おばあちゃんが倒れた。

 歳のわりには若々しくて、数ヶ月前に会ったときも背筋を伸ばしてピンと一人で歩いていたのに、病院でベッドに横たわる姿は一回りも二回りも小さくて一気に年老いたように見えた。何か大きな病気になったわけでもなく、精神的なものからくる体調不良だったらしく、すぐに退院できたのが幸いだったが、その「精神的なもの」の原因は頑なに教えてくれなかった。退院後は私たちの家に住むことになったけれど、アパートの管理人をしているおばあちゃんは「早く家に帰りたい」とばかりぼやいていた。

「おばあちゃん一人にしたらまた倒れるかもしれないから、しばらくは帰れないと思うよ」
「それでも私が帰ってやらなきゃ。ここに居たって家のことばかり考えてるんだもの、余計な心労が増えるだけだわ」

 そうは言うものの、おばあちゃんの望みは残念ながら叶いそうに無かった。倒れてからは足取りが覚束ないものだから一人暮らしは危険と判断して、一人息子である私のお父さんは大層心配してお母さんの許しを得て同居の準備を始めていた。それでも「心配だ、心配だ」とおばあちゃんが口癖のように言うので、私は助け舟を出してやることにした。

「おばあちゃん、それなら私が管理人やってあげる」

 おばあちゃんはぱっと顔を明るくさせて「本当かい!」と喜んだ。両親も二つ返事でオーケーを出した。毎日毎日おばあちゃんの帰りたい要求にうんざりしていたことと、学校を卒業してから暇をしていた私の厄介払いが出来てラッキーというのが両親の本音だと思う。

 生活費はおばあちゃんが出すよ、という申し出に私は有頂天になった。しかし、即座にお母さんから「向こうに行ったらちゃんと働いて自分で稼ぎなさい」と釘を刺され、生活に慣れるまで、という前提条件がついた。

 ひとまず私は「職業:アパート管理人」という肩書きを手に入れた。

「隣に住む子のこと、気にかけてやってね」

 シワシワの手で私の手を包むおばあちゃんに「わかった!」と元気よく返事をして、本日新しい我が城、「アパートメントエレーナ101号室」へと移り住んだのである。



「ごめんくださーい!」

 このアパートは一階建てであり、全部屋合わせても6部屋しかない。格安ではあるが、値段相応の物件であり、廊下の電灯の下には常に羽虫が気持ち悪いほど大量死している。それなりの都会において賃貸における好条件(新築、駅近、スーパー徒歩三分、バストイレ別……エトセトラ)には見事当てはまらず、むしろ幽霊が出るなど傍迷惑なデマまで流されているこのアパートに住もうという有難い住人は多くない。住人は私を含めてわずか三名である。

 その有難い住人二名のために、粗品の熨斗がついたクッキー缶を手に呼び鈴を鳴らすが、どちらも出てくる気配がない。挨拶は管理人として初めての仕事だと意気込んでいたのに、さっそく出鼻を挫かれた。

 留守かな、仕方ない出直そう。

 踵を返し、自分の部屋へと戻る。ドアを閉めようとしたとき、反対に隣の102号室のドアが僅かに開いた。咄嗟に私もドアを開けて、慌てて102号室の前まで出て行く。開きかけたドアの隙間から、金色の髪を揺らした真っ黒の瞳がこちらを覗いていた。

 綺麗な子であるが、どこか仄暗い陰気さを纏っている。年齢は私より幾分か下に見える。きっとこの子がおばあちゃんの言っていた「隣に住む子」だ。

「こ、こんにちは。新しい大家の名前と申します」

 しばらく私を探るように見たあと、その子は軽く会釈し、「近頃イタズラが多かったので」と少女とも少年ともとれる高い声が答えた。どうやら居留守を使った理由らしい。

「そうですか。あの、これからは祖母に代わって私が管理や家賃の回収を行いますので、何かあれば言ってくださいね。これ、大したものではないですがどうぞ」

 前もって考えていたセリフと共にクッキー缶を差し出すと、隣人は「わかりました」と言って、クッキー缶を受け取り、未だ立ち去ろうとしない私に眉をひそめた。

「……まだ何か?」

 おばあちゃん曰く、隣の子の名前はクラピカといい、少女のように見えるが少年である。両親がおらず一人で住んでいるらしい。保護者も身分証も無い状態で家を借りようとしていたそうだ。当然ながらどこの家主も貸してはくれず、見かねたおばあちゃんがこのアパートに入れてあげたらしい。
 管理人になるとなってからこの話を聞かせれたとき、「悪い奴だったらどうするの!」と私は非難したのだが、おばあちゃんは「私の見る目は確かなのよ」と老いた瞳を輝かせて笑った。

「あの、おばあちゃ……祖母にあなたの手助けをしてあげるよう言われてるから、遠慮しないでなにかあれば気軽に頼ってね」

 年の近い頼れるお姉さん、という印象を与えたくてできるだけ親しみやすく笑ってみたものの、彼はにこりともしなかった。

「……エレーナさんには世話になったが、あなたにまで世話になるつもりはない」

 つっぱり言い切ると、彼はそのままドアを閉め、おばあちゃんに気にかけるよう言われていたので少し世間話でも、と思っていた私は呆然とその場に立ち尽くしていた。そんな私にお構いなく、間髪入れず鍵を掛ける音が聞こえた。


2017.6.25

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