長は品定めをするように、下顎を摩りながら、私をじっくりと見つめる。私はその様子をただ見るしか出来なかった。まるで蛇に睨まれた蛙だ。私はただただバレませんように、と願うことしか出来ない。

「マスクをとって」

 そんな願いも虚しく、市長は核心をついてきた。どうすれば、と先輩に視線をやったが、彼女は諦めたように小さく頷くだけだった。
 もはや万事休す。私も諦め、マスクのゴムを外そうと耳に手をかけたとき、予想だにしないところから助け舟がやってきた。

「市長、これ以上ここで立ち止まっていては約束の時間に遅れてしまいます」

 市長の後ろに付いていた秘書らしき女性がそう言って市長を急かした。さあ早く、と言わんばかりに軽く彼の背中を進行方向へ押す。

「ああ、そうだったな」
「急ぎましょう。客人を待たせるわけにはいきません」

 私はこのとき、ようやく秘書らしき女性の顔を見た。金髪を高く結い上げた美しい少女ーーのはずが、どこか見覚えがある。その背丈も、声も、よく知っているものなのだ。名前を呼んでしまいそうなのを寸でのところで留めて、代わりに唾を飲み込む。

 市長と共に私たちの前を去っていくその後ろ姿が見えなくなるまで、穴が空くほど見つめた。尻尾のように揺れる金の一房は、どこから生えているのやら。

「あたし、もうダメかと思った」

 先輩はズルズルと壁を背にしゃがみ込んで、体を守るように抱える。今更ながら震えてきた、と弱々しく笑う。

「私も」

 そう言って自分の震える手を見せて、私は頬を引きつらせた。同じ震えでも、私の震えの原因は先輩とは違う。

「市長と一緒にいた人って……?」
「新しい付き人よ」

 私は先輩が言っていたことを思い返していた。金髪の"男の子"なんて見たことがない、と。確かに、彼女は嘘をついていない。

 私の探し人は、"女の子"として潜んでいたのだから。



2017.12.14

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