「あーあ、こりゃまた惨いですね」

 名前はそう言って顔を歪め、故人となってしまった者に両手を合わせた。
 川から引き上げられた死体は、あらぬ方向に四肢が曲げられ、人の手による仕業とは思えない状態である。正に自身の言うような「惨い」死体を前に、名前は機敏な動きで手袋をはめ、その身体に触れる。生体反応の無い瞼を押し上げ、「完璧死んでます」と確認するまでもないことを述べた。

「事故か殺人か……。考えるまでもねーな」

 名前は先輩である男の言葉に相槌をうち、自身の懐から手帳を取り出すと付箋の貼ったページを開いた。詳細に記された経過記録を要点をかいつまんで読み上げる度に、徐々に二人の表情は険しくなっていく。

「こないだのご遺体と現場の状況も死体も全く同じ状態ですね。連続殺人事件ってやつですか」
「おいおい、下手なこと言うなよ。そうなれば大至急犯人を捕まえなくちゃならないじゃねーか」

 先輩は額に手をやって、腰についた手錠を揺らした。勘弁してくれよ、と零す先輩の気持ちは名前にもよくわかった。

 名前は警察官であり、新米の刑事だ。
 巨悪に立ち向かうという崇高な志のもと警察官となったわけではない。幼少期から体を使うことを得意としていたため、それを活かせて、尚且つ高収入で安定した職業を導き出した結果が警察官であっただけである。

 「町のお巡りさん」であったころは、暴れたい盛りの少年たちを追いかけ回したり、道で寝てしまった酔っ払いを担いだりと、その鍛え上げた肉体を使い、それなりに充実した日々を送っていた。
 しかし、この春から配属された刑事という仕事で必要とされるのは彼女の身体能力ではなく、忍耐力だ。事件となれば、デスクの上で膨大な容疑者データと監視カメラの映像を照らし合わせるために何日も費やしたり、地道に聞き込み作業をしたり。勿論、それは新米刑事である名前と先輩の役割である。悲しいかな、テレビドラマであるような「犯人を追いかけて背負い投げ、そして華麗に手錠をかけて……」や「刑事の語りかけにより、犯人が涙を流しながら自首を申し出て……」なんて展開は起きたことがない。

「先輩、やばいです。こないだアレだけ洗っても容疑者特定出来なかったのに、更にこの事件も関連してるとなれば一週間はカンヅメ確定ですよ」
「馬鹿か。一週間どころじゃねーだろ、これは」

 結局のところ、二人は、「これが急を要する連続殺人事件となれば、一体どれだけ職場に泊まり込まなければいけないんだ」と言いたいのだ。遠い目をした二人は、どちらともなく深くため息を吐いた。



 その日を境に何件か似たような事件が続き、あれよあれよと言う間に常軌を逸した連続殺人事件として対策本部がたてられ、名前も召集された。彼女の刑事としての腕前を買われて、というよりは雑用係としての意味合いが大きい。
 別の事件を追っていることを理由に彼女の先輩は今回のメンバーからは外された。「事件解決頑張れよ!」と心底嬉しいとばかりに肩を叩いた先輩の手を振り払ったのは記憶に新しい。
 そんな先輩への恨めしい気持ちを更に高めたのは、名前のデスクに我が物顔で腰掛ける"奴"の存在である。

「名前、殺害現場周辺の地図を頼む。それから、被害者データもプリントアウトしてくれ」

 雑用係として徴収された名前に課されたのは、「賞金首ハンターとコンビを組むこと」であった。
 幼さを残す顔立ちは、自身より遥かに歳下。目上への敬意を知らないのか、先程から人を手下のようにアレコレ顎で使う若造に名前は内心舌打つ。どうしてこんな奴と組まねばならぬのだ、と。

 クラピカというこの若造は、ハンターとは聞こえが良いものの、実際の役職はマフィアの若頭だ。マフィア稼業の傍ら、賞金首ハンターとして活動しているらしい。
 だからといって、今回の事件とどう関係があるというのだろうか。「マフィアと警察の蜜月関係を疑う声が絶たないというのに、これはどういう事態だ」ーーとは、クラピカが対策本部にて「捜査に協力してもらう」という形で紹介された時に、そこかしこから上がった声だ。
 渦中にある人物は何処吹く風で、自身の経歴を簡潔に述べると、「容疑者は特定できている」と言ってのけた。連続殺人事件と断定されたのは、つい先程のことである。容疑者どころか、怪しいと思われる人物すら上がっていないのが現状だというのに。
 自身が追っている賞金首が犯人だとでも言うのか、という問いに彼は「そうだ」と頷いた。「刑事ごっこでもしにきたのか?」とどこからか野次が飛び、捜査員たちはせせら嗤い互いに目を合わせる。
 彼らと同じように含み笑いをしていた名前は、お偉いさんの「彼は、名前刑事とコンビを組んでもらう」という指令により固まった。皆、哀れむように名前を見る。
 ようは、名前は厄介者を任されたのだ。

「地図なら、さっき配布された資料の五ページ目に載ってますよ。被害者データもその中に」
「私の資料には載っていないのだが。それとも、よそ者である私の資料だけこのような状態なのか?」

 見るに値しない、とクラピカは言い捨てて、自身の資料をシュレッダーにかけた。
 そういうことだったのか、とさっそくしくじったことを悟った名前は、「あーあ」と思わず顔を覆って、空を仰ぐ。

 彼からの捜査協力の申し出に、「ハンター」という資格を前にして警察は頷くしかなかったが、その力を借りる気は更々なかった。
 なぜなら、彼はハンターでありながらも、マフィアの若頭だ。
 ここで借りを作るということは、マフィアに弱みを握られることと同義。それこそ蜜月関係が出来上がってしまう。警察の威信にかけて、それは何としても防がなければならなかった。
 だからこそ、警察としては何が何でもクラピカにこの案件を解決させるわけにはいかない。"何故か重要事項が抜けている"資料が彼に渡ったのも、つまりはそういうことである。肝心なのは、上の連中がそのことを名前に伝え忘れていた、ということだ。

「これ以上犠牲者を増やしたくないのならば、君たちの安いプライドは捨てることだな」

 吐き捨てられたとんでもなく尊大な言葉に、名前はその線の細い身体を蹴飛ばしてやりたい衝動にかられたが、拳を握って耐えた。彼はいわば客人なのだ。新米刑事である名前がどうのこうの出来る立場ではない。
 はち切れんばかりに血管を浮き上がらせて、そんな気は毛頭ないが、「善処します」と返事をするのが名前の出来る唯一の反撃だった。



 名前とクラピカがコンビを組んで丸一日が経過していた。
 この短い期間で名前がクラピカについてわかったことは、非常に頭がキレるということだった。新しく渡し直した資料に目を通すと、そこに記されていない殺害状況の類似点を次々と挙げ、名前を驚かせた。
 名前のクラピカ評としては、「自身が今まで出会ったどの捜査官と比べても一番出来の良い奴」であったが、それは捜査についてのみの評価である。その性格においては、他の追随を許さない勢いで最低評価の烙印を押している。
 彼は男でありながら、いわゆる"お局さん"のようなタイプなのだ。

「私が頼んだのはこれじゃない。一度言った時に理解していなかったならば、なぜその時に確認を怠ったんだ?」
「す、すみません。これでいいかなって思ってしまいまして……」
「自分勝手な思い込みで行動しないでくれ」

 ピキ。名前が青筋を立てるのに音がついたのなら、まさにこの音が最適だった。「やり直して来ます」と名前は無理やり笑顔を作って、その場を去った後、隣の資料室に逃げ込むと思いっきり椅子を蹴り倒した。

「なんだあのクソガキ!くっそ生意気な言い方しやがって!こっちはオメーより遥かに歳上なんだよ!舐めんなコラ!」

 自分より目上の上司に言われたのならまだわかる。パワハラ、セクハラ、アルハラ、スメハラ、あらゆるハラスメントに対して甘んじて受け入れるだけの度量はある。しかし、彼は目上の人物でもなければ、上司でもない。自身より幾つも歳下の、顔が良いだけのマフィアの小僧だ。
 名前はストレス発散とばかりに、何度も椅子を蹴飛ばした。穴が開きそうなくらい履きつぶしている運動靴で地団駄踏みながら、心の内を吐き出す。
 ようやく一呼吸ついた頃、ドアをノックする音に気付き、返事をする前に扉が開いた。ギイギイと鈍い金属音を響かせながら開いた扉の向こうに見えた姿に、名前は文字通り凍りつく。

「名前、聞き込み調査に同行してくれ」
「は、はい!今すぐ向かいます!」

 倒した椅子を慌てて立て直し、しなくてもいい敬礼を決めて名前は背筋をピンと伸ばした。「五分後に発つ。それまでに準備をするように」と伝えられ、名前は敬礼をしたまま頷く。
 扉を閉めきる前に、クラピカは言うか言わまいか少し視線を下げたのち、どこか冷めたような眼差しを名前に向けて言い放った。

「……ところで、さっきのようなことはもう少し人目につかないところでした方がいい」

 見られていたという事実に、名前は内心叫び声を上げて逃げ出したかったが、実際は乾いた笑いを浮かべるしか出来なかった。
 そうして思うのだ。お前が来なければここは人目につかない場所だったのだぞ、と。



「今回の事件ですが、なぜ我々に捜査協力を持ちかけたんでしょうか?」

 クラピカは容疑者が居そうな場所を虱潰しに探す、というやり方はしなかった。彼は何故か隠れ場所がわかっているかのように特定の場所を指定して動くのだ。そして、容疑者の現れるであろう場所に二人はいた。容疑者の尻尾はもうそこまで見えてきている。
 たった二人のコンビだ。道中、無言でいるのは辛いものがある。だからといって世間話を交わすほど二人の仲は深まっていない。単純に、話のネタがそれしか無かったから。名前がその質問をした理由は、それだけだった。

「それは君の職務に必要な話か?」
「い、いえ、ただの興味本位です……すみません」

 暗に無駄口を叩くな、と言われている気がして名前は口を噤む。名前からすれば、威圧的な物言いに聞こえたが本人としてはそうでも無かったらしく、「ハンターといえども、やれることには限度がある」と淡々と答えた。

「ふうん、そうなんですか。何でもありって感じですけどね、ハンターって」
「いいや、大方は君が思っているようなところで違いない。ただ、私はマフィアでもあるからな。法を犯すやり方は好んですべきでないだろう」

 今日のクラピカはよく喋った。容疑者を捕らえるためにそう時間はかからないからか。自分の無駄話に付き合ってくれるくらいには気分が良いらしい。
 しかし、聞きたかった捜査協力を持ちかけた目的についての答えとも言えず、名前は煙に巻かれた気持ちだった。
 賞金首ハンターとマフィア業の兼ね合いは難しい、ということだろうと名前は自分を納得させることにした。別にその解釈が嘘でも真でもどちらでも構わない。詳しく彼のことを知りたいなどとは思っていないのだから。



 元雑用係・現厄介者係の名前と、その厄介者であるクラピカは、驚くべき早さで容疑者を追い詰めていた。一週間のカンヅメどころか、たった三日での成果である。その成果のほとんどはクラピカの手柄であるが、雑用係として鍛えた力を粛々と彼の指令に従うことに使った自身の尽力あってのものだ、と名前は密かに思っている。

「たッ、助けてくれ!」

 容疑者は、クラピカ曰く、「超能力のようなもの」を使う−−「そのため、容疑者は私が捕まえる」と彼から名前へ事前に伝えられていた。名前はその場では従順に理解したふりをしておいたが、内心「超能力だなんて、まさかそんな夢物語な」と馬鹿にしていた。
 しかし、現実はどうだ。たった今、彼女の目の前で犯行は行われようとしていた。苦しそうにのたうち回りながら助けを求める男性の姿を名前の瞳が捉える。人間業とは思えない力で、彼の足はあらぬ方向へねじ曲げられている。あの時の死体と同じである。違いは、まだ生きている、というだけ。
 自身の想像力を超えた光景に、刑事になって以来鈍っていた名前の身体は恐怖に固まり、ヒュッと喉の奥が鳴った。
 ーー自分はこの化け物じみた悪党相手に戦えるのか?拳銃と、鈍ったこの身体で?
 ぐるぐると名前の脳を占める恐怖は、彼女の身体をも支配する。警察官となった時に支給された拳銃と手錠は、自身の腰に携えている。しかし、今の名前は拳銃を構えるどころか指一つ動かない。
 その情けない身体を突き動かしたのは、クラピカの一声だ。

「名前!何を呆けている!君は救助に当たれ!」

 言うや否や走り出したクラピカに、名前はハッと我に返った。そして、すでに後ろ姿となってしまったクラピカに、名前は叫ぶ。

「銃は!」

 その返事を待たずとも、ぐんぐんと離れていく背中が、ジャケットの内ポケットから銃を取り出しトリガーを引く様が見えた。たちまち辺りに銃声が響き渡る。鳥たちが羽ばたいた。
 法を犯すことを好まない、などと口にしたのはなんだったのか。名前は、「じゅ、銃刀法違反……」と場違いなことを呟いて、今はそんなことを言っている場合ではないと首を振る。ふう、と重い息を吐き出して気持ちを入れ直した。自分のすべきことは人命救助と現場保全だ、と。すぐさま無線で応援を呼び、救急車を手配し、男の介抱に当たった。

 名前が応援よりも先に到着した救急車に男の救護を引き継いだ頃、クラピカは現れた。どこから調達したのか、彼が引き連れた犯人には鎖が巻きついている。

「彼は無事か」
「はい、足は酷いもんでしたけど、命に別状は無さそうです。そちらは?」
「見ての通り問題ない。手錠を頼む」
「え?あ、はい!」

 彼はマフィアなのだ。銃と違って手錠は携帯していない。名前は妙なところで感嘆しつつ、犯人の手に手錠をかけた。

「お手柄でしたね」

 それは名前の素直な気持ちだった。ここまでの手柄は全てクラピカあってのものであり、自分はただ付いてきただけだ。雑用をこなした自分あってのものだ、なんて自惚れもいいところだったと今更ながら思ったのだ。
 クラピカは確かにお局のごとく嫌な性格をしているが、その実力は確かだ。名前は悔しながら、クラピカを見直していた。
 クラピカは「ああ」と無感情に相槌を打つと、和らぐことを知らない声色で続ける。

「君はもう少し動けるようになった方がいい。仮にも刑事だろう」



「いやー!お手柄だったらしいじゃねーか!」

 バシバシ、と自身の肩を叩く先輩の手を例のごとく振り払い、名前は今朝からムスッとして戻らない顔を彼に向けた。

「残念ながら、事件解決してしまったせいで、上にはこっ酷く叱られました」

 当初述べたように、警察としてはクラピカに事件を解決させる気は無かった。そのため、普段は雑用ばかり押し付けている新米刑事の名前とコンビを組ませたのだ。
 しかし、いざ蓋を開けてみれば、二人は警察では特定出来なかった容疑者を炙り出し、現行犯逮捕にまで至った。異例の事態である。マフィアが事件を解決したとあっては、警察のメンツは丸潰れだ。

 あの後、現場に駆けつけた直属の上司は名前の頭を力の限り叩いて、「阿呆!」と怒鳴りつけた。パワハラ、暴行、なんでもありか、と名前は内心毒づいたが、上司が何故怒っているのか気付き青ざめた。その時になってようやく自分の本来の仕事は「クラピカに事件を解決させないこと」だったと思い出し、やってしまったと後悔するがもう遅い。平身低頭することしか出来なかった。

 そこからの警察の動きは早かった。表向きは警察の手柄ということにするため、急遽名前は「連続殺人事件をスピード解決したやり手の新米刑事」として担ぎ上げられた。その為に朝から警察御用達の記者クラブにインタビューされるはめになり、心身共にクタクタだ。勿論、今回解決に導いたのは名前でないという事実を話すことはタブーとされ、用意された原稿を読み上げる度に彼女の不機嫌は募った。

「まあまあ、上の評価は悪くても、これだけ顔が売れたんだ。どっかの奇特なお偉いさん辺りが引き上げてくれるさ。お前、出世間違いなしだぜ」
「奇特なお偉いさんって……そんな人に見初められても困りますよ。でも、そうですね。ひとまず雑用係からは脱却出来そうです」
「俺はまだまだ雑用係からは抜けられそうにねーな」

 彼の班が容疑者を追い詰め、いざ逮捕となった瞬間の出来事らしい。一瞬の隙をついてその場で服毒し、応急措置の甲斐なく容疑者はお陀仏。彼らの仕事の上で、こういったことはたまにあることなのだ。ただ、運が悪かった、それだけ。

「いやーほんと参ったわ。あれのせいで、うちの班の今年の評価最悪だな」

 「そういう時もありますよ」と名前は先輩を労った。彼は空元気な笑みを作り、なるべく陽気な声で続けた。

「つーことは、あれか!もし次があれば俺が押し付けられるのかな、あいつ」

 話題転換のはずが、また話が戻ってしまった。
 思わず名前は顔を歪める。次だなんてそんなこと考えるのもごめんだ、と。

「ほら、噂をすれば、なんとやらってやつだ」

 真の立役者が来たぞ、と先輩は小さく零す。彼の視線の先を追うと、クラピカがこちらへ向かって歩いてきていた。名前がクラピカに軽く会釈をすれば、向こうも同じように返す。お互い言葉や視線を交わすことなく、すれ違う。

「おーおー、あっちは署長室だ。どんな取引を持ちかけるのかねえ」
「さあ?組の者が銃の携帯をしていても取り締まらないように、とか?」
「そんなチンケな取引じゃ済まねえだろ。こりゃ、あれだ。薬関係だな」
「それこそしょうもないでしょうに」

 どちらにせよ自分には関係のない事だ、と名前は笑った。
 いつものように軽口をたたきながら、彼女たちは次の仕事へと取り掛かる。一つの事件を解決したからといって、世間から犯罪が無くなるわけではない。



「名前、ちょっと」

 この間の事件の現場で名前を叩いた直属の上司が、やけに清々しい表情をして手招く。行き先は署長室だと告げられ、これは嫌な予感がするぞ、と妙な汗が名前の頬を伝った。

「名前刑事、今日から君には特別任務に就いてもらいます。喜んでください、これは出世コースですよ」

 温和な笑みを絶やす事ない署長は、警察官というより、幼稚園の園長の方が向いている−−そんなことを以前、名前は先輩と嘲弄したことがある。しかし、今ならわかる。どんな時でもこういった笑顔を作れる人間こそ、その席に相応しいのだと。
 名前は心の底から、署長から手渡たされる辞令を受け取るのを拒みたかった。しかし、彼女は所詮雇われの身である。「はい!」と元気良く返事をし、受け取った辞令に視線を走らせた。

「おめでとう、名前!大躍進だな!私も鼻が高いよ!」

 署長室を出る頃には、がっくり肩を落とした名前に上司が嬉しそうに話しかける。厄介事を抱えたお荷物である名前を手放せ、かつ傍目には部下を出世コースへ送り出した有能上司だ。その喜びを隠しもしない、いつもよりワントーン高い声色が名前にとって耳障りだった。
 彼は「課長」と呼びかける名前に嬉々として、「おいおい、もうお前の上司は俺じゃない」と言ってのける。

「今からお前はマフィアの犬なんだからな」

 まあ頑張りたまえ、と自身の背中を大きく叩いた「元・課長」の笑い声が廊下に木霊する。ぐわんぐわんと耳鳴りのしそうな彼の笑い声に、直属の上司でなければもうどうだっていいか、と自棄になった名前は、彼の尻を思いっきり蹴りつけた。八つ当たりでもあったし、今まで受けたパワハラの仕返しでもあった。

「どうも短い間お世話になりました!」

 名前は、今まで政府の犬と揶揄されようが、何も感じなかった。事実、彼女は警察官として働き、国から給料を貰っていたし、当初述べたように崇高な志を持ってこの職に就いたわけではないので、警察官としてのプライドは別に無かった。
 しかし、犬は犬でも、これがマフィアの犬となると話は別だ。

 名前の荷物は段ボール一つで済んだ。「元・上司」が彼女が何か持って行こうと手に取るたびに「それは部外には持ち出し禁止だ!」と鬼の首を取ったかのごとく眉を釣り上げたからだ。
 名前は、やはりあの時あいつを蹴るのを我慢すれば良かった、とスカスカの段ボールの中を覗く。筆記用具と、ノート、道中買った紅茶のペットボトルに、先輩が餞別にくれた警察を舞台に繰り広げられるギャグ漫画が五冊。漫画本に関しては、先輩が全ての巻数を揃えるのは難しいと適当にチョイスした飛び飛びの巻であった上に、コーヒーのシミが着いた中古品である。あとは自身が身につけている警察手帳と手錠、拳銃のみ。
 マフィアの本拠地に乗り込むには、身軽すぎやしないか、と自嘲して名前は高級そうなレッドカーペットの上を、履き慣れた汚い運動靴で踏み歩く。

「ようこそ、我がノストラードファミリーへ」

 自身を出迎えたニコリともしない新しい上司を前に、名前はいつか彼の眉間に拳銃を突きつけてその澄まし顔を崩してやりたいと望むのであった。


2017.11.16

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