お金というのは生活の質を向上させてくれる。大金を手に入れた今の私は、ホテルのルームサービスを値段を見ずに頼むことだってできるし、クリーニング屋さんではデラックスコースを迷わず選択できるし、行きたいところまでタクシーに乗ることだってできるし、ショッピングモールに出店したばかりだというシュークリームをたくさん買うことだってできる。無敵な気分だ。
 
「こないだはありがとうございました!というわけで差し入れです!」
「……どーも」
 
 「帰りな」が口癖だったリンセンさんが呆れ顔でシュークリームの箱を受け取る。てっきり断られると思っていたのに。私が驚いていると、「あんたと押し問答するのは疲れるんだ」とリンセンさんはため息をついた。そんなに押しが強いつもりはなかったのだけど。首を傾げていると、「で、どうする?」とリンセンさんが問いかける。
 
「どうするって?」
「このまま帰るのか、それともいつものをするか」
「あ、なるほど。もちろん、入れてください!」
「……まあ、そうなるよな」
 
 そろそろ、リンセンさんの「帰りな」が出るぞ……!と次の手である「センリツさんに借りた服を返したいので入れてください!」を言うつもり満々だったのに、今日のリンセンさんは恒例の台詞を言うつもりはないらしい。大袈裟なため息をついたあと、扉を開けた。
 
「エントランスまでだ」 
「え?い、いいんですか?だって、今までずっと帰りなって……」
「帰らせるように言われたのは最初だけだからな。それに、オレはあんたとやり合うのに疲れたんだ」
 
 強引に入れてもらった一度目と違い、招かれて入った二度目はソファに座ることを許された。前回と代わり映えのしないこの部屋は彼いわくエントランスらしい。私が住んでいたアパートの一室より広いのに。
 今日は強面の人たちもいて、そのうちの一人が体格に似合わない小さなティーポットとカップを持ってきてくれて私に紅茶を振る舞ってくれた。彼らとソファに座り、一緒にシュークリームを食べる。この前までなら考えられなかった光景だ。
 「あんたの粘り勝ちだな」と彼らは笑った。パソコンが置かれている別の机に座ったリンセンさんは「聞こえているぞ」と疲れた顔をしたままシュークリームを食べていた。
 
「ホテル泊だろ?よく金が保つな」
 
 彼らはそのうち金が底をついて来なくなると思っていたらしい。カジノで当てたと言うと一様に驚いていた。その後色々あってセンリツさんが迷惑料として追加でお金をくれたことはさすがに黙っておいた。
 「ルールわかってんのか?」「そんな格好じゃいけねーようなとこだぞ」「賭博の才能があるように見えないのにな」なんて散々なことを言われた。その通りなので否定はしないけれど、なんだか馬鹿にされているような気がしてむくれていれば笑われた。
 なんだよ、もう。彼らに対して、最初の頃のような怖い気持ちはもうなくなっていた。
 
 
 
 エントランスまでという条件付きではあるが、気軽に訪れられるようになったノストラードファミリーの事務所――よくわからないけれど彼らはアジトではなくこう呼ぶ。なんだか会社っぽい。――に私は今日も入り浸っていた。一度、リンセンさんに「暇なのか?」と聞かれ、強く頷いたらすごく微妙な顔をされ、それ以上追求されなかった。あのときはなんだか無性に情けない気持ちになった。だってこっちで職がないから仕方ないじゃない!
 ちなみに今日はリンセンさん以外の方たちはボディーガードの仕事らしい。意外に真っ当な仕事だと私が驚いていると、「今はクリーンなんだよ、ここは」と言われ、マフィアの定義ってなんだろうと思った。
 そして不思議なことに、マフィアの人も事務仕事をしなきゃいけないようだ。一体何の仕事をしているのかわからないけれど、リンセンさんはいつもパソコンと仲良くしている。もう一度問いたい。マフィアの定義ってなんだろう。
 
「リンセンさん、すっごく今更なこと聞いていいですか?」 
 
 リンセンさんはパソコンを睨みつけていた目をちらりとこちらに寄越した。質問してもいいらしい。
 
「クラピカって本当にここにいます?エントランスにいるのに全然会えないし、本当は全然別の場所にいたりして……」
「今更すぎないか?」
「ははは……ほんとに……」
 
 実はずっと疑問だったのだ。同じ建物にいるはずなのに、一度も顔を見たことがない。結構長居したりしているのに、たまたま鉢合わせることすらしない。ここが出入り口のはずなのに。
 「いないと答えたらどうするんだよ」と呆れ顔をしたリンセンさんがまたパソコンに視線を戻す。
 
「えっ!いないんですか!?」
「出掛けてるときの方が多いが、あんたがいないときは普通にここにも顔を出してるさ。それに裏口はいくつもある。あんたがいるときはそっちを使ってるんだろ」
「うわあ……露骨ぅ……」
 
 避けられている理由についてはなんとなくわかっているつもりだ。きっと前と同じ。けれど、そうまでして避けられていることを他人の口から聞くのは結構なダメージだった。
 しょんぼりと肩を落としていると、リンセンさんは「露骨過ぎてもはやそれが答えみたいなもんだな」と独り言のように呟いた。うん、私もそう思います。

「結局、どういう関係だったんだ?恋人ってふうには見えないが」
「うーん……どういう……友達というか……どう説明すればいいかなあ……長くなりそうだけど、聞いてくれます?」
「いや、いい」
「え〜!?聞いてくださいよっ!そんで相談乗ってください!」
「あんたオレのこと何だと思ってるんだ……?」
 
 なぜマフィアにいるのかわからない苦労人っぽいいい人。そう言えば、リンセンさんはまたため息をついた。そういうところなんだけどな。
 
「だって、本当は私のこと、ここに入れるのもだめなんじゃないですか?なのに入れてくれるし。いい人じゃないですか」
 
 以前、リンセンさんは「帰らせるように言われたのは最初だけだからな」と言っていた。けれど、最初に言われたことは言われなくても次からも同じ対応を取らなければならないはずだ。性懲りもなく通い詰める私が言える立場ではないが。
  
「……そんなんだから避けられてるんだろ」
「え?そんなんって……い、嫌味ですか……?」
「褒めてる」
「褒めてる!?」
 
 今のに褒める要素がどこにあったのだろう。つい今しがた言った言葉一つ一つを思い返してみても全然見当たらない。理解できない、と困惑の表情を浮かべていると、彼はちらりと私を見ると疲れ顔のまま、僅かに口端を持ち上げた。
 
「オレたちはいつも振り回される側だからな。たまには逆になるのもありだと思ったんだ」
 
 リンセンさんはさっき以上にわからないことを言う。「よくわかりません」と不満を口にした私に、リンセンさんは「わからなくていいんじゃないか」と投げやりに答えた。よくないのに。
 エントランスにある扉は入口と、他に三つ。三つある扉のうち、一つは小さめのキッチンで、もう一つはトイレと手洗い場だそうだ。なら、残りの一つ。その先にクラピカへ繋がる道があるのだろうか。外から見たとき大きな建物だったのだから、扉の向こうはさらに広い廊下があって、その先にもたくさん扉があるはずだ。何階建てかもわからない。ああ、私はいつクラピカへ辿り着けるのだろう。
 見えない未来に少し落ち込んで、ソファの肘置きに頬杖をついて目を瞑る。そのせいか、リンセンさんがキーボードを叩く音が響いた。それがやけにリズミカルで楽しそうに聴こえた。
 
 
 
 私がエントランスでリンセンさんやボディーガードさんたちと開催しているお茶会に、ときどきセンリツさんも参加する。参加当初、センリツさんは「ここまで許しちゃうなんてね」とリンセンさんに物言いたげな目を向けていたけれど、「入口で無駄な問答を続けている方が目立つだろ。どうせ来るなって言っても来るんだから」とリンセンさんが言うと、目を瞬かせて、最終的には「それもそうね」と納得していた。そして、二人して呆れたような顔でこちらを見てくるので、私はへらへらと笑うしかできなかった。
 彼らにとって私は問題児なようだった。そりゃそうか。何度追い返されてもやってきて、とうとう建物の内側まで入りこんできているのだから。
 
 謎のお茶会のお茶菓子はバラエティ豊かだ。
 私がショッピングモールで新商品を買っていったり、センリツさんが「ここのマドレーヌがとっても美味しいのよ」と上品そうな包装紙を綺麗に剥がして用意してくれたり、リンセンさんが給湯室から適当に持ってきたチョコレートだったり、ボディーガードさんたちが仕事で差し入れてもらったというスナック菓子だったり。飲み物も紅茶だったりコーヒーだったり、ジュースだったり様々だ。集まるメンバーによって話は弾んだり弾まなかったりだけれど、私が紅茶やコーヒーに砂糖とミルクを入れるとき、男性陣が顔を歪めて見ているところが私的には面白かったりする。 
 リンセンさんは基本的に自分の席で仕事をしていて、二人になったあのとき以外はクラピカについて私に聞いてこないし、興味もなさそうだった。私は気になるからクラピカのことを聞くけど、たいしたことは教えてくれない。
 
「クラピカの部屋とかあります?何階くらいにあるんですか?」
「さあ」
「クラピカって今日見ました?それとも出掛けてます?」
「部外者には教えられないな」
「あの、クラピカって……おーい、リンセンさーん」
「……少し黙っててくれないか」
 
 たいしたことどころか、何も答えてくれないという方が正しいかもしれない。リンセンさんは途中から私の存在を無視して仕事モードになったりするので。
 今日はセンリツさんはいない日で、ボディーガードの彼らも途中で抜けて、今は私とリンセンさんしかいない。話を弾ませる気が全く無いリンセンさんの仕事の邪魔をするわけにもいかず、紙袋からクロワッサンを取り出した。高級バターを使っているらしく、バターの濃い匂いがする。ホテルの近くで見つけた行列のできるパン屋さんで買ってきたものだ。
 
「リンセンさん、ここのパン屋すごいんですよ。たくさん並んでて、私も三十分並びました」
 
 リンセンさんはちら、と私に視線を向けると、「……暇なんだな」と辛辣なことを言う。そこは否定できない。
 
「今食べます?」
「いや、後ででいい」
 
 私は一足先にクロワッサンを頬張ることにした。せっかくだから一緒に品評会がしたかったのにな。
 サクサクで、バターの香りが強くて、味も濃厚ですごく美味しい。けれど、私はこれよりもっと庶民的で美味しいパンを食べたくなった。

「すごく美味しいんですけど……昔食べたところのほうが、もっと美味しかった気がします」
 
 出会ってすぐの頃。悲惨な境遇なんて知らない私にとって、クラピカの印象は良くなかった。だけど、図書館で泣きながら寝ている彼を見つけたとき、その儚さに死んじゃうんじゃないかなって漠然と思って、バイトの賄いを置いていった。熱が出たと連絡がきたときも渋々ながら助けに行った。施しだとかなんとか可愛げのないことを言われたっけ。あの頃も私を寄せ付けないようにしていたな。
 あのとき、お礼代わりに買ってもらって二人で分けて食べたパン。高級バターなんか使ってなくて、行列が出来ていなくて。でも、もっとずっと美味しかった。きっと、思い出補正なんだろうな。
 しんみりしだした私にリンセンさんが慰めの言葉をかけてくれるわけもなく、カタカタとキーボードを叩く音が聞こえる。俯くと、その拍子に髪を括っていたゴムが滑り落ちた。カチャン、という音にリンセンさんがこっちを見た。
 大理石の上には不釣り合いな、赤いシーグラス。拾い上げながら、少し泣きたくなった。

「どこまで知っているんだ?」

 なにを、と問い返さなかったのは、この曖昧な質問が指す意味を理解できたから。リンセンさんは二人になったあのとき以外はクラピカについて私に聞いてこない――今、私たちは二人きりだ。

「どこまでって……私から、話せるようなことはなにも」

 私が知っていること。クラピカの過去と彼の目的。例えリンセンさんが知っていたとしても、本人の許可無く簡単に話していい内容じゃない。だから濁して答えた。
 
「それもそうだな」

 手の中にある赤を見つめる。リンセンさんはそれ以上追求してこなかった。きっと、リンセンさんは知っている側の人間だ。おそらく、センリツさんも。私が知っていることも、それ以上のことも、彼らはクラピカについて知っていて。私よりよっぽど頼りになる理解者なのだろう。それが悔しかった。
 キーボードの音すらなくなった部屋は沈黙で満ちていた。その気まずさを破るように電話が鳴った。ワンコール。電話はリンセンさんを呼ぶのに、彼は出ようとしない。ツーコール。液晶画面を見てため息をついたリンセンさんは、「今日はもう帰りな」と私に言った。久々に聞いた言葉だった。
 リンセンさんは急な仕事が入ったらしい。私に帰るよう促し、それから言うか言わないか躊躇ったあと、深いため息をつくと、「しばらく来ないほうがいい。万が一会えても、いい思いはしないはずだ」と言った。意味を問いかけたけれど、私が発言をする前にリンセンさんはもう一度帰りを促してきて、私は急いで帰り支度をして事務所を後にしたのだった。
 そのせいで、私は携帯を忘れてきてしまった。それに気付いたのは夕方で、そのときは「明日取りに行こうかな」と呑気に構えていた。明日はホテルから少し遠いカフェにモーニングを食べに行こう。その近くになにか美味しいスイーツがあったら手土産に買っていこう。そんなしょうもないことを考えながら、いつでも清潔なベッドで横になり寝かけたときだ。「しばらく来ないほうがいい」と言われたのを思い出したのだった。

「もー!リンセンさんが急かすからぁ〜!」
 
 夜にこの辺りを歩くのは勇気がいる。カジノ街から外れ、誰も歩いていない細い路地は色んな意味で怖い。昼間以上にどんよりした空気に、どうか幽霊が出ませんようにと祈りながら小走りでノストラードファミリーの事務所へ向かった。
 入り浸るのが当たり前になった最近は、申し訳程度の軽いノックと同時に扉を開けている。リンセンさんたちが門番のような役割を果たしているのか、鍵はいつだって開いているのだ。そんないつもの調子で扉を開けて、中を覗く。
 
「失礼しまーす……あれ?」
 
 夜分だから小さめの声で呼びかけてみた。いつもならリンセンさん達が出てくるのに、今日は誰も返事をしてくれない。キョロキョロと部屋を見渡す。電気はついているのに、エントランスには誰もいなかった。初めてのことだった。

「どうしよっかな……」

 このまま中に入れば不法侵入になるだろうか。また明日出直す?けど、リンセンさんはしばらく来るなって言ってたし。少しだけ悩んで、私は足を踏み入れた。
 
「ま、いっか。携帯見つけたらすぐ帰るし」
 
 それに、ここはエントランスなのだから不法侵入には当たらないはずだ。多分。
 勝手知ったる他人の家ならぬ、マフィアの事務所。昼間座っていたソファの周辺を探すけれど、探し物は見当たらない。テーブルの上にもない。大理石に這いながらソファの下を覗くも見つからない。
 あれ?と首を傾げながら立ち上がったとき、室内に私の携帯の着信音が響いた。音を頼りに歩いていった先はリンセンさんのデスクだった。どうやら私より先に見つけてくれていたらしい。私が忘れていった携帯を片手に面倒くさそうにため息をつくリンセンさんの姿が簡単に想像できて、少し笑えた。
 着信はなんてことない、お母さんからの電話だった――「元気?」から始まり、すぐにお父さんの愚痴になる一時間コースのやつだ――からまた後でかけ直すことにした。無事携帯を回収し、ポケットに入れる。このままだとリンセンさんがびっくりするかなと思い、パソコン横に置かれていたメモとボールペンを拝借して書き置きを残した。
 さて、帰ろう――と素直に足を運べなかったのは、誰もいない今の状況をチャンスだと思った私がいたからだ。奥に続く扉、その向こう側。今なら行けるかもしれない。クラピカに会えるかもしれない。そんな邪な考えが過ぎってしまった。

 給湯室でもトイレでもない、その先に何が続くか知らない扉を開けると、廊下に出た。高そうなワインレッド色の絨毯が敷かれていて、その上を躊躇いがちに歩く。壁沿いにいくつか扉があって、奥には上へと続く階段と扉があった。どこに向かえばいいかなんて検討もつかない。ひとまず階段を登るべきなんだろうか?階段の先を見つめる。ボスと呼ばれているくらいだし、最上階とかにいそうだ。
 それなのに、私は上り階段ではなく、すぐそばにあるもう一つの扉に手を掛けていた。なぜかはわからない。けれど、胸の内がざわめいた。それに呼応するかのように僅かに震えだした手で扉を開くと、隙間からひんやりとした空気が流れてきた。薄暗い足元には地下へと続く階段が見えた。
 ここまでくればさすがに不法侵入だ。携帯を探してた、なんて言い訳は通用しない。リンセンさんたち以外の人に見つかればきっと大変なことになる。それに、地下室は嫌いだ。怖いし、嫌なことを思い出すから。それでも、その先に何かがあると私の直感が知らせていた。
 
 階段を降りた先には、またしても扉があった。というよりも、地下といえるこの場所にはもうこの扉しかない。取手に手を掛ける――鍵がかかっていない。ゆっくり、ゆっくりと扉を押し、すべてを開き切る前に目に飛び込んできた光景に思わず息を呑んだ。

「あ……」
 
 緋の眼が並んでいる――いくつも。いや、何十人分も。たくさんの花とともに。
 恐る恐る踏み入ったここは半地下のようだった。礼拝堂だったのだろうか、壁の真ん中には聖母が祈りを捧げていた。そう広くない部屋を照らすのは、窓の上半分から入り込んだ街灯と、緋の眼を祀るように並べられた蝋燭の光。そして、薄ぼんやりとした中で光る赤。
 無意識に口元を手で覆っていたのは、恐怖でも、気持ち悪さでもなかった。瓶の中に漂う赤は供えられているどの生花よりも鮮やかで美しく、まるで高価な宝石みたい――一瞬でもそんなふうに思った自分に吐き気がしたのだ。
 だって、ここにあるこの目の持ち主たちが、どうやって殺されたかを私は知っている。あの頃、ニュースでたくさん見たから。彼らは、人が行ったとは思いたくないような残虐非道なやり方で――これ以上は考えたくない。
 一体、誰が緋の眼をこんなにたくさん集めたのだろう。そんな疑問は湧いてこない。だって、これを求めている人を私は知っている。
 だから、湧いてくる疑問はただ一つ。一体、どうやって。どんな手段を使って。これだけの緋の眼を取り戻したのだろう。
 後ろから、階段を降りてくる音が響く。あの市長の地下室にいたときのような恐怖はない。振り向かなくても誰かわかるからだ。だって、彼が扉の鍵を締め忘れるなんて間抜けな真似をするわけがないから。
 
「浅はかな行動が自分の首を締めることになると、いつになったら気づくんだ」
 
 振り向いた先にいたクラピカは花瓶と花を手に、私を見ていた。コンタクトをしていないのか、その目はいつも見ていた素の色なのに、深く、暗く、冷たい。目が合っているはずなのに、私を見ていない。そんなふうに感じた。
 
「……クラピカ」
「はっきり言おう。これ以上私に関わるな。迷惑だ」
 
 辛辣な言葉に、胸が抉られそうになる。泣くのは飽きたけれど、それでも傷つかないわけじゃない。泣きたくないわけじゃない。私はそんなに強くないから。
 
「家までのチケットはこちらで手配する。明日にでもセンリツに持って行かせよう。受け取り次第、家へ帰るんだ。そして、二度と私に会おうだなんて馬鹿な真似をするな」
 
 会いたいから。伝えたいことがあるから。普通の暮らしをしていたら絶対に関わることのなかったところまで来た。来てしまった。それなのにそんなふうに言われるなんてな。
 クラピカはあえて遠ざけようとしているのだ。今の立場は危険が伴うから、そこから遠ざけるためだって。でも、わかっていても堪えるものがある。口を開けば泣いてしまいそうで、私は黙ってクラピカが私の横を通り過ぎて花を飾るのを見ていた。 
 ピンク、オレンジ、薄紫、白。私が名前も知らない色とりどりの花には、意味があるのだろうか。どんな気持ちで、クラピカはこの花たちを選んでいるのだろうか――そう思うと、違う意味で泣いてしまいそうになる。
  
「クラピカ」

 今、クラピカに掛けたい言葉は好きだとか、会いたかったとか、そんな自分の気持ちを伝える言葉じゃなくて。
 なんとか絞り出した声は、自分で思っているよりも涙声だった。それでも、クラピカは振り向きもしない。今日はもう、きっとなんの言葉もくれない。諦めた私がこの場を去るのを待っている。
 聖母と、天使と、たくさんの花に囲まれたこの美しくも悲しい緋の眼が、どんな下衆な考えを持った者たちの手に渡ってきたか、私は想像できてしまう。あの市長も同じだったから。
 これだけの緋の眼を集めるのに、クラピカは何を対価に支払ってきたのだろう。一体、何を犠牲にしてきたのだろう。どれだけ自分の身を、心を擦り減らしてきたのだろう。こればかりは想像できない。私の想像じゃ追いつかないような、辛い思いをしてきただろうから。
 気づけば、私の体は勝手に動いていた。振り向かないクラピカの体に抱きつき、背中に額を寄せた。「なにを……」と驚くように呟いたクラピカの背中に、「がんばったんだね」と声を埋める。
 震えているのはきっと私だ。それでも僅かにクラピカの背中が揺れたように感じた。私より大きなはずの背中はがひどく小さく、脆く思えた。まるで、出会った頃みたい。捕まえていなきゃ消えてしまいそうな儚さに私は抱きしめる力を強くした。

「えらいね、がんばった。がんばったよ……クラピカ」

 触れたところから、息を呑む気配がした。目頭が熱い。もう泣くのを堪えられなかった。私がクラピカにしてあげられることなんてきっとない。役になんて立てない。それでも、クラピカの苦しみを少しでも楽にしてあげたい。そばにいたい。そう願って仕方なかった。
 
2024.3.12

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