懐かしくて、恋しい匂いに包まれて、もっと近くに感じたくてそれを手繰り寄せる。しっかりした固くて滑らかな手触りは心地良い。けれど、シーツとは別の感触だ。はっと目を覚ますと、私は泊まっているホテルのベッドでうつ伏せになっていた。顔の横にはスーツのジャケット――クラピカのものだ。
 あれは夢じゃなかった。こないだのことも、昨日のことも。全部、夢じゃなかった。
 頭が痛くて顔が歪む。ずいぶん喉も乾いた。なんとか起き上がると、着替えすらしていなかった安物のドレスのストラップが肩からずり落ちた。
 ベッドの上にジャケットを広げる。私と一緒に寝ていたせいでくしゃくしゃになったそれは、随分上質で。襟の内側には、一般人じゃ手の届かない高級ブランドのタグがついている。あの頃にはこんなものを着ているところなんて見たことがなかった。
 二度も目が合ったのに、逸らされ、呼びかけすら応じてくれなかった昨日。あれは明確な拒絶だった。それなのに、なんで。関わり合いを持ちたくないなら、こんなことをするな。
 
「クラピカのばかやろう……」
 
 無視を決め込むならもっと徹底しろ。優しさを与えるな、ばか。だから私みたいなのにその甘さを見抜かれるんだ。逆にわかりやすいんだよ、あほ。頭がいいくせになんでそんなのもわかんないの。
 ぼたぼたと溢れ出る涙が逆に笑える。昨日あれだけ泣いて、センリツさんに慰めてもらったのにまだ枯れていなかったみたい。
 ベット脇のテーブル、そこには目を見張るほどのお金とコーヒー缶、そしてメモが残されていた。メモには私がカジノで稼いだチップ分に迷惑料がプラスされた金額だということと、従業員の不始末についての謝罪が記されていた。「なにかあればいつでも連絡して」の一文と番号。その下には、「目覚めの一杯にどうぞ」と書き添えられていた。綺麗さと丸みを帯びた可愛さを兼ね備えた字は、センリツさんが書いたものだ。彼女は泣き崩れてまともに立てない私をここまで送り届けてくれた。
 彼女はとてもいい人だった。私の話を聞いて慰めてくれ、言葉を選びながらも自分やクラピカの立場を教えてくれた。そこで知った事実は、「まさか」というよりは「やっぱり」だった。二人はマフィアであるノストラードファミリーの一員らしい。それも、クラピカは若頭という役職に就いている。どうしてそうなってしまったのか、私の浅い考えでは辿り着かない。けれど、きっとクラピカの目的に繋がることなのだろう。
 クラピカの人生に私がいたのはアパートで共に過ごしたときだけ。そこから先は、歩んでいく道が違う。見ている世界が違う。だってクラピカは道を、見るべき世界を変えないから。
 コーヒー缶を開ける。目覚めるにはちょうどよく、けれど起き抜けの乾いた喉には最低のブラックだった。不味くて、苦くて、渋くて、でも飲める。
 二年で人はこんなにも変わるの?――私は、私自身の問いに答えを出した。
 私だって変わった。この二年でお酒もブラックコーヒーも飲めるようになった。カジノだって出来る年齢だ。でも、変わらないものもある。少なくともこの気持ちは二年前と少しも変わっちゃいない。
 
「……上等だよ。やってやる」
 
 どれだけ泣いたって意味なんてないのだから涙を拭った。悲しいことばかり考えるのはもう飽きた。私は底抜けにポジティブなわけではない。けれど、ネガティブなわけじゃない。思い立ったら即行動!が私のモットーだ。
 今の私はどん底まで落ちて、すっ転んでいるのだから、もう這い上がるしかない。後先考えずに行動する私の性格を甘く見たでしょ、ばかクラピカめ。
 前にもあったじゃん。心配かけたくないからって、わざと冷たくして突き放したこと。どれだけ突き放したって諦めずに追いかけていって変な事件に巻き込まれたあの頃のこと、もう忘れた?
 私は自分の道を曲げることができる。あんたの視界に無理やりだって入り込むし、聞こえないふりをするなら耳元で好きだって叫んでやる。切れた縁だって、何度でも結び直すから。
 私に隙を見せたことを後悔してももう遅いからな。
 
 
 
 潤沢な資金は私に活力をもたらしてくれた。気合を入れるためにちょっとお上品なカフェだって行ったし、どうせならとショッピングも楽しんだ。あんな事があったからさすがにカジノには行かなかったけれど、観光名所の少ないこの街の僅かな観光地を巡った。単純な私はそれだけですぐに回復する。もう元気いっぱいだ。あとは前に進むだけ。
 そして、あの日から一週間が経った今日。クリーニング屋さんを出た私の足は、例のアジトに向かっていた。手に持つ高級ブランドのジャケットは薄いビニールに包まれている。「よし、やるぞ……!」気合を入れて、シーグラスのヘアゴムで髪を結んだ。
 マフィア、と聞いて足が震える程度には怖さはある。だけど、腹はもうとっくに括った。ここから先は行動あるのみだ。
 
「すみません!あなたたちのボスに用があるんですけどっ!」
 
 この前とは違い、最初から強くノックした。カメラが動き、私を映しているのがわかって、見せつけるようにジャケットを掲げた。中に誰かしらいるのはわかっている。インターホンはないけれど、私の声はきっと聞こえているはずだ。
 
「これ、ボスの。わかります?そういう関係なんです!」
 
 馬鹿笑いと言っていいほどの声が扉の向こう側から漏れ聞こえてきた。聞き耳を立てなくても聞こえるほどだ。さて、吉と出るか凶と出るか。たいした時間を待たずに、扉が開いた。「おいおい、笑かすなよ姉ちゃん」と強面の男の人が腹を抱えている。
 
「そういう関係ってどういう関係だ?」
 
 よっぽど面白かったのか、この前のやつれ気味のスーツの男も笑い混じりの声で口元を拳で押さえながら出てきた。肩を押された記憶が蘇り、少し身構える。
 
「そ、そのままの、意味です。ほら、このスーツ、見覚えありません?貸してもらったんです!」
「……まあ、たしかに。見覚えはあるかもな」
「でしょう!?クリーニングしてきたので、返したいんです!」
「だからといって素性も知らない人間を会わせる理由にはならないな。そういう関係と言うなら自分で連絡してはどうだ」
「えっ……いや、それは……」

 うぐぐ。あまりの正論に言葉に詰まる。作戦は単純だった。ジャケットを人質ならぬ物質にしてクラピカと会おうと思っていたのだ。だって今のクラピカの連絡先なんて知らないし。
 ここからどうクラピカと会う状況に持っていこうか考えあぐねいていた。本当ならセンリツさんに橋渡しをして欲しかったけれど、「手助けしてあげたいのは山々なんだけれど……今すぐってのは難しそうね」と電話したときにやんわりと断られてしまっていた。
 あ、そうだ。センリツさんだ。センリツさんもここのまあまあ偉い立場だ。
 
「センリツさんとも知り合いなんです!ほら、嘘ついてません!この前だって電話しましたから!」
 
 小馬鹿にしていた男の表情が変化する。見せつけた携帯の通話履歴をじっと見つめたあと、自身の携帯を取り出した。番号が一致したのか、「……本当のようだな」と呟く。周りの男たちは信じられないとばかりに私とスーツ、それから携帯を見比べる。
 
「ほら、ね?だからクラピカと会わせてくださいっ」
「まあ待て。確認してやるから」
 
 男はそう言うと誰かに電話をし始めた。きっとクラピカだ。聞き耳を立てようとしても流石に声は漏れ聞こえてこない。端的に私のことを伝えると――なんと、私のことを「ストーカーかと思ったけどセンリツとも知り合いみたいだぞ」と言っていた。ストーカーだって!?信じられない!――、最後は「わかった」と頷いて電話を切った。

「ど、どうでした……?」

 何と言われたのだろう。こちらへ、とクラピカの部屋に案内されるのかもしれない。緊張と不安と、僅かな期待でどきどきしていたら、手の中が軽くなった。あ、ジャケットが。
 
「これは回収しておけ、と。それからお引取り願え、とのことだ」
「え?……つまり?」
「残念だったな。帰りな」
 
 扉を閉められそうになり、慌てて手を伸ばす。「お、お願いです入れてくださいっ!」ドアノブを掴んで離さない私をタトゥーの目立つ男の人が「離せコラ!」と以前のように力技で強く押し出そうと手を伸ばしたときだ。
 
「おい、やめろ。丁重にとの指示だ。文字通りの意味で、だとよ」
 
 え?それってどういう……?と考えている間に、同じくその意味が飲み込めず納得がいかなさそうな男の手で、ドアノブを掴んでいた手を外された。あ、と声を出したときにはもう扉は閉まりかけていた。手を伸ばすも、もう間に合わない。
 
「ただのストーカーじゃなさそうだぜ」
 
 閉まる直前、スーツの男がそんなことを言っていた。
 だからストーカーじゃないってば!
 
 
 
 それから、私は毎日ノストラードファミリーのアジトに通い詰めた。強くノックしなくても出てきてくれるようになったあの男の人は、リンセンさんと言うらしい。他の人がそう呼んでいた。関わってみると全然怖い人じゃなかった。彼みたいな人がどうしてマフィアに所属しているのか甚だ謎である。
 「クラピカに会いに来ました!」と毎回決まり文句を言う私に、リンセンさんが深いため息とともに「帰りな」と門前で追い払う、そんなやりとりはもはや恒例行事だ。
 
「じゃあセンリツさんと会いたいです。とりあえず入れてください!」
「……段々図々しくなってないか?」
「図太くないとマフィアのアジトに突撃できなくないですか?」
「この辺りも治安が良いとは言えないから明るいうちに帰ってくれないか」
「クラピカに会わせてくれたらすぐに帰ります!」
「この問答、結構疲れるんだ。いい加減にしてくれよ」
 
 リンセンさんや強面の人たちに初対面の頃のような印象はもうない。というのも、二度目の訪問以来、彼らは私への当たりが柔らかくなったのだ。なんでだろうと首を傾げた私に、「丁重に扱うよう言われてるからな」と言うリンセンさんは心底面倒くさそうだった。苦労人なのかもしれない。だからといってクラピカと取り次いではくれないけれど。

「はあ……わかりました。また明日来ます!」
 
 リンセンさんの言うように、日が暮れる頃にこの辺りを歩くのは怖いので、明るいうちに退散することにしている。明日は手土産を持ってきます、と親指を立てた私に、「明日も来ようとするな」とリンセンさんはため息を落とした。やっぱり、苦労人なのかもしれない。
 
 アジトに通いだしてから二週間も経つと、天気に恵まれないときもある。今日がそうだ。雨が降りそうで降らなさそうな微妙な雲は、ホテルとアジトのちょうど真ん中付近で表情を変えた。いきなりの豪雨に振られ、体中びしょ濡れだ。それでもホテルに戻るという選択を取らなかったのは、これを理由に入れてもらえるかもしれないという打算が働いたからだ。
 
「雨に降られて寒いです!このままじゃ風邪を引いちゃうんで入れてください!」
 
 恒例行事が崩れる瞬間だった。扉を開けた先にいたずぶ濡れの私を見たリンセンさんは、「強硬手段に出たな」とこれまで以上の深いため息をついた。
 
「たまたまですよ。私、結構運が良いほうみたいで」
「この場合、運が悪いと言う方が正しくないか?」
 
 リンセンさんはこめかみに手をやってどう対応しようか悩む素振りを見せたが、くしゃみをした私を前にしてとうとう折れてくれた。「まあ……この場合なら許されるだろ」と私を中に招き入れてくれたのだ。良い人過ぎて、なんでこんなところで働いているのか本当に謎だ。
 アジトの中はソファやローテーブル、デスクが置かれていて、壁に沿って高い本棚があった。足元の床は大理石なのだろうか。照明が反射していて、眩しい。今日は皆出払っているのかリンセンさん以外誰もいない。
 部屋には更に奥へと続く扉がいくつかあった。濡鼠のままあちこち歩き回るわけにもいかず、入ってすぐのところでキョロキョロと辺りを見渡していると、一つの扉が開いた。
 
「まあ、びしょ濡れじゃない」
 
 そう言ってタオルを持って現れたのはセンリツさんだった。センリツさんと会うのは、カジノのとき以来だ。あのときとは違い私服姿の彼女からタオルを受け取った。お礼と「お久しぶりです」と伝えると、彼女は仕方なさそうに眉を下げて笑う。
  
「最近毎日来てるんですって?だめじゃない、こんなところに来たら」
「だめとは言われてませんよ」
「そうだったかしら?」

 この前も似たようなやりとりをしたことを思い出して、二人で顔を見合わせて含み笑いをした。
 受け取ったタオルはすぐに重たくなって、寒さのあまり震えだした私に、センリツさんは「私の部屋へいらっしゃい。着替えるものを用意するわ」と奥の扉の向こう側へ招いてくれた。途中、リンセンさんが「いいのか?」と暗に難色を示したけれど、センリツさんは肩を竦める。
 
「丁重にって話なんでしょう?風邪を引かれたら困るわ」

 まるで仕方ないわね、と言いたげな表情は果たして私に向けられたものなのか、それとも他の誰かなのか。
 センリツさんの用意してくれた服に着替え終わる頃、彼女は温かなカフェオレとチョコレートを持ってきてくれた。温かくて美味しいけれど、私が求めていた味とは少し違う。私はチョコレートなんて食べなくても甘いカフェオレを飲みたいのだ。微妙な表情をしていたのか、センリツさんに「お気に召さなかったかしら」と気を遣わせてしまって申し訳ない気持ちになった。
 
 いつもよりも遅い時間、雨上がりのあとの薄暗い曇り空。送ると言ってくれたセンリツさんに甘えて二人で狭い路地を歩く。「もうここには来ちゃだめよ。一応、マフィアのアジトなんだから」と至極当然のことを一般人である私に言い聞かせようとするセンリツさんに、生返事をする。こればかりはセンリツさんの言うことを聞く気はないからだ。

「センリツさん。クラピカはなんで会ってくれないと思いますか?もう私のこといやになったのかな」
 
 水溜りを避けながら歩いているのに跳ね上がる泥水が借り物の服に染みていく。本当はなんとなくわかっている避けられる理由を人から聞き出そうとする程度には落ち込んでいた。これまで前向きでいた気持ちが、曇天と甘すぎないカフェオレのせいですっかりしょげてしまったのだ。
 そんなことないわよ、とセンリツさんは優しく否定した。明日から来ないつもりなんて毛頭もないけれど、それでもいじけたくて、「でも」とグズると、「耳を貸してくれる?」と聞かれ、センリツさんの方へ体を傾けた。
 
「ここの通りってね、三階の窓からよく見えるのよ」
「へえ……?」
 
 ふと見上げた三階の窓。下から見ても中の様子なんてちっともわからないけれど、カーテンが揺れたのだけはわかった。
 今の話は私の問いかけと関係があった?首を傾げている私に向かってセンリツさんは「内緒の話よ」とどこか楽しげに微笑んだ。
 
「素直じゃないってのも困りものよね」
 

2024.2.15

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