遊ぶ約束をしたのにいつまで経っても誰も来ない。落とした消しゴムを知らない顔をして遠くに蹴られる。やりたくないクラス委員長を「先生、名前ちゃんがやりたいって言ってます!」と押し付けられる。わたしだけ渡されないプロフィール帳。
 成長してから思い返すと、あれはいじめだった。なのに、小学生の頃のわたしはいつもへらへらと笑っていた。クラスを取り巻く不穏な流れの中心部にいながら、わたしは自分がいじめられているという事実を認めたくなかったから。
 里香ちゃんと出会ったのはそんなドン底期だった。学期途中から復学してきた彼女は、整った顔立ちに手入れの行き届いた長いストレートヘアを靡かせてどこか近寄りがたい雰囲気をしていて、同級生だというのに自分達よりも数段大人びて見えた。
 隣の席だということやクラス委員長だということもあり、復学してきたばかりの彼女のお世話はわたしの仕事だった。お世話といっても彼女は優秀だったし、わたしと違って要領も良かったので手伝えることなんてせいぜい体調を崩して休んだときに連絡帳やプリントを家に持って行くくらいだった。密かに彼女に憧れていたわたしは、それが特別な任務のような気がしていた。
 
「名前ちゃん、今日はぼくが持っていこうか?」
 
 近所に住む、二学年下の憂太くんはなんとなく浮いた存在だった。男の子だけど大人しくて、良く言えば柔らかそうな、悪く言えばなよっとしていて頼りなさそうな子だった。身体が弱いのか風邪を拗らせて入院していたこともあった。あの時のわたしが気付いていないだけで、もしかしたら彼もわたしみたいにいじめられていたのかもしれない。
 ただの近所の子だった登下校班が同じなだけの彼と話すようになったのは、里香ちゃんが関係している。復学前から知り合いだったらしい二人は仲が良かった。待ち合わせ場所に誰もおらず一人で帰るとき、よく公園で二人で遊んでいる姿を見掛けた。
 わたしの憧れが、わたしに見せない笑顔を見せる。冴えない年下の男の子に。沸き起こる負の感情をわたしはうまく発散する方法を知らなかった。そして、二人を邪魔するかのように――いや、明確な意思を持って邪魔をしていた――「里香ちゃん!」と声をかけた。
 振り返った里香ちゃんは心底冷めた目をわたしに向けていた。二人の時間を邪魔をしてくれるなと、そう訴えかけていた。わたしは気づかないふりをして二人の間に入った。里香ちゃんを憂太くんにとられたくなかった。
 思い出せば思い出すたび、あの頃の自分がひどく惨めで可哀想な気分になる。
 
「ううん。わたしの仕事だから。先生にも頼まれてるしわたしがしなくちゃなの」
「そうなんだ。あの、ぼくもついて行っていいかな?」
「……わたし、学校帰りにそのまま行くの。憂太くんのママ、前に寄り道だめって言ってたよ。家の方向違うし、また今度ね」
 
 一度、今みたいについてきたがる憂太くんと放課後に二人で里香ちゃんの家まで宿題を届けに行ったことがある。帰りに行ったことのない公園を見つけて、二人で夕方まで遊んだ。その時の憂太くんはまだ一年生で、五時になっても帰ってこない憂太くんを心配したお母さんからわたしは直接言われたのだ。「名前ちゃん、ごめんね。憂太と遊びに行くときは一旦学校から帰ってからね」って。別にわたしがついてきて欲しいと言ったわけじゃないし、公園で遊ぶのだって憂太くんの方が乗り気だったのに。
 わたしは憂太くんが苦手だった。
 
「うん……わかった」 
 
 憂太くんは残念そうだった。きっと里香ちゃんの様子を見に行く口実が欲しかったのだ。しょんぼりした表情を見せられるとわたしが悪いような気にさせられたけれど、別にわたしは変なことは言っていない。憂太くんのお母さんに言われた約束事を守っているだけだ。
 
 里香ちゃんの連絡帳やプリントを持っていくことは、わたしだけの特別な任務なのだ、とわたしはわたしに言い聞かせていた。憂太くんに手を振ったあと、張り切って学校を出た。自分の家へ帰るときとは違う道。ザリガニが釣れる用水路を覗いてみたり、大きな犬がいる家の前を小走りで駆けてみたり、美味しそうなパン屋の匂いにお腹を空かせてみたり。冒険をしている気分で、わくわくした。
 次は行ったことのない道を通ってみようかな。そう思って細い路地を覗き込み、いやな感じがしたから足を踏み入れるのをやめる。そんなわたしの背中を誰かが押して、思わず叫び声を上げた。
 
「ひぃっ!」
「ひぃっだってー!名前ちゃん驚きすぎー」
「そこ入らないの?おばけとかいるかもよ。ねえ、見えた?」
 
 振り向いた先にいたのは同じクラスの女子二人だった。二人でくすくす笑いながら目配せをしていて、わたしは居た堪れなく思いながらもへらへらと笑顔を浮かべた。
 
「おばけなんて見えないよ〜」
 
 理科室にいた見覚えのないクラスメイト。飼育小屋の隅に隠れた奇妙な動物。使用禁止のトイレから呼び掛ける声。校舎の影から手招きする誰かの手。
 小さい頃はそれらが見えるのが普通だった。周りに言っても見間違いだと笑われた。けれど、小学校に上がっても言い続けるわたしを周りは気味悪がった。いつしか、苗字名前はおばけが見えると言い張る変な子というレッテルを貼られた。
 隠される上靴。すぐに失くなる消しゴム。使った覚えがないのにすべて折れていた色鉛筆の芯。ランドセルにつけていたぬいぐるみは気付けば目玉がなかった。
 そんな日々が続き、ようやくわたしも気付いたのだ。皆が見えないものを見えているわたしはおかしいってことに。それからはへらへらと笑うことを覚えた。いじめられていると思いたくなかった。
 
「あたし達、今から遊ぶんだ。名前ちゃんも来る?」
「いいの?」
「いいよ。じゃあまた後で学校の近くの公園に来てね。絶対だよ!」
「……うん。絶対行くね」
 
 くすくす、目配せをしながら笑う二人を前に、わたしはまたへらへらと笑った。この約束が守られることがないことをわたしは知っていた。これまで何度もすっぽかされているのだ。その度に、「忘れてた」「別の公園に移動した」「そんな約束したっけ?」と言われ、わたしはまたへらへらと笑うのだ。次は忘れないでね、仕方ないね、あれ?わたしの勘違いかも、なんて言いながら。
 萎んだ気持ちのまま、里香ちゃんの家に行った。インターホンを押しても里香ちゃんは出てこなくて、おばあちゃんに連絡帳を渡した。里香ちゃんにはお父さんとお母さんがいなくて、おばあちゃんと二人で暮らしている。
 里香ちゃんのおばあちゃんはいつもニコニコして「あら、わざわざありがとう」と言ってくれるのに、値踏みするように上から下までねっとりと見てくるからわたしは苦手だった。帰り道は行きと同じ道を通るのにわくわくしなくて、ただ下を向いて帰ったことをよく覚えている。
 
 
 
「ねえ、悔しくないの?」 
 
 元気になった里香ちゃんが登校早々わたしに話しかけてきたのは、朝の挨拶でも連絡帳のお礼でもなかった。おはよう……?とひとまず挨拶を言ったわたしに挨拶を返すなんてことはせず、里香ちゃんは「あの二人」と昨日わたしを驚かせた二人に目をやった。あの後、言われた通り学校の近くの公園に行っても彼女たちはいなかった。いつもどおり、わたしは約束をすっぽかされたのだ。
 
「私の家の裏の公園で遊んでたの。キンキン騒いでうるさかった。名前のこと、わざわざ大きな声で喋ってたよ。わかってるくせになんで遊ぶ約束するの?」
 
 里香ちゃんは常に大人びていて、きっとわたしのことを馬鹿だと思っていた。意地悪なことはしないけど、明らかにわたしを下に見ていた。優しくしてくれるのはいつだって大人の前と憂太くんの前だけだった。
 それでも、わたしにとって里香ちゃんだけが希望だった。わたしのことをいじめない。
 綺麗で可愛い、わたしの憧れ。
 
「女の子は三人集まると難しいんだって、お母さんが、言ってたから」
「だから仕方ない?」 
「……うん」
「悔しくないってことね」
「……そうだよ」
 
 サラサラのストレートヘアを耳にかけて、里香ちゃんは笑う。くすくす笑いでも、へらへら笑いでもない。小馬鹿にしたような、そんな大人びた笑い。
 きっと、憂太くんの前ではしない。だって里香ちゃんは憂太くんが好きだから。
 近所だからとわたしと憂太くんが一緒の方向へ帰るとき、里香ちゃんはわたしの肩を引いて耳元で囁くのだ。「憂太のこと、好きにならないでね」って。わたしが憂太くんを好きになるわけがないのに、このときばかりは里香ちゃんは年相応の顔をする。恋をして、嫉妬する。そんな顔。わたしには向けられない。
 
「弱いね」
 
 そんなのわたしが一番わかっているよ。そんなことを言えるはずもなく、わたしはまたへらへらと笑った。
 
 里香ちゃんが死んだ。前触れもなく、一瞬で。また明日ねって言ったわたしに「またね」と手を振ってくれたのに。
 里香ちゃんの家で行われたお通夜では、黒っぽい普段着を着たクラスメイトが並ぶ。わたしをクスクス笑う子たちも今日ばかりは泣いていた。
 お父さん側のおばあちゃんが死んだとき、お通夜では棺の窓から死んだおばあちゃんの顔が見れた。でも、里香ちゃんの棺には窓がなかった。里香ちゃんの綺麗なサラサラヘアーも、大人びた顔もなにも見れなかった。里香ちゃんはトラックで轢かれて頭が潰れてしまったのだと、誰かの保護者が「可哀想に」を口癖のように繰り返しながらこそこそと話していた。
 お通夜の帰り、「辛いわね」とお母さんはわたしを気遣った。頷いたけれど、死んだ姿が見れなかったからなのか、わたしはまだ里香ちゃんの死を受け止めきれないでいた。だから、涙が出なかった。
 
「名前ちゃん」
 
 後ろから呼ばれた声に、わたしより先にお母さんが振り返った。憂太くんのお母さんといくつか言葉をかわしたあと、「憂太くんよ」とお母さんがわたしに声を掛けた。けれど、わたしは振り向けずにいた。
 どうしてお母さんは振り向けるのだろう。背筋に悪寒が走って、この場から逃げ出したくなる。今まで見てきたものとは桁違いの何かがいる。そう確信した。
 
「……お母さん、帰ろう」
「ええ?どうしたの急に」
「早く帰りたいのっ!」
「そう……わかったわ。乙骨さん、ごめんなさい。この子まだ混乱していて」
 
 ここから早く逃げたい。都合好く解釈してくれたお母さんは憂太くんのお母さんに頭を下げた。わたしはその瞬間から歩き出していた。一刻も早く、この場を離れなければ。
 「名前ちゃん、待って」憂太くんのか細い声がわたしを呼ぶけれど、聞こえないふりをする。憂太、と憂太くんのお母さんが咎めるように名前を呼ぶのに、憂太くんは歩き始めたわたしを追いかけてきた。
 待って、名前ちゃん。待って、お願い、待って!
 バタバタと後ろから足音が聞こえてくる。追いつかれるのが怖くて足を早めるわたしを憂太くんの手が掴んだ。強く引かれて、わたしは振り向いてしまった。
 
「名前ちゃん、見えてるの」
 
 胃袋が震え、吐き気が止まらない。全身を逆立てるように立った鳥肌。熱もないのに寒くて仕方ない。
 憂太くんの後ろには巨大な化け物が立っていた。目がないのに、見られていると思った。鋭く長い歯をカチカチと鳴らす音が聞こえる。
 違う、見えない、知らない、首を振りながら答えた。見えない、と言ったのにわたしは化け物から目が離せなかった。わたしはこの化け物を知っている。
 泣きべそをかいたわたしに追い打ちをかけるように、憂太くんは言った。「里香ちゃんなんだ」と。
 わたしの憧れた里香ちゃんは、サラサラした髪を靡かせて、大人びて笑う、そんな子で。こんな化け物じゃない。否定したくて、また首を振る。
 こんなの里香ちゃんじゃない。そう訴えたくて化け物から憂太くんに目を向けた。わたしの手を掴んでいた憂太くんはどこかほっとしたように笑った。
 
「よかった。見えてるの、ぼくだけじゃないんだ。また三人で遊べるね」
 
 なぜ笑うのだろう。怖い。もう三人ではないのに。憂太くんはこの化け物を勘定に入れている。
 恐ろしくなって、わたしは憂太くんの手を振り払って逃げた。「憂太ァ!」と地を這うようなおどろおどろしい声は澄んだ耳触りの良い里香ちゃんの声からは程遠かった。

2024.1.21

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